2004年3月13日 長野 高遠 一人になると鬱になる日


元連れあいがネパールから帰ってきて、2〜3日前から、こどもたちが父親の家に泊まりに行って我が家は、わたし一人。静かになった。周囲はお年よりがほとんどの過疎の村だし、雑用に追われ、家で忙しくしていると誰とも会わない日が続いたりする。そうすると、空間的に周囲の流れと具体性の中では繋がっていない(メールや電話は別として)わたしに、孤独な感覚がやってくる。
 
わたしの日常は、やりたいことに対しての手が足りなくて、仕事仲間の下村さんが来ると来るなりに煙突掃除や、薪割り、はては、こどもの部屋の大改革まで頼んで、大人二人でバタバタと気になることをすませてしまう。やっぱりレコーディングや音合わせは、日常がある程度片付いていないとクリアな気持ちで集中できない。 下村さんも、音楽のためばかりではなく田舎暮らしの体験にも魅力を感じて頻繁に来てくれているので、わたしもすっかり遠慮がなくなった。その他、思いがけないお客さんの連続する日もある。先週は八星のクラスの子たちが(遠いので親の送り迎えで)遊びにきてくれて すごい騒ぎ。ガラスまで割れてしまったが、いい日だった。八星の体と心が躍動し、夜眠る前に誰にも言われてないのに長い日記を書いていた。内容は子どもたちどうしのけんかのことやら、お昼ごはんの時○×ちゃんの口がスパゲティーのケチャップで真っ赤になっていました。というようなたわいもないこと。この日は、八星も雪道で転ばされたと泣いていたのに、「今日は楽しい1日でした。」と日記を締めくくっ
ている。

いいことばかりじゃないけれど、人と体当たりで交わると、心が躍動し生きる力になっていくんだなあ、と思う。

子どもたちも急にいなくなって一人になると、洗濯、掃除、コンサートツアーのためのメールのやりとり、DMを書いたり、ヘンプアクセサリーを編んだり、歌ったり、やってることは変わらないが、すっぽりと一人だけの空間で独自の動きをしているわたし。急に味気なくなる。人間って1日中なにか考えてるものなんだと改めて自覚した。一人だと考えが空周りし始めて、山積した仕事が気分の上にも、のしかかってきて判断の切れが悪くなる。気がねのいらない誰かと仕事を分かちあうのは楽しい。一人で仕事し、一人で暮らすのは今のところ、わたしには味気ない。散歩するのも、おいしいご飯を作るのも、人と共にあってやる気になる。一人だと省略してしまう。考えすぎると、自然と鬱っぽくなるということを、時々やってくる一人の長〜い時間に感じるようになった。でも、もちろん一人暮らしを楽しく張りがある日々にすることも、やろうと思えば、きっとできるんだけれど、頑張って生きるのはつまらない。繋がりの中でプロセスを分かち合うことが、生活の潤いだとこの頃感じるようになった。

そういえば、ここしばらくは病気のアマチが家にいて、わたしが買い物や歯医者に出ると、追っかけるように携帯で電話してきていたんだったなあ。八星は学校から帰った時、わたしがいないと携帯を5分おきにかけてきていたし。やっぱり、誰かとの絆で人って生かされて気持ちに張りを持てるんだなあと感じる。

隣の孝子は、「あったかとう」という高遠の自然学校のディレクターをしている。都会の子どもたちが「あったかとう」のさまざまな企画に参加するため長野にやってきているし、大人たちのためのワークショップなども企画していて、村おこしとしても仕事に取り組んでいる。孝子も我が家も女手一つということで、手が足りないなりに、それぞれに頑張ってるなあと思う。

今朝、回覧板を廻したついでに孝子の家に寄り、ワークショップのために泊まりで出かけるという、いつもながら忙しそうな彼女と縁側で話をした。

孝子はウファーという、若い旅人たちに仕事してもらい、食べもの宿は提供するシステムに登録し、来月から4〜5人のホームステイを受けいれることを決めたそうだ。「絶対、一人じゃ無理なことやってるのよ。有里んとこもそうしたら?」
というので、そんなふうに若いスッタフが一緒に暮らすという生活を想像しながら坂道を下って我が家に帰った。

なにか問題があった時、そのことをきちんと話し合えないという関係性の限界を感じて、わたしは元パートナーとの関係を解消した。人となにかを共有する時は、コミュニケーションのありかたが大事だと思う。どちらかが間違いをしたとしても、そのことをめぐって心を開いて話し合うことができていれば心は溶けていくし、問題であったこともお互いを深く理解しあうためのきっかけにすぎなくなる。そもそも、完璧な人はいないし、なにが正しいかなんて一概には決められない。ただ、お互いの内面に関心を持ち、理解し合あおうという姿勢が、関係性を豊かなものに育てていく。問題というのは、どちらかがわだかまりを持つできごとがあった、ということで、そのわだかまりが溶けるプロセスを共有できれば、関係性は、より豊かになっていくし、わだかまりが積み重なれば心は閉ざされていく。

そんなわけで、共同生活を始めるとするなら、お互いを理解しあうための時間、瞑想とシェアリングのようなもの、そしてまた、お互いの心の願いがどこかで触れあってるというような目には見えないけれど、柔らかな光のようなものに包まれてる安心感が必要じゃないかなと思ったりしていた。

同居するかは別としても、ある程度の人数の仲間たちと協力しあって繋がって補いあい、心も暮らしもまわってゆく生活がしたいと思う。いずれは田んぼもやりたいし。ツアーの時に、家で子どもたちと日常をキープしてくれるスッタフも必要だなあと思う。さて、わたしは、どんなふうにそれを実現していこうかな。自分が、どんな暮らしを望んでいるのか、改めて心に温めてみようと思う。自分のほんとうの望みを明確にすると、不思議と現実はそのようになってゆくものなんだよね。


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