2002年5月7日  オーストラリア・アデレード



 
 ここ数日、ひさびさに頭痛に悩まされている。
 かつてカリフォルニアの山の家から週末、町へパフォーマンスへ出かけると、日頃家族だけですっぽり山にくるまれている世界から人中へ入って、当時幼かった子ども達への配慮や、歌を歌ったり多くの人と対応することなど、自分の中でバランスをとりきれず、頭痛になってしまうことがよくあった。
 でも、どうしてだろう? 2月末から日本〜オーストラリアと、ずっと子連れの旅の間、頭痛はおきなかったのに。

 5月4日はアデレード郊外で毎週末開かれているというチャンガマーケットにミュージシャンで参加してみた。誰一人知ってる人のいない、初めての国のローカルなマーケットで、木陰にバイオリンケースを広げ、5/5夜のタマーのコミュニティー、エデンパークでのコンサートのチラシを置いて、和生と歌う。
 子ども達がかわいらしい瞳で立ち止まり、耳をすませる。クラフトや野菜を売る週末の市は、ノーマイクで歌うにはにぎやかだが、それでも3人の人がCDを買い求めてくれ、バイオリンケースへのみんなからのチップもそれなりの金額になった。知らない国でこうしてストリート的に歌うと、その国と肌でふれあえるような気がする。そしてこの国でもミュージシャンとして草の根的に生きてゆけるという感じを確かめることができる。
 そしてこの日の午後は、ハンドルクにある土の宿で、沖縄在住の木村浩子さんの主宰するジャパニーズティーパーティーに歌で参加。浩子さんが私達をオーストラリアへ呼んでくれた人だ。けれど、彼女は言葉も体も不自由なため、段取りがわるく彼女の気持ち通り歌う場が設定されていない‥‥ということを、毎回私達は行ってから気がつかされる。そして彼女の気持ちを汲んで、自力で歌い、その場に雑多に流れていくいろんな人の動きの中に歌を位置づける努力をする。
 午前中、久々にストリートをしたおかげで、気持ちの準備ができていた。けれどお茶をたてていたお茶の先生に、歌はじゃまにならなかったかなあ?
 そしてティーパーティーの後は、障害者の保養施設で働くエリザベトの家へ、私とタマーで。この夜は、毎週タマーとエリザベトが二人で長時間のメディテーションをしているというので、特別に私も参加させてもらったのだ。
 エリザベトの山の家は、私のアメリカの家のように、静かでシンプルな暮らしぶりだった。彼女の夫フランクの作った木の表情をそのまま生かしたテーブルや小物に感動して、その気持ちを伝えると‥‥シャイな彼は「プレゼントだよ」ともなにも言わず、柿の木の花瓶とプラムの木で作ったという美しいしゃもじを私の前に置いた。しばらくして、ようやく贈り物だと気づいた私。アカペラで歌を歌って、お礼の気持ちを伝えた。翌朝、エリザベトが私と二人になった時、私の手をしっかり握ってお礼を言ってくれた。
 “このあいだ施設であなた方が歌ってくれた時、私は幸せで満たされた。けれど家へ帰って、どんなに悲しかったか。それは私の幸せをフランクと分かち合えないから。彼はほとんど人の中へ出ない。でもあなたがここへ来てくれて歌い、彼を満たしてくれた。ありがとう。私はフランクをとても愛してるのよ‥‥”と。
 エリザベトの小さな瞑想小屋に、タマーと3人で泊まり、日曜日は暗いうちからメディテーション。眠くなってしまったので、私は星のまたたく明け方の空の下に座る。暗闇を裂くように鳥が鳴く。2種の鳥が違う方角から間を置いて鳴いている。
 朝があけていく美しさを、久しぶりに私は体感した。けれど体は冷え切ってしまった。
 
 この日、5月5日は、ジャパンフェスティバルへ。アデレードのシティーで開かれたフェスティバルで、私達は忙しく3回歌う。なぜ忙しく歌ったかというと、浩子さんの意向がフェスティバルのオーガナイザーに正確に伝わってなかったため、プログラムの中に、日本からこの日のためにオーストラリアへ渡った私達の演奏時間がきちんと組み入れられていなかったから。苦肉の策で、この日の司会のジュディーが走り回って、私達のパフォーマンスの場をその場で作り、あっちこっちと移動しながら歌ったのだ。
 そしてこの夜は、日本〜アメリカで出会い、今回アデレードで9日間私達の家族を受け入れてくれているタマーのコミュニティー、エデンパークでのコンサート。
 ジャパンフェスティバルからエデンパークへ行く道で、私達は迷ってしまった。迷った末、到着したのが6時40分。7時からのコンサートに無事間に合った! 
 この日、ジャパンフェスティバルでも何度も歌を聞いてくれたトリッシュとトニーという夫婦が、夜のコンサートにも来てくれて、家へ招待してくれた。というわけで、5月6日はトリッシュとトニーの家へ。浩子さんの介護に日本から来ているしのぶちゃんも誘った。彼らの家は、かつて15〜20年前、インドのグルについて始まったスピリチャルコミュニティーのひとつで、今ではコミュニティーとして機能しなくなり、各自で暮らしているという。パーマカルチャー的に、自然エネルギーを生かした家のつくり、果樹の植え方など、実際見せてもらうのは初めて。赤土をかためた壁の部屋は平温で、ガラス張りの温室のような部屋は暑く、陽の当たらない方向に壁に穴のあいてる部屋は食糧置き場で涼しかった。トイレはアメリカの我が家と似ていて、オガクズをかけて、ゆくゆくは畑の肥やしにするとのこと‥。
 トリッシュとトニーと、すぐ近くの貯水池で泳ぐ。あんまり水が冷たかったので、泳ぎ始めると体の芯から熱がわき上がってきて自分でも驚いた。トリッシュが“水の中で目をあけてごらん。光がきれいだよ”と教えてくれるけど、私はそれどころじゃなかった。頭痛が激しくなってしまったのだ。でも私は、こうして泳ぐのが大好きな私でさえ泳がないような冷たい水で泳ぐ人達とたてつづけに出会っているのは不思議。オーストラリアは今秋。彼らは冬も泳いでるとのこと。
 池のほとりでランチを食べる。トリッシュは織物もやるとのこと。私の着ているさおり織りのベストをしげしげと見て、“次に会う時は、私もそういうベスト着てるからね”と言ってた。チャーミングな人だ。
 彼女の娘の通ってるシュタイナースクールで明日、歌うことに鳴っている。またきっと会えると思う。