2002年10月10日 




(1)帰宅したばかりの芝平の山の家にて こども編 
(2)札幌〜ニセコ〜伊達紋別〜青森編


(1)帰宅したばかりの芝平の山の家にて こどもたちと

今朝は6時半に起きて、眠そうな子どもたちを車にのせてスクールバスが迎えにくるバラ口まで送った。住みはじめて間もない芝平の我が家は標高1200M、人の住んでる家としてはこの家が最後で、隣の家まで1キロある。バラ口で空っぽのスクールバスに乗りこむのはアマチと八星を合わせて4人の子どもだけ。そして、スクールバスに向かって、いつまでも手を振って見送ってる親はわたしだけ。今朝はそのことに気がついて自分で笑ってしまった。

7日の夜コンサートツアーを終え、青森から羽田へ飛行機、羽田からは友人の車で伊那まで。2週間ぶりに再会したこどもたちは愛しかった。八星は学校に行き始めたせいか安定していて、いつものようにゴネたり、泣いたりしない。わたしは彼がどれだけゴネたり泣いたりしても出せるだけ出したらいいという考えで叱らず受けとめることに努めてきたせいか、八星はわたしを前にすると崩れやすかった。八星も学校という世間に出て、自分でバランスをとったように感じた。ツアー中にも電話して、「友達できた?」と聞くと、クラスのこども13人の名前を半分くらい思いだしながらあどけない声で伝えてくれた。彼の心の世界にそれだけさまざまなキャラクターが住みはじめたのは嬉しい。
 しかし、ひさびさに会った子どもたちが翌日から学校に行って家がガランとしてしまうなんて、なんて寂しいことだろう。こどもたちも同感だったようで、この2日間は学校はお休みして一緒に過ごした。一緒に行動する中で少しずつお互いを確認。彼らを和生や学校に任せてツアーに専念した2週間が、こどもたちをより愛しむ気持ちに。こどもたちの存在、喧騒が心地よかった。八星が昨日わたしに、「ママにはなんでも話せるけど、ママがいないと話せないことがある。話さないと自分の中にたまって嫌な気持ちになってくるの。」と言ってきた。子育てしてると、彼らの側にいつも居てあげたいという気持ちと自分の仕事に専念したいという気持ちがせめぎ合う。だから、彼らを連れてツアーをしていたけれど、側にいても彼らに心を向けてあげられない状況というのは、もっと申し訳ない。全てを同時に選ぶことはできないから、やれる時にやれることに専念しようと思う。自分のやれることに限界があるという事実、そして本当はもっとしてあげたいんだという気持ちが自分を謙虚にし、愛を育ててくれる。

わたしはこれからしばらくは家に。数日したら、入れ替わって、和生が赤穂の観音おひらき祭り〜北九州の祭りへ単身で出かける。

学校に通わせることについて、八星とアマチの言葉から考えさせられている。シリアスにではないが今のところ八星もアマチも「学校やめたい。」と思いはじめているようなのだ。「勉強ばっかりで遊ぶ時間がない」と八星。わたしは基本的にはこどもたちが1日中遊んでる姿が好きだ。遊びの中で退屈したり、集中したり。彼らの心と体が育ってゆく、柔軟な世界を尊重してあげたいと思っている。オーストラリアで滞在したサドベリースクールは今でもわたしの心にある。子どもの自主性を最大限に尊重した学校でカリキュラムが一切なかった。こどもたちは1日中、森の学校で遊んでいたのだ。わたし自身、小学校から大学まで通った後、専門外だけど実は一番好きだった歌を仕事と決めるまで遠回りしたから、学校で一定の教化を勉強することよりもそれぞれの天性をのびやかにのばせるスペースがある方が大切だと痛切に感じている。さて、どんな感じでそれを現実化させてゆこうかな。無理せず、きっと道は見つけられるだろう。

(2)札幌〜ニセコ〜伊達紋別〜青森

今回のツアーは、岩手までは1ヶ月前から決まっていたが、北海道や青森にまで足を延ばすことに決めたのは東北へ出る直前という急な話だった。家族ぐるみでおつき合いしている岩手のアンソニーと恵さんがカリフォルニアのサクラメントでシュタイナーカレッジに通っていた頃、今は伊達紋別でひびきの村というシュタイナースクールを創設された大村祐子さんがカレッジの日本人の部を教えていらして親交があった。アンソニーの気持ちの中には、わたしの歌とひびきの村が繋がったら素晴らしいなという直感があり、テープを送り打診した答えがかえってきたのが東北ツアーへ出る直前。シュタイナースクールはドイツ人の今は亡きシュタイナーによってこの世にあらわされた学校で、それぞれの子どもの魂の資質が損なわれることなく自然に開花していくようにそれぞれに、成長の時期に合わせて働きかけてゆくきめ細やかで霊妙なアプローチをしている学校。わたしはかねてから関心を寄せていたし、これまでもなにかと縁があった。
「学校としては年間計画があるので、もっと事前でないと受けられないし予算もないのですが、今のひびきの村には必要な歌のような気がして有志でコンサートを企画します。」と学校に親として関わっている木村さんの電話での屈託のない明るい声と、アンソニーたちの「決まってよかったね。」という嬉しそうな顔におしだされて、いつになく急な話だったが、北海道ゆきを決めた。なんとなく今回は、交通費を保証してもらうことも先方に負担をかけすぎるような気がして、数ヵ所、他にも声をかけて補おうと考えた。縁とタイミングに導かれて結果的には札幌〜ニセコ〜伊達〜青森と、連日コンサートのハードスケジュールとなったが、なにしろどのコンサートも実質的な宣伝期間が3日〜1週間と超、急な企画の上、直接コンサートを聞いたことのある人は現地にはほとんどいない。冷静に考えてみたら、余計に交通費もかかり、結果がどうなるかわからず、心を試されるツアーとなったんだよね。わたしとしては、単身で出てきてるのだから経済的責任を考える。そして、自分がそれを果たさないと、家族が、どうにもならないと
いう現実の重さに胸が痛んでしまった。そして、結局、各主催者に、せめて交通費くらいは出るようにコンサートを組み方を工夫して欲しいと率直に話したんだよね。それで、みんなの心が揺れた。不安になったり立ち直ったり。なにしろ準備期間もなければ、わたしの歌を直接聞いたこともない。縁と直感だけで受けてくださった話だったから。

ひびきの村の木村さんからは「経済的に保証できないかもしれないから、来ない方がいいんじゃないか。」と札幌に出発する前日、心配して電話がかかってきた。でも、その時にはわたしの方がすっかりおまかせの境地に入っていた。最初から、ひびきの村にコンサートに行く事に関しては迷いがなかったのだから、そこには必然の流れを感じていたわけだ。そして、タイミングと流れで、超急にもかかわらず、他の3ヵ所のコンサートが決まった。そういうことはめったにあるものではない。きっと全てうまくいくだろうし、うまくいかなかったならいかなかったで、その経験から学び今後の動き方を慎重にしていこうと。

 札幌では広島で出会った湯川さんの紹介で「青い空流れる雲」というベジタリアンレストランで歌う。たった一人の知りあいの湯川さんは託児に努めてくださって、外でこどもたちと遊んでいた。歌い始めた時、聞いてくださるお客さん全員がはじめてわたしの歌を聞いていることに気がつき、なんだかはっとした。そうか、わたし新しいところに来てるんだ、と。関西から東北には必ず何割か知ってる人が来てくれている。今回はほんとに新規改め、出会いの旅なんだ。
 
ニセコではプロのスケートボードプレイヤーの高久さんの主催で布の丸い家、パオで歌った。この時もカリフォルニアの我が家をほうふつとさせる家の床に丸くなって聞いてくださっている全ての人(高久さんも含めて)と、はじめての出会いであることに改めて気がついた。数日の連絡で集まってくださった全く知らない30人以上の人達に囲まれて、生声で1時間半、歌を聞いてもらっている。一瞬、カリフォルニアのまるい木の家の自宅で歌ってる錯覚に陥った。まわりには広大なあの山が広がっているのではないだろうか?と。とても不思議だった。はじめて会う見知らぬ人達がアメリカの山の自宅まで来てくれて、歌を聞いてくれてるみたいな。男の人たちの何人かは寝そべって目をつぶっていた。円盤の中みたいな空間だったなあ。スケードボードやサーフィンに生きているという何人かの男性が「優しい気持ちになり心が落ち着いた。」とお礼を言ってくださった。こちらこそ、ありがとう。

 伊達紋別での、ひびきの村でのコンサートは5日。学校では午前中、ミカエル祭が催され全校生徒が神話を野外で演じた。ニセコから学校まで送ってくださった高久さんの家族と共に父兄に交じって観劇したが寒風に吹きさらされ、旅で疲れたわたしに、頭痛と眠気が襲った。ところが、かろうじて座って見ていたような、このミカエル祭が意外にも意味深くわたしの心に触れたことに後で気がついた。この物語のテーマは勇気。自分で勇気を持って決断した時、天使ミカエルがやってきて後ろで共に働いてくれる。そして幼い天使たちもやってきてくれる。まさに、今回のツアーはそうだったなあ。たくさんの天使は目に見える形では、心よくコンサートの準備に関わってくださった各地の人々や来てくださったたくさんの方々。普通は仕事で家を空ける場合は収入の保証がなかったら仕事は受けられないと思う。けれど、わたしの場合はこんな急な保証のない形ですら、ひき受けたことで結果的には、この世に養われてゆくのは、奇跡的なことだと思う。頭で考えたら無謀だと思われることでも、心がそうしようと告げるなら勇気をだして決断してみよう。きっと見えない力と流れが一緒に動き出してくれるだろう。

昼には学校を見学に来られているビジターとの昼食会があり、木村さんの進行でゲストのわたしが質問を受け答えすることになり、アメリカへ行ったいきさつだとか出産の話をした。この時、話を聞いた親子がその縁でコンサートを聞くために1日滞在をのばし、翌日の電車まで一緒になり、いろいろ話をすることになった。公立の学校の教師をしている娘さんは精神的にかなり行きずまりを感じていたようだ。なにをというわけではないが話を聞き、日本や海外で出会ったさまざまな学校のありかたやネットワークを紹介した。夕方からはユース(高校)の事務所開きの最後に2曲、歌う。この時、大村祐子さんが夜のコンサートの宣伝をしてくださった。ミカエル祭という学校の公式行事の夜のイベントは学校全体にはアナウンスしにくい学校の事情があったらしく、こうした直前のささやかな宣伝が項を奏した。

夜は石倉ミュージアムというところで歌った。夜のライブには、ひびきの村のこどもの父兄、先生、地域のひとたち50人くらいが集まり、集中力の高いいいコンサートとなった。先生や父兄、ビジターと言葉を交わしたが、みなさんそれぞれに歌をしっかり受け取ってくれて来れてほんとによかった!わたしのここでの役割は、個人が自分の人生を自分の責任で内的直感にもとずいて自由に生きてゆくという生きたサンプルであり、それを歌っていることにあったような気がした。つまり、シュタイナーの人智学は、シュタイナーの素晴らしい宇宙的直感にもとずいてあらわされたものだけれど、それが素晴らしいとなると、その形に縛られて本来それぞれに備わってるはずの直感にしたがって生きにくくなる場合もある。そのへんを掴み直し、生き生きと学校に関わり生きたいというひびきの村での内的確信の必要が今回、わたしという人材を呼んでくれたように感じた。これはわたしの感じたことにすぎないけれど。大村祐子さんともいい出会いができた。彼女はオレゴンの山の頂にあるエメラルドの湖、クレーターレイクに訪れたことがあるという。わたしが、その湖に触発されて書いて歌った歌詞と、彼女が受け取ったインスピレーションが重なった。「今度は家に泊まってくださいね。」と。きっとまたゆっくりお会いできる時もあるだろう。

そして、6日は青森。ここでは長野で出会ったばかりのゆうこさんの家族にお世話になった。彼女たちが青森に帰省する予定の頃、わたしがこの辺を通過するというタイミングで、ゆうこさんは20年、会っていないという同級生と長野からの電話のやりとりでコンサートを準備してくれた。国際美術館の野外ホールと喫茶店パオズで昼、夜と。パオズには岩手から先日のコンサートを聞きに来てくれた宮澤さんが家族を連れて、ギターとハーモニカを持って駆けつけてくれた。パオズではなんだかすっかりくつろいで、歌うことに集中しきった。北海道を一人で駆けぬけて、青森で仲間に迎えられて、もうただ安心したというかんじかな。宮澤さんもついこの間出会ったばかりなのに、もう懐かしい仲間のように感じた。ギターが特別上手というわけでもないが、コンサートを1回、聞いただけでギターを持って駆けつけてくるという即断力と存在の暖かさがなんともよかったな。翌日はパオズのコンサートに来てくださった自然食品店の橘やさんでゆうこさんのミツロウキャンドル講習会と予定外のミニコンサート。そしてゆうこさんたちと共に飛行機と車を乗り継いで一路、長野へ。

仙台〜岩手〜盛岡〜青森〜北海道は、また行くにちがいない。一度の出会いがどんどんふくらんでいくのがコンサートツアーの面白さ。あ〜あ今日はやたら長く書いてしまいました。世話になったみなさんに事後報告しなくちゃ、と思ったらなんだか省略できなくて。読んでくださってありがとう。旅はしばらくお休みで〜す。しばらく芝平にいる予定です。