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◆生命のシグナルをキャッチせよ

世は情報化時代の真っ直中。押し寄せる大量の情報の波についていけないとの嘆きも
よく耳にする。パニックを回避するには必要な情報をスムーズに受け取り、伝えてい
くことが肝要である。ところで、このような情報伝達は何も社会生活を送る人間だけ
に必要な行為ではない。原始的な粘菌たちだって彼らなりに情報伝達を行っている。
そして、長い歳月を経て高度に進化した人間の体内にも、粘菌たちと類似した情報伝
達プロセスが存在する。しかも命に関わる重要な情報だ。様々な病気の鍵を握る医学
分野として今、注目されている免疫。多くの細胞が関与する複雑なシステムだ。今回
は兵庫医科大学の審良静男教授にお話を伺った。

情報が飛び交う体内

 舞台は、人間の体内というミクロコスモス。今、まさに情報戦が始まろうとしてい
る。皮膚というバリアーを突破して、敵が侵入したのだ。迎え撃つのは、生命を維持
するという大目的のため、日夜、体内を監視し続ける免疫細胞たち。細菌、寄生虫、
ウイルス、そして改変された自身の細胞である癌細胞…。敵は内からも外からもやっ
てくる。そこらじゅうを飛び交っていると言っても過言ではない。免疫細胞は敵を発
見、認識すると大量のシグナルを発し、仲間たちを召集する。
 まず最初に侵入者を敏感に察知してやってくるのはマクロファージと好中球。特
に、アメーバーのような体をしたマクロファージは大食いで、どんな敵をも包み込む
ようにして食べてしまう。そして消化した敵の体の一部を体表に掲げ、敵の情報とし
て他の免疫細胞たちに示す。さらに蛋白分子による様々なシグナルをまき散らす。こ
こまでが第一ラウンド。原始的な生物、例えばイソンギンチャクなどにも存在する免
疫システムで、「自然免疫」と呼ばれている。
 第一ラウンドでも決着がつかない場合、体制を整えて第二ラウンドの「獲得免疫」
に持ち越される。この免疫は哺乳動物が進化の途上で開発した特異的な防御システム
だ。ここからは敵の種類や出方によって、異なった二つの作戦を立てて戦う。まず敵
の情報をキャッチしたヘルパーT細胞というリンパ球が参戦する。ヘルパーT細胞は、
Th1細胞とTh2細胞のグループに分けられ、どちらのグループが活躍するかによって作
戦が決定される。
 作戦その一、「細胞性免疫」。これは、細菌やウイルスが寄生した細胞や癌細胞に
効果的な方法だ。助つ人のTh1細胞が、IL-2やインターフェロンガンマーなどの蛋白
分子を分泌し、マクロファージ、ナチュラルキラー細胞、キラーT細胞を活性化し、
元気づけられたこれらの細胞が敵に感染された細胞や自身の癌細胞をやっつける。
 作戦その二、「液性免疫」。これは、血液中や細胞表面にいる病原体(寄生虫な
ど)に効果的な方法だ。助つ人のTh2細胞が、IL-4, IL-5, IL-6などを分泌してB細
胞に指令を発する。指令を受けたB細胞は勢いよく分裂し、大量の抗体を作り発射す
る。抗体というミサイルは、病原体に結合し次々と破壊していく。

細胞内の情報伝達経路

 細胞同士が行う情報伝達の複雑さはハンパじゃない。細胞がシグナルを託すイン
ターロイキンなどの様々な蛋白分子を総称してサイトカインと呼ぶが、その種類も作
用も極めて多様だ。病原菌などから刺激を受けた細胞は次々とサイトカインを分泌
し、そのサイトカインがまた別な細胞を刺激する。その影響は広く神経系細胞や内分
泌系細胞にまで及ぶ。この複雑なネットワークを制御するため、生物は様々な工夫を
重ねて進化してきた。
 一つの細胞に焦点をあてて情報伝達の経路を見てみよう。まず細胞の表面にあるレ
セプターにサイトカインがくっつく。レセプターは鍵穴のようになっていて特定の形
をした物質(鍵)しか入れないようなしくみになっている。鍵が回されると細胞の中で
シグナル伝達物質が活性化され、細胞膜からDNAのある核内へとシグナルが伝わる。
最終的に転写因子にシグナルが伝わると、転写因子はDNAの決まった場所にくっつい
て、その場所の遺伝子を活性化させる。その遺伝子に書かれているレシピに従って、
抗体やサイトカインなどの様々な物質が作られるわけだ。
 今年5月、審良教授のグループでは、STAT6と呼ばれるシグナル伝達分子がアレル
ギー反応のカギを握る分子であることを世界で初めて解明した。STAT6は、IL-4のシ
グナルだけを特異的に伝達し、直接DNAにくっついて作用を起こす機能をもつ。IL-4
は過剰な免疫反応によるアレルギー疾患を引き起こすサイトカイン。STAT6の伝達経
路を遮断するような治療薬を開発すれば、副作用の少ない夢の新薬にもなり得るとし
て製薬業界からも注目されている。さらに、情報伝達プロセスが解明されるに伴っ
て、新たな概念も生じてきたという。

病気の鍵を握る免疫のバランス

 「免疫は細胞だけを見ていたのでは何もわからない。多くの細胞が関わる免疫反応
のプロセス全体、個体そのものを見ないのは、『木を見て森を見ず』と同じです。最
新技術によるマウスを使った研究が進むにしたがって、ようやく『森』が見えてき
た。しかも、アレルギーや癌、自己免疫疾患などの多くの病気にも、免疫反応のアン
バランスが関与していることがあきらかとなったのです」。
 もしかしたら紀元前の古代ギリシアでヒポクラテスも考えていたかもしれない。陰
と陽、プラスとマイナス、古来から多くの賢者が説いてきた、病をバランスの崩壊と
捉える考え方である。先に述べた情報戦、第二ラウンド「獲得免疫」の二つの作戦を
天秤にかけてみる。免疫反応が「細胞性免疫」に傾くと、癌や細菌には強くなるが、
I型糖尿病、慢性関節リウマチなどの自己免疫疾患のリスクが増す。一方、「液性免
疫」に傾くと寄生虫の排除には効果が上がるが、アトピー性疾患や気管支喘息などの
アレルギーのリスクが増す。これらの病気以外にも多くの病気がこのバランスに基づ
いている可能性も出てきた。
 天秤のゆらぎは常に起こっている。問題は傾いたままになった時だ。従来は、特定
の器官や臓器の病気といった縦割りの考え方が支配的であったが、遺伝子工学と発生
工学というミクロな研究が発展した結果、逆に、人間の体を一つのバランスとして捉
えるマクロな概念が見えてきたのだ。

原始的な免疫が秘めるパワー

 「獲得免疫」の全体像はかなり解明されてきた。今、免疫の分野で注目されている
のは、原始的だと考えられてきたマクロファージだという。
 「現場に真っ先に駆けつけ、何でも食べてしまう。しかも一番大量にサイトカイン
を放出する。T細胞やB細胞が抗原やサイトカインによって『言われたこと』しかしな
いのに、マクロファージはいろんな刺激に反応し大量の情報を処理します。下等な生
物も共通してもっているものが実は一番重要なのかもしれません」。
 面白いことに、STATはディクチオ型細胞性粘菌においても重要な役割を果たす。通
常の環境ではアメーバーのような単細胞だが、飢餓状態になると集合して多細胞にな
る。その際ツルを伸ばすためのシグナルを細胞間に伝達しているのだ。同じSTATを免
疫システムに使っている哺乳動物は既にあった「持ち駒」を利用したわけだ。
 この世に病原菌がなければ免疫なんてなかったことだろう。刻々と進化していく病
原菌たちに負けじと、構築されきた複雑な免疫システム。しかしそれは同時にバラン
スが崩れた途端、敵ではなく自らに刃先を向けてしまう恐ろしい「両刃の刃」でもあ
る。そのバランスの鍵を握っている可能性もある「自然免疫」は、まだ未知の世界
だ。そのシグナルは私達に何を伝えてくれるのだろう。太古から失わずにいるパワー
を見せてくれるのだろうか。