2001年7月16日   



金曜日から日曜日まで、急に歌う機会が増え家族で地域の町に降りていた。月末に日
本に発つので冬こちらに帰ってきた時のための薪とりや、日本語で歌う練習、日本へ
持っていくHEMPクラフトを用意する...など、山でやることがたくさんあり、コンサ
ートのスケジュールは積極的には入れてなかったが、先週ひさしぶりに地域のファー
マーズマーケットに参加し、その時に会った人達から是非にと今週も呼ばれて3日連
続で歌うことになった。
 
たいてい、歌うといっても歌う時間より山から現地までの移動時間の方がはるかに長
い。今回は3ケ所共ホームタウンで、片道二時間以内だったが、つい先日友人から安
くゆずってもらったばかりのワーゲンバスに寝具やキャンピングストーブを積み込ん
で3日間、湖のほとりで自炊し車に寝泊まりして町でのんびり過ごすことにした。地
域の人たちの集まるアート親交会のギャラリー、ファーマーズマーケット、教会で歌
い、地域の町では既に顔なじみのたくさんの人たちと久しぶりに顔をあわせた。わた
し達はこのところ、日本にコンサートツアーで出かけていて長期的にいなかったし、
アメリカに帰ってきても遠い町へ歌いに出ることが多く、地域で歌ったのは久しぶり
だったのかもしれない。ファーマーズマーケットでは、何人もの人たちが、私達を発
見して嬉しそうに声をかけてきた。”今朝、あなたがたのことを考えながらここへき
たのよ。CDなんども聞いているわ。ああ今日はなんていい日なのかしら”二人の女性
からおなじ言葉を聞いた。そして、多くのひとたちがわたし達がしばらくこの地域で
歌っていなかったことを知っていて、”会いたかったわ。どうしていたの?”と近況
を聞いてくれた。

(1)アートギャラリー
金曜日の夜はアート親交会のギャラリーに地域のアーティストの作品に交じって、友
人の木村浩子さんの絵がスペシャルゲストで飾られ、その夜のレセプションでわたし
達も歌った。浩子さんは重度の障害者であるが足指を使って、優しい表情の絵をかく
。以前、私達の住む山に半年暮らした月下さんという墨絵画家と浩子さんが2年前日
本で電撃結婚し、去年の春、月下さんが浩子さんをアメリカまで案内して来たことが
きっかけで浩子さんは英語の勉強にアメリカに来るようになった。日本語で話すのも
身体をねじり絞り出すようにして話すのに、60才を超えた浩子さんは、さらに自分
の世界をアメリカにも広げようとしている。わたし達は前回の日本ツアーで、彼女に
呼ばれて沖縄まで訪ねた。伊江島の彼女の主催する土の宿でも歌い、その時出会った
若者達も浩子さんの介護のため今回一緒にきていた。彼女は沖縄で電動車椅子に座っ
て私達より早く走るように海までの道を案内した。風が強く、浩子さんのかぶってい
た麦わら帽子が飛んだのを、あまちがおっかけて拾ったこと、浩子さんの愛犬が車椅
子を転がるように追いかけていたシーンが今浮かんでくる。
 小さなギャラリーでのレセプションは、ポットラックと呼ばれるアメリカでは日常
的な1品持ち寄りパーティー形式で、浩子さんも含めた5〜6人のアーティストが自
分の作品の近くにいて、観覧する人々とやりとりしていた。わたしは、風景写真と陶
器の展示が気に入ったが、パーティーの間は、久しぶりに会う顔なじみの人たちとの
会話を楽しんだ。浩子さんはその日、足指に筆をゴムで固定し、墨で書を描くデモン
ストレーションをした。わたしと和生は浩子さんをまん中に挟んで、浩子さんが描い
ている間、歌を歌った。この日、3時間程の間に狭い会場に300人の来場者があり
それぞれがワインや料理を片手に持ちながら観覧し会話に花を咲かせていた。わたし
達の生声の歌も、浩子さんの懸命に描く姿も人込みや雑談の中に埋もれたが、わたし
達3人は会場の一角で心を通わせ、何人かの暖かい目が私達を見守った。
 この夜、わたしは自分の目をひいた写真のフォトグラファー、トーマスと家族ぐる
みで知り合いになった。彼らはサンフランシスコから数カ月前に引っ越してきたばか
りで、以前は日本にも4年住んだことがという。わたしはトーマスのお母さんと、写
真展示の前で会話をしたのだが、彼女の人柄の暖かさにわたしの心は動いた。その後
、彼らは家族みんなでで浩子さんと会話をしにわたしのところまでやってきた。トー
マスの夢が、とてもシンプルでエコロジカルなストローハウスをたてて住むことであ
ったり、音楽のエンジニアをやっていたこと、わたしが彼の写真を気に入り、彼と彼
の奥さんがわたし達の歌を好きになったことなどで、すっかり近しい感じをお互いに
持ったように思う。来年の春、山の美しい季節に、是非我が家に遊びにきてね、とお
誘いし名刺を交換した。また、浩子さんとは今年の夏は長野で、秋には九州で一緒に
コンサートをしようね、ということで別れた。浩子さんは、日本の各地でも個展をし
ていて、機会があれば私達の歌を彼女のネットワークに響かせようと誘ってくれる。
彼女を介護するためにアメリカまで初めてやってきた二人の若者達も、山の我が家に
訪ねてきてくれて以来、すっかり馴染んでいる。こども達は彼らにレセプションの間
遊んでもらい、別れを惜しんでいた。
 翌朝はファーマーズマーケットで朝が早いので、この夜はファーマーズの開かれる
ワイナリーの駐車場に車を泊めて眠ることにした。パーティーでは、あまり食べなか
ったのでファミリーレストラン風のピザやへ行くことにした。もう、夜10時ちかい
のに田舎町のレストランは賑わっていた。夏休みの毎金曜日の夜、この町の公園で入
場無料の野外コンサートが開かれる。コンサート帰りのほがらかな人の群れだ。いつ
も静かな山で眠っているので、こんな時はかえって新鮮だ。ビールとサラダ、ピザを
注文し、子供達は店の入り口のコインをいれるゲームにしばらくへばりついていた。

(2)ファーマーズマーケット
翌日、土曜日のファーマーズマーケットでは朝9時から12時まで、私達は好きなよ
うに歌った。和生とふたりで、あるいは、それぞれがソロで。わたしは、バイオリン
だけで朝のマーケットに溶け合うを即興演奏したりする。休日の田舎のマーケットの
のんびりした喧噪、トルコ石のような鮮やかな青空、芝生は青あおとしていて、くる
みやプラムの木々の緑が爽やかだ。ふたりのこども達は自分達がどのくらい長くこの
場所で待たなくてはいけないか、身体で覚えているとみえて今年から全く手がかから
なくなった。芝生に二人で座り込んで、にらめっこを熱心に興じているのを見ると微
笑ましくて、笑い出しそうになる。時々、話したそうに待ってる人の気配を感じると
演奏を休んで話をする。このマーケットでわたし達は地域の人たちと出会い続けてき
た。わたし達はバイオリンケースを広げて、投げ銭をいただく他、自作のCDやHEMPク
ラフトを販売する。去年まではマーケットからも、いくらかのギャラをいただいてい
たのだが、今年は経営が厳しいということで生産者からの野菜やクラフトだけになっ
た。
 この日のわたし達のメインの曲は友人に英訳してもらったばかりのわたしの新曲。
マイクを通して歌ってしまうと歌も定着するし、ぎこちないところがはっきりする。
なんども、構成やら英訳を訂正しながら、同じ歌を歌い、歌を完成させていった。来
週そうそうにアシロマというところで急に歌うことになった。800人の人々が全米
から集まる教会のビッグイベントだ。そこでこの新曲を歌いたいのだ。実はきのうの
レセプションの間も、アメリカ人の詩をかく友人にこの英訳をみてもらって一部を書
き直したところだ。
 マーケットも終わりになる頃はじりじり皮膚が焼けるような暑さだ。わたしたちは
いつもファーマーズの後は、10分程車を走らせたところにあるハイランドスプリン
グという湖で泳ぎひとここちつく。ここは、あまり人家もなく木々が茂って緑も豊か
で、湖の水は澄んでいる。木陰にはピクニックテーブルが設置してあって、ゴミ箱や
トイレもあるがいつもきれいに掃除されている。湖のほとりにはブラックベリーが熟
していて、子供達はベリーを摘んだり、泳いだり、網で魚を捕まえたり自在に遊ぶ。
この日は山に帰る必要もないのでピクニックテーブルにガスストーブを出して、御飯
を炊き、野菜スープを作った。広い湖を4往復泳いで心地よく疲れた身体は冷えきっ
て寒いぐらいになる。日なたで暖まって、こどもとおやつを食べたり、湖が風で波立
ってキラキラと光っているのを眺める。山の我が家は静かで広々としているが、田舎
町のこの湖のほとりもそれなりに静かで気持ちがいい。水のきらめと木々、言葉も交
わしたことのない人々、アメリカ人とメキシコ人達が家族で同じこの湖に憩い遊んで
いる、そのことがわたしの心に平和を与えてくれるのだ。

(3)教会
日曜日の朝は、わたし達がこのアメリカで最初にレギュラーとして歌うようになった
地元の教会の礼拝で歌った。先週、この教会の人がファーマーズマーケットで私達を
見つけて声をかけてきたが、早速、ミニスターからも電話があった。”ゆり!帰って
たのか!”という電話口での嬉しそうな声を聞て、”アメリカに帰ったよ!”と連絡
しなかったことが悔やまれたと同時に地元の多くの人たちに愛されていたことに気が
ついた。そして、とりわけデイビットは情の厚い人であったことも。そんなわけで、
日本からのおみやげを持参して求められた日に歌いにきたのだ。
 デイビットはいつも礼拝の話しの間に自作の歌を歌う。わたし達は彼の演奏にバイ
オリン&ギターとコーラスを即興的に重ね、また自分たちの歌も歌う。この日の彼の
歌は彼がある教会で親身になって相談にのってあげ友人でもあった人の死を悼んだ歌
だった。その人は素晴らしい人だったが深刻なアルコール依存症であったらしい。彼
は幼いこどもと妻を残して、飲酒運転で壮絶な死を迎えてしまったのだ。デイビット
は残された妻とこどもが”火にくべられた鳥のように”泣くシーンを歌いながら自身
も泣いていた。
 礼拝の後、わたし達とデイビットはこれからのことを話し合った。わたし達はたぶ
ん11月にはアメリカに戻るが日程は明確ではない。また、現在、わたし達はアメリ
カでの長期滞在許可をステップを踏んできちんととれるように働きかけようとしてい
る。彼はそのことにも協力を惜しまないと言ってくれた。また、わたし達の留守中、
町で車を預かってもらえるよう教会で顔なじみのリーとマイクに頼んだ。冬にアメリ
カに帰った時、ふもとの町に四輪駆動の車がないと自力で家まで帰れない。マイクは
快く承諾してくれて、リーは11月22日のサンクスギビングのホームパーティーに
招待してくれた。わたしには、その招待は”それまでにはアメリカに帰るように”と
いうふうに聞こえた。
 わたし達は教会から交通費をいくらかいただく他、CDとHEMPのクラフトを販売して
いる。この日の売り上げは、CD4枚とHEMPのブレスレット3本にチョーカー3本、ネ
ックレスが1本。わたし達のアメリカでのシンプルな生活を支えるには十分。20人
くらいの地元のささやかな集まりでも私達の生活は支えられていくのだ。ありがたい
なあ、と思う。(吉本有里)