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第3章 ヒッピーブームの中の「部族」

 

挿絵

 

[雷赤鴉聖殿の落成] 

 雷赤鴉族には瞑想センターである「聖殿」の建設にかかるまで、特に規則はなかった。畑は少しあったが、仕事は聖殿用地の整地くらいなものだった。噂を聞いて次々とやってくる若者たちは、一日中ギターを弾く者、ビーズの首飾りを作る者、山歩きをする者、ヒッチハイクで諏訪の片倉温泉へ行く者、ひたすら食事を作る者など、てんで勝手にやっていた。
 しかしメンバーが増え、聖殿の建設にかかった9月末ころから、自然発生的に規則が定められた。「カルマ・ヨガ」(業の実修)と称して、目の前の中央高速道路の建設工事に、土方として交替で出勤することにしたのだ。それは建設費と生活費を稼ぐことであったが、共同体意識を育むことでもあった。同じ屋根の下に住んでいても、夢とビジョンを共有しえなかったら、それはコミューンではない。
 仲間たちと共に家を建てること、新しい土地を開拓すること、大海に乗り出すヨットを造ること、そして宇宙大の祭りをすること、夢とビジョンは語り尽くせないほどあった。労働の汗を流した後は、焚火を囲んで焼酎を飲み、お互いを語り合い、シヴァやクリシュナのマントラを唱え、裸になって踊った。それは信州の高原に縄文時代が復活したような光景だった。
 時にはヒッチハイクで知り合った運ちゃんや、家出した娘や息子を探す親たちや、のぞき見半分のジャーナリストなどが、噂を聞いてやって来たが、頭をかしげて帰って行った。
 雷赤鴉族の2反歩の土地には、片隅に30本ばかりのモミの木の植林があった。聖殿はそれをバックに、八ヶ岳を正面に見て、建坪約10坪、4分の1を土間にした板張りのホールで、小さな中2階を設けた。
 払い下げの電柱を大黒柱に、カラマツの間伐材を組立て、壁は板張り、窓は百号のキャンバスに透明アクリル板を張った。ついでに八ヶ岳に向かって突き出した棟木の先には、チューが彫刻した雷赤鴉のトーテムを飾った。
 大工はベテランのマオリとキャップが、お互いに遠慮してサブに回ったので、棟梁はガンという若い山男がやった。下駄ばきで八ヶ岳の最高峰まで散歩してくる男だった。当時私は30歳、マオリは2つ上、キャップは3つ下、ガンは6〜7歳下、団塊世代がハタチだった。
 「部族」は自由な個人参加の集団だったが、集団ともなれば仲良しグループや派閥のようなものが生じるのは自然なこと、それが協調的なうちは良いが、二項対立すると面倒になる。
 私とマオリは新宿時代から武蔵境のアパートまで一緒だったし、キャップとはこの夏諏訪之瀬で一緒だった。この二人の間に対立感情はなかった。ところが二人を中心に形成された両グループには対立感情が生じていた。即ち、マオリグループは聖殿完成後もここで越冬する気だったが、キャップグループは諏訪之瀬のコミューン建設に行く気だったのだ。そこから何かと見解の相違が生じてきたのだ。
 それは徹底的に話し合うしかないことなのだが、そこへ長老格の、といってもまだ44歳だったが、ナナオがやって来て、事情を知って沈黙してしまったのだ。そのため一同は問題を語り合うことなく、陰険なムードが漂うありさまだった。
 12月に入って聖殿落成の知らせがあり、東京でミニコミ作りをやっていたナーガとマモと私の3人は、落成式に駆けつけた。富士見高原は今にも雪の降りそうな寒々しさだったが、そこに集った数10人の仲間たちの顔を見て、その寒々しさに驚いた。一体何があったのかとガンに聞いて、陰険ムードの原因が、二項対立にあることを知ったのである。
 聖殿落成を祝うつもりだった私は、ドロップアウトした自由人たちの言いたいことも言えない不自由さに呆れた。誰も乗っていないパーティにがっかりして、その晩は酒を飲む気にもならず、何か言えばますます白けるような気がしたので、早々と席を抜けて中2階で横になって考えた。
 翌朝、聖殿は雪に覆われ、隙間だらけの板壁から寒風が吹きこんでいた。全員が席についた朝のミーティングの時、私は夜を徹して書いたメモを読み上げた。
 「今まさに、部族革命の輝かしい一歩を踏み出さんという時に、言いたいことも言えないこの陰険なムードは何事なのか!」
 と声をはり上げた時に、突然すさまじい嵐が襲い、一瞬にしてアクリル張りの窓枠を吹きとばし、吹雪がどっと舞い込んだ。この予期せぬ突発事に室内は悲鳴と混乱をきわめ、ミーティングどころではなかった。まるで私の演説が嵐を呼んだみたいだった。おかげで嵐が去ると、全員が吹雪まみれになって、たった一日でぶっ飛んだ窓を眺めて、大笑いしたのだった。その笑いは陰険ムードを一瞬にして粉砕し、皆の心をひとつにした。
 その日、キャップたち諏訪之瀬組は、雷赤鴉族に拍手で送られて山を降り、ヒッチハイクで南へ向かった。

 [ミニコミ『部族』の創刊]

 世界的なヒッピーブームがわが国へも波及し、NHKがゴールデンタイムに「部族」を特集したこともあって、マスメディアの取材が相次いだ。仲間たちはインタービューを嫌い、やむなく私は「部族」のスポークスマン(代弁者)のような役をさせられた。民放テレビにも引っぱり出されたが、まるで見世物扱いだった。結局、私たちのムーヴメントの本質を、マスコミを通じて宣伝しようとすること自体が誤りであることを悟ったのだった。
 聖堂建設と並行して、私たちはムーヴメントの思想信条を世に伝えるための新聞『部族』の創刊にとりかかった。既にアメリカ西海岸では『オラクル』などの前衛的なヒッピーマガジンが発行されていたが、わが国のヒッピームーヴメントでは最初の産声である。
 編集長はナーガ、イラストは私が担当した。まだエメラルド色のそよ風族はなかったので、私は福生のシロとマリの家に居候した。漫画家のシロと机を並べ、カラスを吸いながら3枚のイラストを描いた。当時の私はまだ大麻にほとんど耐性がなかったので、空間の歪みやフォルムの連続性、デフォルメや幻視など視覚の変化が面白くて、ケラケラ笑いながら絵を描いた。サイケデリックアートの国産第一号である。(「ポンの絵」No...
 ナーガとの打ち合わせもあって、編集の後半は三鷹のミコの留守宅(彼女は諏訪之瀬へ行っていた)で挿絵を描いた。ゲーリー、三省、マモなどがエッセイを載せ、新聞はA3版(タブロイド版)、24ページ2色刷り。
 
 部族宣言──ぼくらは宣言しよう。この国家社会という殻の内にぼくらは、いま一つの、国家とは全く異なった相を支えとした社会を形作りつつある、と。統治する、或いは統治されるいかなる個人も機関もない、いや「統治」という言葉すら何の用もなさない社会、土から生まれ、土の上に何を建てるわけでもなく、ただ土と共に在り、土に帰ってゆく社会、魂の呼吸そのものである愛と自由と知恵による一人一人の結びつきが支えている社会を、ぼくらは部族社会と呼ぶ。
 アメリカ、ヨーロッパ、日本、その他の国々の若い世代の参加によって、何百万人という若い世代の参加によって、静かにあくまでも静かに、しかし確実に多くの部族社会が形作られつつある。都会に或いは山の中に農村に海辺に島に。やがて、少なくともここ数十年内に、全世界にわたる部族連合も結成され、ぼくらは国家の消え去るべき運命を見守るだろう。ぼくらは今一つの道、人類が死に至るべき道ではなく、生き残るべき道を作りつつあるのだ。
(後略)

 
 原文は編集のナーガによるものだが、『部族』はこのビジョンに生きたのだ、それから40年の現時点で読み返せば、その楽天性は苦笑ものだが、根源への回帰というロマンチシズムを朗々と語れるほど、自然はまだまだ健全だったのだ。
 創刊号はいきなり1万部刷った。ヒッピーブームを当て込んだということもあるが、それ相当の宣伝をしないとでかい赤字になるだろうと思った。マネージメントはマモが担当していた。
 年末だった。テレビの「イレブンPM」という番組から声がかかって、ヒッピーのガン首10個揃えてくれれば、1人ギャラ1万円と名古屋の放送局までの旅費を払うという話だった。新幹線を使わないでヒッチハイクで行き、テレビで部族新聞の宣伝をすれば、何とか制作費は作れるだろう。確かにマスコミは信用できないが、メディアは使いようだと思った。
 ナナオやナーガは反対だったが、私はマモと共に、キャップなど諏訪之瀬組を説得して、男女10名の出演者を揃えた。スタジオには山小屋のセットや火踊りの薪などが準備され、飲み放題の焼酎も備えてあった。もとより見世物になることは覚悟の上だったが、司会者が愚問ばかり発するので、私たちはすっかり腐っていた。
 だが問題はいかに巧妙に新聞の宣伝をするかだった。私はカメラが私の方を向くたびに、パッと新聞を出してニッコリ笑い「部族新聞創刊号1部100円でーす!」などとコマーシャルをやった。ところが後で聞くと、そんなシーンは全く写らず、焼酎を飲んでふてくされているシーンばかりが写っていたとか。テレビのメカニズムを知らない私は、テレビカメラというものは1台しかないものと思っていたのだ。
 今度こそは2度とテレビには出るまいと決心した。醜態を演じたわりには何の効果もなかったと思ったが、年末から68年春にかけて、部族新聞は街頭販売で飛ぶように売れた。その頃は富士見や国分寺の部族を窓口に、沢山の若者たちが集ってきていた。彼らが売り子になって新宿をはじめ全国に、部族新聞を拡げていったのだ。

 [ヒッピーブームの裸おどり]

 国分寺に誕生したばかりの「エメラルド色のそよ風族」で、大晦日のパーティに参加した後、68年元旦の真夜中、私は国道1号線をヒッチハイクで西に向かった。普段は超過密の1号線も、元旦の夜はがら空きでSF世界のようだった。
 広島の病院にアキを見舞い、部族新聞を渡した。雷赤鴉族で血を吐いて入院した若者とは、これが初対面だった。宮崎でキャップらの一行8人と落ち合った。その中の1人がジェファーソン・エアプレーンのデビュー版を持っていたので、私たちは社交ダンス場へ行き、オーナーに新しいダンスを披露したいからと言って、持参したレコードをかけてくれるよう頼んだ。
 オーナーは喜んで、社交ダンスを踊っている善男善女に私たちを紹介し、アメリカ輸入の新しいダンスを披露するから見学するようにと言った。全員が踊りを止めて、私たちに場所を譲ってくれた。拍手まで起こった。
 そして突然、グレース・スリックのサイケデリックな声が響いたとたんに、私たちは跳び上がり、広いホールを駆けめぐって踊った。観客は唖然としていた。とても見学して覚えられるような踊りではなかった。
 そのうち汗まみれになったダンサーたちは上着を脱ぎ、下着を脱ぎ、ついに男も女も全員がスッポンポンの丸裸になってしまったのだ。それでも怒る人はおらず、オーナーはレコードを中断しなかったから、クタクタになるまで踊った。
 その後、諏訪之瀬へ渡る準備をしながら、鹿児島のダンスホールでも一夜、同じような裸踊りをやった。女性のオーナーだったが、あなた方の踊りは最高だと褒めてくれた。
 1月中旬、私はキャップ、ヨー、ホーなどと諏訪之瀬へ渡り、ミコ、ナンダなどのメンバーと交替した。亜熱帯地方とはいえトカラ列島の冬の雨は冷たく、コミューン建設ははかどらなかった。
 開墾は竹薮を払い、竹の根を掘り起こし、牧場から牛糞を拾ってきて堆肥を作り、様々な野菜の種を蒔いてみた。火山灰地は地味が痩せ、私をはじめ農業は素人ばかり、島民からは色々指導してもらったが、化学肥料だけは使うまいと思った。
 かじゅまるの夢族の瞑想センターは、キャップが棟梁になって、前年夏から作業を進めていたが、万事がスローペースだった。材木にしても自ら山を歩いて樹木を選定し、伐採し、運搬し、製材せねばならず、また竹を編んで壁を作り、竹の葉を束ねて屋根を葺くという馴れない作業は手間がかかり、都会化された若者たちには大変なことだった。
 『部族』2号は三省が中心になって、エメラルド色のそよ風族が制作することになり、私はがじゅまるの夢族の座談会と、イラスト「活火山の上のゴーストダンス」を寄稿した。(「ポンの絵」No.
 68年春、初版1万部、再版5千部を発行、ミニコミというには桁外れの発行部数だが、街頭販売だけで売りさばいたのだから、ヒッピーブームは半端ではなかった。
 わが国初のロック喫茶「ほら貝」が国分寺本町に、エメラルド色のそよ風族によって建設され、ヒッピーたちのたまり場としてオープンしたのもこの春のことだ。 

 [国分寺の「部族」にわが国初の大麻弾圧]

 諏訪之瀬が雨期に入る頃、島にある唯一の電話を通して、東京の仲間からエメラルド色のそよ風族にガサが入り、大麻所持で三省など5名がパクられたという連絡があった。
 やっぱり来たか、と思った。雷赤鴉族の土地が三省の名儀で登記されていると知って、エメラルド色のそよ風族も当然マークされているはずだと、三省にも警告しておいたのだ。
 わが国初の大麻取締法違反(所持)による逮捕者は、三省、マモ、ナンダ、ミコ、シロの5名。折からヒッピーブームの最盛期とあって、マスコミは大々的にこれを報道し、新聞は全員の顔写真まで載せた。
 私としては救援に飛んで行きたかったが、ナナオから諏訪之瀬の方が大切だと言われて思いとどまった。ナーガとピー子はインドへ行っていたが、救援は三省の全学連時代の友人、日吉真夫がやってくれた。
 しかし捕まえてみたものの検事側には、これを裁判にもって行くだけの公判資料がなかった。日本国の必要から生まれた法律ではないから、大麻を有害とする学術資料などあるはずがなかった。そのため全員を起訴猶予として無罪放免した。とはいえ権力は「ヒッピーは麻薬中毒のダメ人間」として、5人を見せしめにしたことで目的を果たしたのである。ヒッピーブームに対する、これが権力による恫喝だった。
 これに対して「部族」は、マモが名誉毀損で反撃したが、控訴棄却されて後が続かず、その後大麻解放運動とは一線を画し、69年から70年にかけて「マリファナ解放戦線」の運動にも関らなかった。そして深く静かに潜行した。
 私たちは富士見や諏訪之瀬のコミューンで、北海道から採取してきたカラスを回しのみ、マントラ・ヨガを修め、自然に回帰する生活を探求した。もっともこの当時は、大麻よりもLSDの方がメインだったが。(LSDが日本で非合法化されたのは1970年) ●