2003年
3月31日




暖かいうららかな春。2月26日の夜、関西ツアーから12日振りに長野の自宅に戻った。目の前のことに追われながらも、穏やかな新しい日常にささやかな幸せを感じている。朝目覚めた時、かわいい丸い寝顔の八星とアマチの微笑みがそこにあり、雑多な日常に彼らが存在してくれることがなにより嬉しい。しばらく会えなかった分、多少めんどうでも自分の仕事は後まわしにして、彼らの話を聞き、彼らの内的必要を満たしてあげたい気持ちになる。

最初は広く感じたこの家も、用途に応じて部屋を使い分けて楽しんでいる。場所によって気分も変え、朝日のあたるところで朝食を食べ 、昼の光が射しこむ部屋で仕事をして、洗濯だの、食事、片付け、お風呂を焚くことなどは、立ちあがる度に思いだし広い家を走り回りながら、家事とこどもたちの世話をしている。八星は、わたしを探しては家を走り回る。このごろはすっかり見つけるのが上手になり、いつも同じ部屋にいるのでおかしい。

28日には、まだ雪の残る守屋山のハイキングコースを歩いた。歩いてるうちにこどもたちは、よりあどけない仲のいい兄弟に変化していく。ハワイの海でもそうだったけれど、命あふれる自然に抱かれるようにして遊ぶと、大人もこどもも、自分らしい輝きを取り戻す。

おととい、ずっと気になっていたごみの分別をした。3月1日に、この家に引越してきたけれど、他のことに追われて、ごみは適当にためてあった。燃えるごみはお風呂の焚きつけに盛大に使っているが、プラスチックごみは適当になっていて、リサイクルできるプラスチックを洗い分別。生ごみは家の裏にとりあえず埋め、そのあたりにわずかでも野菜を植えてみたいなと思っている。生ごみをあつかうと、畑をやらなくっちゃと感じてしまうんだよね。穴を掘った時の土の感触がとてもここち良かった。家は山と畑、川に囲まれ、使われていない畑もありそうなので借りたいなと思うが、出かけることが多いのでどうしようか?

きのうは近隣の人たちと沢水の源泉を掃除。山を少し上がったところに源泉があり、鉄の網、丸太、ビニールでおおいをしてある。源泉の水は二つのコンクリートのタンクを満たしてから、長い水路を流れて各家庭まで届くようになっている。我が家は当面、水道を引かず、この沢水だけで暮らしてみることにした。沢水が水洗トイレには配管されていないのでトイレの隣にあるお風呂の沢水をバケツで運んで流す手動水洗トイレ方式にしたのですが、いかがですかね? ところで源泉の水タンクには沢蟹がいてアマチも八星も、しばし遊んだ。ふきのとうも摘んだりして、村のおばちゃんやおじちゃんとも、こんな時に親しくなれるから嬉しい。

さて、今回のツアーで、初ジョイントした民族楽器演奏家のロビンさんとの大阪は大野ホールでのコンサートでは、もう1段階クリアな自分の音がイメージされる触発材ともなったようで、自分の中心から広がる確かさとくつろぎが存在してる音と歌を改めて探りはじめた。今まで、バイオリンにあまり目を向けてこなかったけれど、素朴で自由な内的流れをバイオリンでも表現できかもしれないと感じ、暮らしの合間にバイオリンの即興に自分の憩いの時間を見出している。
 
また、兵庫は甘地の友人が「ほんとの気持ち」という小人数でのトーク&ライブを企画してくれた。久しぶりに再会した彼女たちだったが、離れていても、同じ時代に変化の波を受け、共に育っていることを実感。それぞれのありのままを語り、聞きあうという集まりが心を癒し、繋がりを深める。わたしの歌も彼女たちと同じように迷いや苦しみを乗り越えるプロセスの中で受け取り、歌ってきたものだということが、改めて理解され愛されたことは貴重な体験だった。

彼女たちのこどもたちは、学校に通わず、家をベースに育っている。異年齢のこどもたちが日々、集い、制限なしに遊び育っていく健全なエネルギーと、大人たちは大人たちで繋がり、地域で自給的ゆるやかなコミュニティーを実質的に作っている希望に満ちた方向性を受け取って、わたしの胸にも、パートナーと距離をおいたことによってむしろ可能となってきた新しいコミュニティー的暮らしのイメージが根をおろしたようだ。