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いのちの祭りの流れに乗って

文・絵ポン(山田塊也)

88いのちの祭りをはじめ祭りあるところこの人有りの
「お祭りポン太」が、
2000年夏に予定される祭りを前にこれまでの流れを振り返り、
その意味を問いなおす。


 「いのちの祭りの流れを振り返る」と題して、前号にサワ(澤村浩行)が書いたので、それを補足するつもりで、ぼくなりの総括をしておこう。
 サワはこの運動の流れを、86年チェルノブイリ事故までしか遡っていないが、その源流が60年代のカウンター・カルチュア(対抗文化)運動に端発していることは、本誌の読者なら百も承知のことだろう。
 60年代は核戦争の脅威の下に、経済成長と物質文明の破局を予見したアメリカやヨーロッパや日本などの若者たちが、「ラヴ アンド ピース」を合言葉に、サバイバルのために決起したのが、いのちの祭りに連なる意識革命の源流なのだ。

 ビートニックから、67年以降はヒッピーと呼ばれたこの運動の主体たちは、社会体制をドロップアウトし、ヒゲや髪をのばし、ビーズや花で身を飾り、ロックやフォークに熱狂し、サイケデリック・アートを生み、自然農法や自然食を研究し、自給自足をめざすコミューンを建設し、ヒンズー教やチベット密教や禅、あるいは先住民のシャーマニズムなどの精神世界を探求し、大麻やLSDを用いて意識の変容と進化をめざすなど、いっせいに修行を開始したのである。
 ヒッピーというマスコミ・ネームを嫌ったぼくらは、フリークを自称し、この呼称はヒッピーが死語になってからも、世界共通語として通用してきた。フリークとは規格はずれ、畸型、はみだし者、気まぐれ者などを指す。
 資本主義の競争原理を否定し、統治や管理されることを拒否するフリークスは、組織や党派を持たず、本部も命令体系もなく、リーダーもカリスマもおらず、その関係性は対等、平等な個人と個人を結ぶゆるやかなネットワークがあるだけ。「いのちの祭り実行委員会」という組織も、その時だけの一過性のものにすぎない。
 フリークスは本来、文化的・芸術的・宗教的なタイプが多く、祭りは好きだが、政治的、社会的な運動や闘争は苦手である。しかし地球の危機的状況が、修行者たちをして生存と真理のための戦いに駆り立てるのだ。
 最初の反撃は「ヒッピーの聖地」と言われた諏訪之瀬島に、ヤマハの観光開発が侵略し、67年に建設したぼくらのコミューンが解体された70年代前半期に起こった。沖縄返還に伴うこの暴挙に対して、「ヤマハ・ボイコット運動」の狼火は、日本とアメリカで同時に上がり、それまで個別地域単位で活動していたアングラ・フリークスが一気に連帯したのである。「いのちの祭り」の本流は、この時に形成されたネットワークを基盤にしている。
 諏訪之瀬の問題を通して、地球全体のエコロジィ危機に目を向け、運動を通して結ばれた関係性を深めてゆく中で、70年代は百姓や漁師を中心とする地域住民闘争の中に、80年代はスリーマイル島やチェルノブイリの原発事故によって蜂起した反原発市民運動の中に、フリークスは自分の場所と役どころを見出し、その一端を担った。
 「反原発ブーム」などと言われた88年は、市民運動でも特に女性のパワーが中心になって、対抗文化運動との熱いドッキングを果たした画期的な年だったが、そのピークに用意されていたのが、今や神話となった「88 いのちの祭り 八ヶ岳」である。
 しかしブームや祭りで大同団結したものの、価値観からライフスタイルまでパラダイムの相違は次第に明らかになり、反原発で盛り上がったウーマン・パワーは、間もなく「土井たか子ブーム」に乗り替え、やがて社会党がポシャるころには、「まだ間に合うのなら」という合い言葉も忘れられ、当時30数基の原発を、1基も止められずに終わった。
 このように住民闘争や市民運動のカンフル剤として、対抗文化運動の果たしてきた役割は決して小さなものではないが、数にすれば大したものではない。ぼくらは常に圧倒的少数派でしかありえないのだから。
 ところで権力側は「いのちの祭り」を、どのように見ているかを推察するエピソードがある。91年1月、湾岸戦争の勃発に際して、“C+F”の青ちゃん(故人)の呼びかけで、代々木公園から原宿まで反戦デモを企画し、代表が警視庁に5千人のデモ申請をしたところ、「今どき5千人も動員できるセクトはない。一体どこの団体だ?」と問われ、「いのちの祭りだ」と答えると、「あヽ、いのちの祭りなら5千人は軽いだろう」と言って許可をくれた。しかし当日は雨のため千人程度しか参加者はなく、その倍もの動員をした機動隊はダンゴになってもたついていた。

 90年代に入り、いのちの祭りの流れは、90年の大山(鳥取)、91年の六ヶ所村(青森)で、各々3千人くらいの仲間を集めて開催されたが、92年の元気村(愛知)、93年の天草(熊本)は共に台風に見舞われ、94年には後継地がなかった。
 しかし祭りの炎は消えることなく、北海道の「アイヌモシリ一万年祭」、佐渡ヶ島の「どんでん銀河コンサート」、和歌之浦の「月の祭」、唐津の「虹の岬まつり」などが、地域に定着して、出会いの場を提供してきた。
 しかし、フォーク、ロック、レゲエ、パンクの次に登場したテクノは、カウンター・カルチュア界に新たな分断を生んだ。従来のコンサート中心の祭というコンセプトに替わって、パーティーという別種の空間を創造したレイヴは、その音響の凄まじさを含めて、自然回帰志向のアコーステック派に拒絶反応を起こさせた。
 一方、ファミコン育ちのデジタル世代にとっては、他人のメッセージに耳を傾けるコンサートに比べれば、レイヴのトランス体験はダイレクトであり、サイケデリック文化の新たな開花であった。
 既に、六ヶ所村のいのちの祭り会場の片隅に食い込んでいたテクノは、その後ゴア・トランスの世界的流行が日本にも上陸し、96年8月、富士山の「レインボー2000」は1万8千人の若者たちを爆発させた。そしてこの中に、いのちの祭りの旧世代は、たったの1パーセントもいなかった。
 かくて90年代に入るや、低迷する市民運動との分断や世代間ギャップにより、個別地域単位で進行してきたカウンター ・カルチュア運動の流れだが、97年秋、京都の「地球温暖化防止会議」が2万人のデモを動員する一方、東京でも急遽企画された「レインボー・パレード」は、テクノを踊る3千人のパレードとなった。
 80年代の反原発に替わって、90年代は温暖化防止が市民運動と対抗文化運動を再びドッキングさせた。環境庁やNGOなどをバックにつけて、メジャーからアングラまで、ジンベからシンセまで、宇宙人のようなレイバーからネクタイ市民まで、真っ昼間から花の原宿を踊りながらパレードするレインボー・パレードが、ベルリンのラヴ・パレードの百万人までには至らなくとも、“ええじゃないか”の復活として、例えガス抜きとはいえ、踊らにゃ損ソンである。
 今回のパレードでは、アメリカ大使館に、ビッグマウンテンの強制移住に対する抗議署名を手渡したと聞いた。たった一ヶ月で5千人余の署名を集める発端になった9月阿蘇の「旅人の祭」には、ナバホ代表2人が来ていた他、ベンガルのバウルもいたとか。
 ぼくはこの祭りに参加して、酸素吸入器つきの身ながら、バウルたちと共に「シャンカラ シヴァ」のマントラを合唱するつもりだったのだが、8月に大麻取締法でガサられ、逮捕されたのだ。幸い半病人のため留置所も拘置所も収監を免れ、通いで取り調べを受け、裁判が始まったところだ。
 かくて“お祭りポン太”のラストステージを飾り損なったが、代わりにナミさん、どんと、ボブ、フジオ、そして生活サーカスなどが音頭をとって、連日シャンカラ シヴァの歌声が流れたと聞いて、「ポンちゃん、がんばれ!」の応援歌として受け止めると同時に、ぼくがいなくても、シヴァのマントラが日本のフリークスの世界に定着したことに、大いなる満足を覚えるのである。

11月21日、ビッグマウンテンの使者バヒ・キャダニーが訪れ、87年8月、ヤポネシアのビッグマウンテンに比定した飛騨の聖地・位山で「母なる大地に祈る集会」を開催して以来12年ぶりに熱い再開を果たした。
 バヒを囲んだサポーター達の会話は、来春2月1日の強制移住を拒否しているディネの3人の老婆と、それに連なる人々に、我々の尊敬と激励の意思を、署名用紙だけではなく、生身で伝えるために歩こうということになった。そこでぼくは、出発点の位山からの最初のウォーカーという金的を射止めた。酸素ボンベ付の身では、雪道をどのくらい歩けるか疑問だが、後を継いで歩く者が必ず出てくるだろう。
 ビッグマウンテンでの熱い出会いと、ロードプランの真実を見たい人は、1月1日に位山を出発する「
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〒444-0324 愛知県西尾市寺津町亀井66 山口晴康 TEL/FAX.0583-59-3890
http://bigmountain.hypermart.net/


No.98=2000年1・2月号

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