2002年1月12日   やっと一人で出かけられるようになりました


新年になってから、2回程、ひとりで車を運転してUKIAHまで行ってきた。CANDICEの
クラスを受講し、彼女の家に初めて泊めてもらい深夜パソコンにむかい、朝は温水プ
ールで泳ぎ、コインランドリーで洗濯をすませ買い物をして山へ。わたしたちの生活
もこの数年で山と町のよさ両方を併用するようになり随分変化してきた。また、一人
で運転して出かけたのは、なんと渡米後のこの9年で初めての経験だった。

9年前、アメリカに渡り山暮しを始めてまもなくあまちが産まれたので、必然的に和
生が運転して、わたしがあまちを抱いて車に乗るようになった。片道1時間弱の山道
はなかなかでこぼこしていて、車をいためず、溝にはまらないように運転するのは技
がいる。おまけに町では英語をあやつらなくてはならないので、外交的なことは和生
におまかせしてわたしは町では赤ちゃんに専念して和生の傘に守られていた。この役
割分担はこどもたちが小さいうちはずっと続き、どちらかというとあれこれ思い付き
動きたくなるわたしの意図を和生が管理し世話することになった。そのうち免許をと
れる枠が法律上変わり、わたしの立場ではとれなくなった、と知らされてわたしは運
転することを諦めてしまった。どこへ出かけるにもわたしは和生にまず提案し、和生
がうけいれないとどこへもいけないので事前にあれこれ考えを巡らせ、受け入れても
らえる程度の提案を出すようにしていたので諦めた分だけストレスが溜まった。和生
は和生で、わたしのいきたいところに連れていってあげてるのにわたしが感謝しない
と言っては腹をたてていた。

1年前、この状況に耐えられなくなって、ある日免許をとりに行った。法的にとれる
はずもないし、自分がどこへでも連れていってあげるからいいじゃないか、という和
生に断固として”とにかく免許センターへつれってって。”とわたしは聞かなかった
。するとすんなりなんの問題もなく試験をうけられることになりその日の内にペーパ
ーテストをパスした。

実技もパスして免許がとれたのは1年前。でも車が壊れるといけないから、天気が悪
くて危ないから、僕もいくから等など、なかなか運転させてもらえない。あまちの学
校の送り迎えに、”わたしが行く。”言いはって出かけた。やっぱり自分で運転して
行きたいところへ行けるのは全然ちがう。あまちが学校にいってる間大好きな湖で思
う存分泳いだ。帰りには友だちとゆっくり話し込んだ。あまちもその間、友だちのこ
どもと遊んだ。和生も八星とゆっくり山の家でいい時間を過ごせたようで満足してい
た。ここ数年は歌う機会が増えて家にいられる時間が少なくなってきていたから、わ
たしの起動力も必要な時期に来ていたのだと思う。

日本では基本的にわたしは自分の思いをそのまま実現できるサイクルを身体で知って
いる。この1年で日本に3回行き、その感覚を思い出した。人里離れたアメリカの山
の家では基本的に和生に相談し、彼の庇護のもとに暮らしてきた。でもこのところリ
スクをおかしてでも自分らしくありたいという思いがわたしを押し出してくる。誰で
も初めてのことは最初はできないけれど、そこで立ち止まってはいられない。

CANDICEの家に泊めてもらった日、彼女が待望して改装したばかりのガラスの張り方
が凝った美しいバスルームに案内してくれた。また、夜9時過ぎ、彼女と一緒に帰宅
した時、彼女の家のリビングには薄く明かりがともりクラッシック音楽が流れていた
。”わたしは帰宅した時、音楽が流れているのが好きなの”とCANDICEはいう。和生
だったらどう感じるかなと思いながら、素敵だなと思う自分の感性を味わった。

わたしのアメリカでの生活は電気の消費を最小限におさえている。わずか2枚のソー
ラーパネルで蓄電した電力には限りがあるから。そのシンプルな生活の枠組みを疑わ
ずにここまできた。わたしは山の夜の暗さ、静けさが好きだ。でも、このところ、各
々の個性を楽しむゆとりと自由、そこから産まれてくる仕事の豊かさを希求し始めて
いる。そんなわけで1週間ほど前、バックアップ用のジェネレーターを友人から借り
てみた。ジェネレーターのまわる近くで満天の星をあおぎながら薪で炊いたお風呂に
はいった。やっぱりうるさいけれど、安心するんだよね。これで夜も明かりをつけて
仕事ができる、と。将来的にはソーラーパネルやバッテリーの容量を増やすと共に風
力か水力発電を併用したい。そして町にも自分たちのスペースを持つようになるんじ
ゃないかな。町といっても日本でいえばたいそうな田舎の一角に。そして週に何日か
はこの山に帰ってきたいと思っている。