2004年1月25〜27日 長野 タイ子連れ1ヶ月の旅


22日に1ヶ月振りに南国タイから雪国日本の長野へ帰ってきました。
ほんとにご無沙汰していましたが、みなさんはお元気でしたか?
 
飛行場に着くなり子どもたちの言うには「冷房が入ってるのかな。冷蔵庫にいるみたいよ。」
 無理もありません。タイでは東北部の村パイの夜は寒かったけれど、日中はどこも暑く、泳いでいました。南の島、コージャムでは小船をチャーターして珊瑚礁の虹色の魚たちの世界をシュノーケリンクし、カヤックを漕いで離れ小島に渡り美しい貝殻を拾ったり、水平線に沈む夕日を柔らかな白砂に座って見入ったり、夢のようなひとときもありました。3人とも背中の皮が日焼けでむけてしまってるんです。

1ヶ月間、携帯電話にもインターネットにも触らず、日常を手放して旅に没頭したおかげで とらわれていたなにかが消えたみたい。やりたいことをやって暮らしているんだから、忙しくても仕方ないと思いこんでいた気がするんです。自分の願いを胸に抱いて何事も軽視せず本質から取り組めば、急がなくとも有機的な繋がりの中で仕事も遊びも子育ても1つにの流れの中で廻っていくという感覚がやってきているんです。目先のことにとらわれず未知の世界を旅するって、ちょと冒険だけどほんとに面白い。なんらかの形で必ず、その時に必要な答えが与えられるわけですから。何事にも原因(動機)と結果の法則が働くんだなあと。 予測不可能の旅に身を預けると、自分の本質が、今求めてることと出会えるって感じ。
  
日頃、暮らしてる世界は言葉も習慣もわかって安心できるけれど、自分の生活パターンにも定番ができてしまいます。そこから出ることはサバイバルでもあり、緊張を必要とするけれど、直感に導かれ行きたいところに行くと自分の日頃の枠を越えた気づきが訪れ再生の機会になるように思うのです。

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東北部の小さな村パイでは、12月31日と元旦の夜、前半、旅の友だった下村さんと二人で街角でストリートライブをしました。1月2日に企画されたパイの画家夫婦が経営するmoon cafeでのコンサートのチラシを撒くため。未知の国とダイレクトに出会うにはストリートで歌うのが一番です。いったいどんな反応を示してくれるのか事前には想像もつきません。
 バイクタクシーの客待ちの交差点近くのバス停にバイオリンのケースを広げ、静かに歌い始めました。始めは、バス停のベンチに座っていたリス族のおばさんだけが熱心に見守っていましたが(彼女は最初は身振り手振りで手作りの品を、わたしに売ることに熱心でしたが人垣に囲まれて諦めて立ち去りました)、2〜3人が足をとめると次第に人垣が増え、車も通行できないくらいに。10才になるアマチが聞き入ってる人々にチラシを手渡す役をしてくれました。思いがけずたくさんの人々が、わたしの静かな歌と下村さんのギターの音色に長時間足を止め、十分すぎる程の投げ銭。(20バーツ札が50枚、1000バーツくらい入ってました)下村さんも数曲歌い、喜ばれてました。持って行った日本語のCD7枚も初日で完売。(タイの物価に合わせ300バーツで販売)もっと持っていけばよかったなあ。お金よりも、出会いの貴重さをひしひしと感じました。その時しか出会えないわけですからねえ。バンコクから来ていたタイ人の二人組は「夏にバンコクでコンサートを企画してるので是非歌いに来
てください。」と誘ってくれました。またバンコクにも行きたいような気がしてます。
 最終日、バンコクのカオサンストリートのゲストハウスに泊まり、屋台でビールや焼きそば(10バーツ 35円)を食べれる庶民的な裏道も好きになりました。ちなみに、帰国する前の夜は、旅の疲れと垢を落すため、ちょっと贅沢して温水シャワー(水のシャワーしか使えないところも多い)とプールつきの新しいゲストハウスに泊まり、深夜のフライトだったので1泊とハーフデイ借りてくつろぎました。とはいっても1000バーツ、3500円程度です。1ヶ月こどもたちとタイで暮らし、南へ北へ大移動をし、毎食レストランで食べ、おもいきり買い物して、滞在費は20万くらいでした。なんどか擦りにあってお金をなくしてるようなのですが、いったい幾らお財布にいれてたか思いだせなかったので、そのうちいくらがなくなったかは不明。プロの擦りの存在もタイと日本との経済格差がひき起こす不均衡のあらわれなのだと思います。

クラビーから船で1時間程の南の小島ジャム島では、美しい砂浜に澄んだ海、草木で編んだ簡素なバンガローを1晩100バーツ(350円)で借り、1週間を子どもたちと過ごしました。電気はなくランプで過ごし、子どもたちは明け方から起き出して砂浜に砂絵の傑作を1日がかりで製作していました。夜の内に満ち潮がきて朝になると砂絵は跡形もなく、新しい砂絵を描き始める子ども達。タイにいる間はゲームボーイやカードもないので、子どもたちに流行ったのは、ビールのキャップのコレクションと、貝がら集め。また、夜はロウソクの蝋をいろんな形にして遊んでました。子どもたちは2週間程学校を休み、1ヶ月の旅を体験しました。いろんな国の自然や人々と出会い、さまざまな体験をすることが彼等の長い人生を豊かに自由にしてゆくような気がしているんです。子どもたちの遊ぶ姿を眺めながら新曲もできました。八星の感想は「タイが一番面白かった。」「どこが面白かったの。」と聞くと「全部。」とのこと。アマチも最後の晩「タイに来てよかった。」つぶやいていました。アマチはジャム島で500バーツのおこずかいをお財布から抜き取られています。日本円にしたら1800円程度ですが、それがタイでは5日ぶんの大人の給料だったりするんですよね。楽しいことも苦しいこともあったと思いますが全てが生きた経験です。

陽が沈むと海辺のレストランが流してくれる音楽が、選曲によっては都会の喧騒や退廃の気配を持ちこんでくるようで息苦しく感じた夜がありました。一人、バンガローで静かに歌いました。誰も聞いてなくても 歌は宇宙と共に共振して平和なバイブレーションを自分自身に、そして世界にもたらしていることを感じました。大げさに聞こえるかもしれないけれど、確かにそう感じたんです。だから、週末、わたしたちの泊まってるゲストハウスのオーナーがクラビーからレゲェバンドを呼んで、わたしをミュージシャンとして彼等に紹介してくれた時、「あなたも、歌いますか?」と尋ねられ迷わず前座で歌うことにしました。歌うことは どこにいても わたしにとって自然な勤めだと思います。鳥のように、自然との調和、心の奥に触れる安らぎを言葉を越えてシェアしたいし、わたしにとって歌うことは食事するくらい自分自身の心に必要な日々の営みなんだなあ、と。
 そういえば、バンガローのあたりには野性の猿がたくさんいて、朝などは木の上の葉っぱが賑やかに揺れていましたが、ベランダにバナナをつるしておいたら食べられてしまいました。 また、パイでは子どもたちは象の背中に乗って1時間程の散歩もしたし、チェンマイでは動物園に行きました。八星のこの頃描く絵には猿や象がリアルに出てきて、「アフリカにはどんな動物がいるのかな。」と自然と興味が広がった感じがします。

バンコクから北にバスで6時間、サンクラブリーにある「夢を織る家」に1週間滞在しました。39才になるナートさんとパートナーのユバさんが親のいない子どもたち20人を自分たちの子どもとして引き取り育てている開かれた家庭です。初対面にもかかわらず、快く迎えてもらい簡素な木の家に1週間暮らしました。エイズで両親を亡くした3才の女の子が、人なつこくほんとに可愛かった。ギターを弾いてるわたしの膝にのぼって眠ってしまったり、食べれる木の実の場所に、わたしの手を引っ張って連れていってくれて一緒に食べたり。あどけない彼女の言葉を理解したくてタイ語をにわか勉強したりしました。
16才の女の子が、台所で朝4時半からロウソクの光で料理していて、辛くておいしい食事を1日3食出してくれました。子ども達は、その年零と個性に応じて家の仕事をしていました。掃除、洗濯、気が向いたらお料理も。わたしたちに求められたのは「自分の家だと思ってリラックスしてください。」ということと「あなたの歌を聞けたら幸いです。」ということだけ。最終日には子ども達と一緒に庭の掃除を念入りにして気持ちがよかった。
 夢を織る家の製作販売してる草木染めの服や小物が素敵なので、たくさん買いました。その時、「食費や滞在費はどうしたらいいでしょうか。」と尋ねたら、「ここは、みなさんの家ですから 気にしないでください。家族としてくつろいでください。」との答え。
 
偶然、滞在中、1年に1回、子ども達のために設定しているという「世界こどもの日」があり、その日のオープニングには2曲、歌いました。
 話には聞いていたけれど、その日は大人は200人くらい、こどもは2000人くらいトラックの荷台とかに載って、どんどん集まってくるの。10時くらいになるとバンコクからヒッチハイクで来たというボランティアの学生や、地域のおばさん、おじさんたちが、子ども達のために持ってきたアイスクリームをコーンにのせて配ったり、大鍋でタイヌードルを焚きだししたり、ゲームをしたり。子どもたちは行列を作って、食べたり、遊んだり。日本からも劇団が来て講演しました。8才の八星はタイ語が交じった日本語の面白おかしいお芝居をおおいに楽しみました。もしかして、誰より楽しめたのはアマチや八星だったかも?もちろんタイの子どもたちのもおお受けでしたが。この劇団の御一行20人の中には知人が4〜5人交じっていて、親交を深めました。どこにいても偶然はなく繋がってゆくんだね。ナートさんを囲んで話をした時などは、ナートさんが立ち去った後、日本人3人でナートさんの話した内容で不明な点をお互いの英語力を持ち寄って理解をし直したり。
 
周りには人家もなく静かな夢を織る家も、その日だけは渋谷にでもいるかのような人ひと、人。そんなにたくさんの人達が遠路はるばる各地からわらわらと集まってくることもすごいけれど呼びかけ人のナートさんとユバさん夫婦が、大勢のボランティアと参加者を迎えても悠然とリラックスして1日を過ごしてることが凄いな。「世界こどもの日」は一切の入場料を受けとっておらず、食事もゲームも観劇も泊まりも全て無料なのです。来る人々を無条件で受けいれ、思い思いが自分のやり方でこどもたちと遊ぶボランティアたちの宿泊場所や食事を支給してゆく、そのゆるやかで安心できる流れをいったいどうやって作っているのだろう?
 ちなみに、この地方は日中暑く、夜は冷え込みます。わたしたちの過ごした木の小屋は上半分に壁がなく、布団は薄い小さめの掛け物だけでした。子どもたちもわたしも毎晩寒さで目が覚める程でしたが、不思議とその状況を受けいれていました。ナートさんたちの限界を持たない人々への奉仕、わたしたちになにも求めず、ただあるがままに「夢を織る家」の滞在を楽しむことを喜んでくれる姿勢に感謝が一杯で、与えられたもので、やりくりしようという気持ちが自然でした。「世界子どもの日」にやってきたヒッチハイクの学生たちは、壁のない建設途中の建物に薄い掛け物で眠ったと思います。前日、ユバさんがホースの水でレンガの床を洗い、子どもたちが掃き掃除し、まくらと薄い掛け物を延々と並べて準備してあった寝場所です。

ナートさんには 機会をみては疑問に思うことや、夢を織る家の成り立ちについて質問しました。彼は英語を流暢に話します。早く母親を亡くし、愛に飢えて育ったようです。愛されることを求め続けていたけれど、18才でインドを旅していた時、ターニングポイントになる夢をみたそうです。その夢で「愛されたいと思うなら、愛を与えればいい。」ということに気づきます。その年から孤児を自分の子どもとして受けいれ、育て始めて、今年で20年になるそうです。

夢を織る家では ナートさんのデザインした草木染めの服や小物が製作販売され、それがナートさんたちの資金源になっています。現在2つのグローバルハウスの他、成長した子どもたちが仕事できるレストランやゲストハウスになる建物も建設中。建設の仕事や草木染めの衣類と小物の製作販売は地域の人々の貴重な収入源で、地域の親たちが経済的に自立できるように仕事の仕方を教え、共に働くことで子ども達の育っていく経済的基盤を整え、地域との繋がりを育てています。働いてる地域のタイ人たちは、ナートさんを信頼し心を開いて楽しそうに働いていました。

タイでは、1日の日当が100(350円)バーツという現状なので、日本人は大金を持って旅行してることになります。そうなると旅行者であるだけでタイ人にとってはお金を落していくお客にしか見えない場合もあり、関係性の限界をタイの各地で感じたのだけれど、夢を織る家では安心してみんなが対等な相互関係を育てていける空気がありました。一人でも純粋に志を実践し始めると、関わる人みなが変化していくのだと静かで深い感慨がありました。
 ちなみに、ジャム島では島の素朴なおじさんに「今夜はバーベキューだから食べにおいで。帰りはバイクで送ってあげるよ。」と誘われて、ランブをぶらさげて15分歩いて訪ねたら、彼の家はレストランでメニューが出てきて、こどもたちと顔を見合わせたという経験もしました。帰りはバイクで送ってくれたし、おみやげにバナナもくれましたけれどね。

帰る寸前に経済的な見通しについて質問してみました「ナートさんは経済的なことは、どう考えていますか。」と。

「これをするには いくら必要とか考えたことはない。まず自分のやるべきことがあって、それをやれば お金はついてくる。自分にやってきたビジョンを、待たせることはできない。すぐに着手するし、3%できれば、完成したと同じこと。宇宙を信頼して直感を現実にしています。」

ナートさんは、インドを旅した時、彼を導く師に出会ってるそうです。朝、5時に3才の小さな子どもまで一緒にサンスクリット語でお祈りの歌を歌い、瞑想をします。小さな子どもたちは、途中で肩にかけていた薄い毛布を頭から被って丸くなって眠ってしまうこともあるけれど、ナートさんが声をかけると目を覚まして、あどけない声で答えます。瞑想の後、ナートさんの「Yuri san, are you ready?」と促されて歌をうたいました。彼は英語で歌うわたしの歌を こどもたちにタイ語に訳して、意味を伝えてくれていました。

わたしは、夢を織る家で 日中歌いたくなると外へ出て、歌っていました。そうすると、子ども達がやってきてそばで遊ぶの。次第に音楽の好きな子が すぐ近くに座るようになり、ギターを教えたり、彼等がタイ語で歌うのを聞いたりするようになりました。彼等はわたしの歌うオリジナルソングのコード進行を知りたがるの。そんな、自然な出会いが、お互いの学びであり遊びであることを感じました。わたしは、歌いたい時に歌いたいうたをうたい、彼等は近くに来て遊ぶ。ベンチで眠ってしまう子もいた。そのうち彼等は、日本語で歌うわたしの歌を遊びながらハミングしてました。そこには素のままの出会いがあり、そのように自然体で過ごすことがその場の空気にふさわしいように思いました。八星とアマチは池で泳いだり、ボートに乗ったり、タイ語の子どもたちと言葉の壁を越えて夢中で遊んでいました。

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昨日はアマチの11才の誕生日パーティーで日が暮れるにまかせ、今日は 遊びにきてくれた友達とこどもたちが遊び わたしは友人とゆるやかな時間を過ごしました。 
旅する前のわたしなら、1ヶ月も休んだら 今は働かなくてはとがむしゃらに仕事を優先させたと思うのに。なぜだろう、今は急ぐ気になれないんだよね。

ちなみに、わたしは車で15分の距離に住んでるこどもたちの父親と協力しあって子育てしていますが、経済的援助は特にしてもらってないので、1ヶ月こどもたちと旅する費用も帰国してからのこどもを含めての生活費も自分で用意している。よくやれてるなあと思いつつも好きな歌を仕事として、好きなところを旅し 田舎暮らしで畑も耕し、いつもいつも追われてるのは仕方ないと思っていた。 けれど今は急がずに1つ1つの物事に丁寧に取り組んだら そこに遊びも仕事も子育ても含まれて、お金はついて来るんじゃないかなあと感じ始めているんです。やってきた発想に制限を加えず、本来の願いをただ生きてみたいなと思います。深い願いから発する動きをしていきたい。そんなふうな考え方がいつのまにかやってきた。旅って不思議ですね。

また、コンサート活動も再開します。そんなに量はないけれど、夢を織る家やタイの各地で仕入れた惚れこんでしまった小物もCDと合わせて並べてみようかな。わたしは木綿や麻が大好きで素朴なバックを1点ずつたくさん買ってきました。夢を織る家の草木染めの携帯入れなんかも素敵です。地元長野でもっと歌っていきたいと思っています。
 地域から繋がり風通しいい空気を育てていきたい。そう思っていたら高遠のさくらホテルからコンサートの依頼がありました。2月25日に、さくらホテルで歌います。
 福祉施設でも歌えないか、今日、福祉センターを訪ねてみました。この世には自由に動けない人たちもたくさんいるので、機会があれば歌を届けたいというのが純粋な思いとして以前から心にあるのです。また、どこにでも望まれれば歌いに行きますね。気軽に声をかけてみてください。閃きを現実にしていきたいですね。

♪海辺にて (ジャム島にて)

急がずに わたしの道を 軽やかに 歩いていこう
かいがら集め  波打ちぎわを 素足で歩くよ 白砂の上

砂絵に夢中の子どもたち 今日も日暮れまで 楽園に遊ぶ
茜色の空にまるい月 南国小島の 夜があけていく

全ては まあるい 心の器に うまれる物語
素直な気持ちで 世界を旅して ゆるやかな時を掴む

急がずに 心の道を 歌いながら 歩いていこう
一人の時も 二人の時も 変わらぬ願いを胸に抱いて

珊瑚礁の海 虹の魚たち はるばる空の向こうから遊びに来たよ
褐色の腕のボートマンと タイ語と英語で行く先を決める

全ては まあるい 心の器に 生まれる物語
出会いと別れの 繰り返しが爽やかな今

急がずに あなたの道を 心を込めて 歩いていって
健やかな 二人の寝息 遊び疲れた 日焼けした顔

いつか巣立っていく 子ども達 広い世界のあなたの場所に
一緒に旅した 風景もいつか あなたの 暮らしになるのかも

全ては まあるい 心の器に うけとる物語
素直な心を耕して 体中で 今を感じて
素直な心を耕して 体中で 今を感じて 


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