【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[上陸のイニシエーション マドラス]

 私の初めての海外旅行は71年9月、女連れの片道切符で、羽田空港からバンコクへ飛んだ。リックひとつのGパンスタイルは、国内でヒッチハイクの旅をする時と同じだった。
 バンコクから汽車で国境を越え、マレーシアのペナン島へ。ここからマドラス行きの船に乗った。ヒッピーたちが「地獄船」と呼んだ大型貨客船には、客用の船室もあったが、大半はメッカ巡礼や里帰りのインド系マレーシア人が、布団から自炊道具まで持ち込んで甲板で生活していたので、さながら難民船のようだった。
 私たちは最後尾の上甲板の片隅に場所を確保したが、その隣の一画が巡礼団の特設モスクになっていたので、日に5回、3〜40人の男たちの礼拝を見物できた。
 「アラーノホカニ神ハナシ、ワカリマスカ?」と、戦時中日本兵から日本語を習ったという先生が、いつものように語りかけてきた。私が「真理はひとつ。賢者たちは様々な名でそれを呼ぶ」というヒンズー教の金言を語っても、先生は「アラーノホカニ神ハナシ」と言って譲らなかった。
 ペナンを出航して3〜4日後に、豆粒のようなニコバル、アンダマン諸島が見えた以外は、陸地の見えないベンガル湾の航海だったが、イスラム教徒の礼拝から炊事洗濯まで、生活の一端が観察できて、私も連れの女も退屈することはなかった。
 彼女A(アー)は音大をドロップアウトした22歳、当時34歳の私とはコミューン生活を共にして3年目。従って大麻もLSDも十分に体験があった。しかし今回の旅では、バンコクやペナンで大麻を手に入れる機会がなく、「インドへさえ行けば……」と、我慢してきたのだった。
 一週間目に水平線の彼方に、憧れのインドが長々と寝そべっているのが見えた。そこはナガパディナム、04年のスマトラ大地震の際、インド洋大津波に呑み込まれた漁村地帯である。船はここで一晩停泊し、検閲を受けることになった。裸の漁師たちの帆船が接近し、手を振って去って行った。延々何キロもの遠浅の海岸だったので、潮が引くに従って船底が海底をこすっていた。
 私たちの傍らではモスリムたちが敬虔な祈りを捧げていた。夕凪ぎだったが、かすかに浜風が吹いていた。海底に乗り上げている船は風次第で方向を変えた。
 突然礼拝中のモスリムたちが、ドタドタと立ち上がると、鷹のような顔をしたリーダーの指令のもとに、逆方向に向かって土下座を始めた。船はなおも揺れ動き、磁石を持ったリーダーは、コーランを唱えながらメッカの方向を指さし、そのたびに先生も含めていかつい男たちが右往左往するのだった。
 形なきアラーの神を崇め、一切の偶像を否定する砂漠の宗教のこの矛盾と可笑しみ。この他愛もないほどの純情と独善。ヒンズー教の神像や仏像を破壊しまくったイスラム教の正体を垣間見たような気がした。
 翌朝目を覚ますと、船はマドラス港の沖合いに停泊中だった。夜明けとともに甲板の船客が起き出した頃、対岸から10数隻の小船が押し寄せてくるのが見えた。てっきり沖仲仕たちだと思ったが、近づくにつれてそれは船というよりも、一人分の浮力をもった板切れに棒を突っ立て、ボロをまとった程度の代物でしかないことが分かった。これに気づいた船客たちが甲板に集って見守る中で、ふんどし一丁の裸の男たちは、我先にと櫂を漕いで私たちの船の舷側に群がると、船客を見上げて「バクシーシー(喜捨)!」と叫んで手を差し出した。なんと乞食だったのだ。
 これに応じて船客からコインが投げられた。水中に落ちて銀色に輝きながら沈んでゆくコインめがけて、乞食たちはオットセイのようにダイビングして、間もなく水面にポッカリ浮上し、ニッコリ笑ってコインをかざす、拍手喝采である。すると次はもっと遠くへコインが投げられる。オットセイたちは休むヒマがない。
 その黒光りする褐色の肌と優美な肢体、そして恐るべき肺活量。ダイビングという伝統芸をもったこの一族は、乞食というより芸人というべきだろう。戦前は詩人金子光晴が東南アジアの旅でも目撃しているから、熱帯地方には結構いたものと思われる。しかし海外旅行が航空機に独占される時代になって、彼らは失業したに違いない。その後彼らの存在を耳にしたことは一度もないからだ。そう、私の見たものは一つの伝統文化のラスト・ステージだったのだ。
 ちなみに最後の世界一周定期航路だったMMライン(フランス)は、71年春をもって廃止された。たった半年のことでMMラインに乗り遅れた私だが、神秘の国インドへの最初のアプローチだけは、空からではなく海からしてみたかった。きっと上からでは見えないものが、下からは見えると思ったからだ。
 さて上陸に際しては、親しくなった中年の船員から頼まれて、彼がマレーシアで仕入れた衣類を、私たちの所持品として「タックス フリー」で税関を通し、ちゃちな密輸を手伝ったことから、マドラスの彼の家に招かれた。船旅の一週間、毎日3回の食事を届けてくれたこの世話焼きの船員は、最後に女房手製の食事を振舞うと、マドラス駅近くの安ホテルへ私たちを案内し、握手して去った。
 そこでホテルにリックを置いて、何処から見て廻ろうかとAと2人、期待と不安を抱いて、先ずはタクシーから見た公園へ行ってみようということになった。ちなみに、インドのガイドブックなど当時の日本には一冊もなく、地図もインド大使館から貰った英文のものしか無かった。従ってヒッピー情報と直観だけが頼りの旅だった。
 マドラス(現チェンライ)は、デリー、カルカッタ(現コルカタ)、ボンベイ(現ムンバイ)と並ぶインドの4大都市、タミル・ナドゥ州の州都である。
 タミル・ナドゥやケララなど南インド地方は、紀元前1500年頃、西北からのアーリヤ民族の侵略に追われた先住民ドラヴィダ民族が、南下して住みついた地域であり、北インドとは文化的にも異質である。人間も色白で彫りの深い北インド人に比べ、南インド人は色黒で鼻も顔も丸っこく親しみ易い。
 私がペナンで会った下層労働者や農民たち、貨客船の乗客などのインド系マレーシア人は、ほとんどがタミール系移民の子孫であり、船員もまたタミール系インド人だった。要するに私のインドの旅は、タミール系インド人世界との出逢いから始まったのである。
 公園の一角で10数人の男たちが車座になって坐っていた。一目で分かる下層底辺の連中だ。顔を合わせない方が賢明だと思ったので、傍をさっさと通り過ぎようとした。とたんに声がかかり、リーダーらしき中年の男が手招きしていた。
 仕方がないので円陣に近づくと、薄汚れたターバンを巻いたドーティ(腰巻き)姿の裸足の男が立ち上がった。この蟹そっくりの男は満面の微笑をたたえて握手を求め「ウイッチ フロム?」と尋ねた。
 「ジャパン」と答えて握手を交すと、「オー ジャパン!」と言って、近くにいた少年を呼び寄せ、何事か耳打ちすると1ルピー札を手渡した。インド貨幣は両替したばかりでまだ使う以前だった私には、1ルピーの価値もよく分からなかったが、チャイが1杯10パイサという相場だけは聞いていた。
 それから蟹男は私たちを坐らせ、一同にジャパンについて説明を始めた。全員が「ジャパン?」と言って首をかしげた。いずれも蟹男と似たような風采の男たちだった。やがてくだんの少年が帰って来て、小さな紙袋を蟹男に渡した。そこで蟹男は数人の少年たちを見張りに立てると、紙袋からガンジャを取り出し、チロムに詰め、ニッコリ笑って私に差し出し「ボン シャンカール!」と言った。
 私はチロムを受取り、蟹男がマッチを付けたので、「ボン シャンカール!」と唱えて、深々と一服吸った。とたんに拍手がわき起こったのでびっくりした。チロムを左手に坐っているAに渡して目をつむった。間もなく2度目の拍手が起こった。
 Aからチロムを受取った蟹男は自らも一服すると、Aの左隣の男から順に左回りでチロムを回させ、ガンジャが無くなると補給した。2度、3度、チロムは回って来た。ガンジャの煙の糸は旅人と地の人たちの心を数珠のように繋いでいった。久しぶりだったから凄い効きだった。脳天から天空へスカッと抜けるような陶然たる夢心地の私たちに、蟹男は立ち上がって言った。
 「プリーズ ルック アト マイ マザー カントリー!」
 まるで三文芝居の客引きのような大げさなゼスチュアをつけて、彼は誇らしげに母なるインドを観よと言った。これが長年憧れていたインドが、私に授けてくれたイニシエーション(通過儀礼)だった。
 かくて貧者からの強烈な一服を得て、私とAはチルチルとミチルよろしく、マドラスの雑踏の中へ入っていった。それはまるで玩具箱をひっくり返したような絢爛豪華な世界だった。わけても様々な奇形や片輪たちが、恥ずかし気もなく障害をさらけ出し、それを売り物に乞食をしている姿は、悲惨というより荘厳だった。
 そこでは障害の重い者ほどエリートであり、スターであり、稼ぎも多かった。この価値観の逆転は痛快なものだった。私には乞食世界が明るく息づいて見えた。そして私自身もまた「せむし」という障害に恵まれたエリートなのだと、改めて自覚するのだった。

 [余談]
 この時目撃した絢爛豪華な世界の一端は、「麻声民語24・手足のない乞食の呪文」「同31・バザールの小人」を参照のこと。


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