共生の世紀――21世紀型ヴィジョンの実験サイト

2000年8月1日〜9日


1日〜2日設営ワーク/3日キャンプイン開始/4日開場/9日かたづけ

長野県大町市黒沢高原 サンアルピナ鹿島槍スキー場 
アクセス: 中央道経由長野道 豊科IC〜 41km /JR中央線経由大糸線 信濃大町駅〜バスを運行
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2000.8.2更新

【祭りへの想いを寄稿してくれました】


「いのちの祭り」は「ノーニュークス」

 祭といえば、コンセプトだの、根回しだのと、真先にとび回った不肖「お祭りポン太」だが、さすがにその役目はごめんと、今回の「いのちの祭り 2000」に関しては、お客気分で傍観している。
 「お役目御免」は酸素吸入器のせいだけではない。今回からコンピューターが祭りの事務レベルで登場し、インターネットやEメールを使えない人間は、企画段階で外されてしまうという情報格差が、フリークスの世界にも新しい差別構造を形成しつつあるからだ。
 そんなわけで今回の祭りには、ぼくのアイデアも企画も一切入っていないが、それでもカウンター・カルチャー世界のひとりとして、コンピューターを「持たない者の強味」で参加したいと思っている。なにしろコンピューターには「Y2K」のような、大きなドジがありそうだから。
 さて、「88いのちの祭り」が「ノーニュークス ワンラヴ」のコンセプトのもとに、皆の力をひとつにして原発を止めようという盛り上がりがあったのに対して、今回は先ず高ボッチが、次に八ヶ岳が、そして駒ヶ根が、という具合に長野県下の3ヶ所が名乗りを上げ、6月、8月、9月に、三つの「いのちの祭り 2000」を催すという、信じられないような企画が発表された。
 ただでさえ圧倒的マイノリティであるフリークスが、自らの手で仲間を分断し、競争意識を煽り立て、全体の不信感を高めるという、権力側が大喜びしそうなこの企画を実現できなかったのは、場所の件などでことごとく挫折したからだ。傷ついたとはいえ、これをもって幸運とすべきだろう。
 かくて派閥意識や自己中心主義を捨てて、共同でやることになり、5月20日、何回目かのミーティングが小渕沢で催されたので、ぼくはこの一回だけ出席し、鹿島檜スキー場が内定したことを知った。しかしこの段階ではまだ実行委員会はなく、コンセプトも未定で、そのうえ祭りの輪郭を決定するはずの「レイブ組」が、全員欠席とあっては話が進まなかった。
 その次のミーティングには参加できなかったが、最終日をレイブ・パーティーにすることが決まったと聞いて、ぼくの念願がかなったと思った。従来のロック・コンサート中心の祭りと、レイブ・パーティーを共同でやること、それがカウンター・カルチャー運動の文化的伝承の儀式、サイケデリック・セレモニーだと、ぼくはかねてより想ってきたからだ。
 音楽に対する世代間ギャップが相当なものだとはいえ、若者のいない祭りなんて、星のない夜空のようなものだ。「88いのちの祭り」には、数千人もの仲間が集ったけど「踊っているのは、オジンとオバンばかりじゃん!」と、小娘から言われたものだ。当時20代の主流はパンクだったから、ロックの兄貴にすり寄る気がなかったのはよく分かる。しかし今回の20代はクールなテクノだから、親子の確執を超えられるかも知れない。
 そこで問題は親と子の世代が祭りの会場で出会って、一緒に踊ったとして、さて一体何を語り合うのだ。この祭りに共通する話題、コンセプト、そのリアリティこそが問題なのだ。かつての「いのちの祭り」には「ノーニュークス ワンラヴ」という明解で、傑作なコンセプトがあった。
 このコンセプトを追求して、90年は大山で、91年は核サイクルの現地六ヶ所村で、ワンラヴを祭ったものだ。だからフリークスは「いのちの祭り」と聞けば、「ノーニュークス ワンラヴ」という下の句が、自然に出て来るようになっているのだ。
 ところが今回の「いのちの祭り」は、この重要なコンセプトを捨ててしまった。そして新しいチラシにはどれもこれも次のように書かれている。
 「共生の世紀−21世紀型ヴィジョンの実験サイト」
 これは何だ? 変節か? 裏切りか?
 そもそも「ノーニュークス ワンラヴ」を訳せば、「核と人類の共生はありえない」という意味だ。こんなコンセプトでは六ヶ所村現地で共に祭った村人や、ビッグマウンテンの守り人たちと、どうやって連帯できるのだ。
 「反対派か、賛成派か、中間の道はない」というのが、闘争現地のリアリズムだ。自分は決して傷つかない安全圏に居ながら、「共生」などという抽象的で観念的なことを言う奴を、ノーニュークス派の連中は決して信用しないだろう。
 そこでぼくは何人かの社会派に問い合わせたところ、「そこまでは気づかなかった」とか、「あれはよく分からん」とか、「誰が決めたのかな?」といった、他人事のような返事しか返って来なかった。コンセプトなど事務レベルの問題があるかのように。
 やむなし色んなチラシやミニコミ、ファックス通信誌などを調べたところ、「共生の社会への道を拓こうとする地域通貨」という文章が見つかった。どうやらプログラミングの過程で、この文章の頭だけが切り離され、あちこち転がされた結果、タイトルの下に治まったので、コンセプトらしくなってしまったということか? 要するにこれは、コンピューターが勝手に決めたコンセプトと言えそうだ。だから言っただろう、信頼できない、と。
 「共生の社会への道」というなら、一基でも原発を止めてからにしよう。88年に「ノーニュークス」を叫んで以来、まだ一基も止めていないどころか、十数基も増産され、まだ計画があるのだ。この恐るべき現実を21世紀に遺しながら、何が「共生の世紀だ」。ぼくらが原発を止める力を持った時、共生は可能かも知れない。しかしその力を発揮できない限り、共滅はあっても共生はありえないだろう。
 だから古かろうが、ダサかろうが、対抗文化の旗印である「ノーニュークス ワンラヴ」を忘れてはならない。若者たちとの会話の切り口もまた、そこにあるに違いない。
 故に仲間たちよ、マスコミが三大タブーとしているもの、即ち、原発について、大麻について、天皇について、大いに話し合おう。タブーについて話し合うことこそ最高の癒しであり、反逆は、時のなりわい。

                            7.17 ポン 山田塊也