8/8「ポラーノの広場をつくりだすために」

鳥山敏子さん


司会:「ポラーノの広場をつくりだすために」ということで、鳥山敏子さんにお話いただいて、その後、四時から六時ごろまで、これまでの様々なフォーラムで提出されてきた問題だとかそういうことを、皆でまとめるというか検討しながら話していきたいと思います。鳥山敏子さんは六年前に賢治の学校を始められて、ずっと活動されているんですけども、「ポラーノの広場」というのも、宮沢賢治の言葉の一つで、新しい社会のありかたのビジョンを示す言葉なんですけれど、そういう共生のコミュニティを創るビジョンについて、語り合うことができればいいなと思います。教育の現場で実践的に活躍されている鳥山敏子さんに、彼女が取り組んでいる現場からお話いただいて、また質問があれば、質問なりディスカッションができれば…と思います。では、よろしくお願いします。

鳥山: わたしは教師をずっと30年もしていたので、子ども達がものすごく元気がなくなってきていて、学校の中でもういくらやってもダメだなっていう風にすごく強く感じたんですね。1970年代の終わり頃には、それをすでに強く感じていました。60年代の終わりから校内暴力があったでしょ、学校が壊されたり、それから70年代の後半になって子どもの自殺がね、ものすごく増えたんですよ。学校の中でのいじめによる自殺とか、もう未来に絶望して死んで行く子ども達が70年代の終わりから出てきて、80年代、そのあたりでやめようと思ったんですが、自分自身を変えてみるということに私は取り組み始めたんです。それはタケウチトシハルさんのところにいって、それまでずっといろいろ、頭で考えるということをやっていたんですが、もっと感じるというところに自分の体を変えて行くということに取り組んだんですね。

私自身がそれなりに今の社会の中で流されないでやってきているっていう風に思っていたんですが、どっか嘘をついているぞっていうメッセージを体が送ってきていたんですね。みんなにとにかく通用すること、まあみんなといいましても100%みんなじゃなくて、ある体制、まあ反体制の方の側ですよね。そこに通用することをやっているんですけども、どっか私自身が私に対して正直じゃないということがあって、それで1974年くらいから、私は、本当の私はどう感じているんだろう、という、どう体がしたがっているんだろう。本当にこれをやりたいんだろうかというところに問いかけるレッスンをしたんですね。人と人とが出会うということ、自分自身が出会うということはいったいどういうものかということを、タケウチさんのレッスンの中で体で体験して行ったんです。

それが1977〜78年くらいを頂点として、そこから時間の感覚が私の中で変わってしまっていて、三ヶ月が何十年もたっている感覚なんですね。だからどんなに思い出そうとしても何年たっているのかということが思い出せないんですよ。その時間の感覚が変わってしまっていて。そういう私自身が、永遠の時間の中に体が入って行っちゃうんですよ。外の区切られた時間の中で生活しているとわからないんだけれども、その中に入って行ったときに、子ども達が感じていることがとても感じられるようになった。そして、子ども達にとって、学校ってものがいったいなんなんなのかいうことをさらに考え始めたんです。

なんなんだろう、学校なんてのは。で、教師っていう立場からすると、教師は役人ですから、子どもの味方にはなれないんですね。役人ですから、文部省の決めたこと以外はやれないという立場が決まっているんですよ。上が決めたこといがいはやれない。でも、まあやれないことにはなっているけれども、どこまでやったら首になるかということをやってみようと思ったんですね。役人でありながら、トオヤマヒラク先生という数学者がいらしたんですけど、武士の時代でも人を斬りたくない武士は、刀のつかのところをコヨリで結んで、刀が抜けないようにしていたそうなんです。教師もそういうことはできるはずなんです。役人でありながら、子どもの側に少しは立つということをやってみることは可能ではないかという。まあ、ほんの少しですけどね。

やってみて思うのは。そういう風にして、学校っていうのが、本当に子どものためにあるとしたら、子どもにとって良いことはやっていいんであって、子どもにとっていけないことはやっちゃいけないんです。それは文部省が決めようが決めまいが、学校っていうところの基本に立つとしたら、子どものためにあるとしたら、そう私は解釈するという立場に立ったんです。でも、学校っていうのは、本来、国家機関が、明治に入って富国強兵政策をより押し進めて行くための政策として作った機関です。裁判所とか警察とか全部そうですよね。国家の機関として作ったんです。その中で私が、子どものためになるということであれば…と。

しかし、どういうものをもって子どものためになるのかというのは非常に曖昧なんですが、しかしでも逃げ道として使えるんです。その言葉は。それで授業を作って行ったわけです。そしたらねえ、クビにならないんですねえ。なかなか教師はクビにならないというのがよくわかりましたね。大体何やったってクビにならない。ただ、お金ときっと女とか男とか、そういうもので失敗すれば、クビになるきっかけというものが出てくるかもしれないけど、それでもないですよね。

それでやっても、まあクビにならないということはわかったのですが、たいへんだったのはね。親がたいへんだったですね。まあ、私が受け持っている間というのは、親は私に対してとっても協力的だし、一所懸命やってくださるわけですよね。私の出した本というのは、ほとんどぜんぶ親たちがテープ起こしをして、それを私が整理していったものなんです。そのくらいいろいろ準備するし、親も授業をたくさんしましたし、私以上にいっぱいいろんなことできるわけでしょう。ひとり一人が。一番優れたものがその子どもの前に用意できるような状況を作ればいいわけで、それも教師の仕事だと思ったんですね。だからものすごく、たくさん親たちあるいは親の友だち、あるいは私の友だちが学校に来て授業をするわけですね。

それでね、若い教師達がなんていうかというとね、「教員免許を持っていない人を、教室に呼んでいいのか」っていうんですよね。若い人たちがそんなこというなんてね。まあ、そういう風になった連中が教師として採用されて来ているんだなあって、それもまあ強く思いましたけれども。それでもまあやれるんですね。たださっきいったように親がたいへんだというのはね。学校の中である程度やって、子どもが元気になってうちへ帰って行くでしょう。そしたらまたね、しょんぼりしてんですよね。次の日。またそこからやらなきゃいけないんですね。その子どもに対して。それがものすごく頻繁になっちゃったんですよ。とってもたいへん。何がうちの中で起きているのかということは、言わないんですよ。親は正直じゃないんですよね。あたりさわりのないことしか言わない。何が起きて子どもがこんなに元気がなくなっていくのか。

で、私は長い間学校側の問題だけを考えていたんですね。学校というのは非常に問題であると。本当に子どものためになることなんか考えていない。だいたい企業が安上がりの労働者を作れるように前もって教育する機関として学校が、簡単に言えば利用されているというのは、やってみると良く分かるんですよね。なんたって、あそこにいると時間で子どもを追い立てなければならないんです。時間の奴隷になるというのは、そういう大企業の中に入って行った一こまになりやすい。

昨日までドイツの人とワークショップを昨日までやっていて、また明日からやるんですけれど。シュタイナーのオイリュトミーとフォルメンとそれから人智学のワークショップを二日の日からずっと昨日までやってたんですけど。そのドイツの人が日本に来てびっくりするのが、駅でいっぱい人がいるでしょ?それがぶつからないで歩けるのが不思議だっていうんですよ。よくみんなぶつからないで歩いてるなあって。立川だってうわーーっとなっててね。ちゃんと昇りと下りに分かれているけど、昇る方が多い時は、下りの方を半分位占領しながらやってきてますよね。そういうのが自分達で自然にできちゃうでしょ。ああいうのはドイツに行くと考えられないっていうんです。そういうところもちゃんと適応できるように、学校教育で子どもの体を作っている。

たくさんの子どもが同時に短時間で効率良く動いていけるような訓練というのはものすごくされていますよね。だからいろんなことで学校でやっている訓練っていうのは、「あー、役に立っているんだなー」ってね(笑)。本当に残念なことに役に立っちゃってんだよね。本当に自分にとって心地いい空間の範囲とか、そういう風なものはマヒしてしまうわけです。あんな駅みたいなところでわーっとなって、窒息しそうな感じなのにそれでも適応しちゃってるというかね。なかなか自然の方に体がいかなくなってるっていうのも、すごく大きなことだと私は思うんです。

これは一つはさっき言った家庭教育の、家庭の中で何が起きているのかということについてのクエスチョンがついたということと、もう一つは、環境ですよね。環境がね1970年に入ってから、子ども達の日記がガラリと変わっちゃったんですよね。もう悩みなんですよ。友だちとのつきあいの悩み。それまでは全くちっちゃい子どもだったのね。

「今日道ばたで虫が死んでいて、蟻がたかっていた」とかね。そういうものに目が行くわけ。大人達がぱーっと通り過ぎていくものをめざとく見つけて、それに触れて文章を書いてきたりすることがたくさんあったんだけども、全くなくなっちゃったね。全くなくなっちゃった。もう皆忙しくなっちゃった。友だちとの付き合いで。そして約束しなくちゃいけない。本当に遊びたいのかどうかはわかんないんだけども、友だちが持っているものは自分も買って、人よりもそのゲームなりなんなりができるようになって、話題を作って、ついていけるようになったり、あるいはリーダーシップとったりっていうことに、とっても忙しくなっちゃったんですね。

で、ああもう本当にこれはたいへんなことになってしまったなという風に思ったんですが。どうやってそういうひどい状況からなんとかする道を見つけることができるかなあと言うのがね。で、タケウチさんのところでやっていたレッスンを、子どもと一緒に、つまり子どもの授業としてやっていくと、どういうことが、どういう体が可能なのかなということに取り組んでみました。それは、『体がかわる、授業がかわる』とか、『命に触れる』とか、『イメージを探る』という本にも書いたんですけども。子ども達が、外の世界は壊れているんだけども、子ども達の中に、ずっと太古から体の中に引き継がれている、残っている無意識の中のものというのが、イメージに触れる。言葉のイメージもあるし、絵画的なイメージもあるし、心象のイメージもあるんですけど、そういうものを授業の中で、どんどん取り入れて行ったんですね。

それはものすごく子ども達が欲しがっていたんです。疲れてくると、「先生、イメージやろ、イメージやろ」っていうんです。イメージっていってもすごい単純なことなんです。例えば私が「海」っていうんです。そうすると子どもがそれぞれの海を思い浮かべるでしょ。目を閉じている間に、その海がどんどんどんどん変わっていくわけですよ。で、物語が頭の中で、イメージで進行していくわけですよ。それでイメージが進行しているのを、それを今度は頭の中の映像から、身体的な動きに変えていったり、歌にしていったり、踊りにしていったり、絵画にしていったりっていうのをやっていったんですね。それはねえ、やっぱり子どもがそのときだけは自分を取り戻すことができるっていうか、ほっとする。子どもが自分の力で自分の中にある深いものに触れてやり始めているんだなっていう手ごたえを持ちましたね。イメージに触れるっていう、子どもっていうのがこういう風に感じる体を持っているんだっていうことを、世の中に出そうと思って出したんですけど。

もう一つはね。「いのち」っていうこと。まあ1970年代の終わりから自殺が多くなっていったっていいましたけど、不登校がまたその頃出てきて、増えましたよね。実際のいのちを食べるということ。私が小さいときっていうのはね、このパンフレットの中にもあるように「太陽を見てお月様を見て」ってね。朝、今太陽を見ることがなくなった子どもたちのパーセンテージってすごいですよね。朝日夕日を見なくなった子ども達。私は朝起きたら、おひいさん、「おひいさん」っていうんです私はね。朝起きたらおひいさんに手を合わせる。んで、夕方になったらまたおひいさんに手を合わせるんですね。おばあちゃんは、うちの母や父と一緒にいつも。太陽信仰が残っていましたから。

「おはようございます」っていうのは、太陽が出るよりも早い時間のことを「おはようございます」っていうんですね。太陽が出てからは「こんにちは」なんですよ。お日さまが出たら。だから「こんにちは」っていう時間にしか皆は起きていないんですね。太陽が出た瞬間からは「こんにちは」なんだから。おひいさんに手を合わせて、あるいはお月さんを拝んでっていう、自然とのつながりが体にはあったんですが、それがすごく無くなっていったんですね。子ども達見てて。

それで、鶏を殺して食べるっていうのを、そのままでやると抵抗がある人がいるので、「狩りと採集の時代」っていうのをまたイメージの世界でつくったり、あるいは実際に、前の日から何も飲まない、食べないでいて、次の日山に登って、食べ物を探して、探しても何もないわけですよ。冬山だったりすると。あっても食べてもいいものかどうかわからない。で、喉は乾くし、お腹は空くし、という状態にしておいて、鶏を河原に放すんですね。その鶏もどうやって捕まえるかっていうことを、グループごとに考えさせたりっていうことをやったの。子どもは鶏が空飛ぶってことも知らなかったのね。空飛んで逃げてったりするんですよ。鶏も必死ですからね。

また自分達で畑をやって、これも随分取り組みました。畑や田んぼをやるとそこから子ども達が学ぶことって、ものすごくありますね。子ども達と一緒に畑をやったり、田んぼをやったりすると、まず作るっていうことよりも、そこにいる虫たちと遊ぶことで一所懸命になってしまうので、作業そのものはなかなかはかどりませんけども、でもそれが大事なんだと思うんですね。そういう風にして、「いのち」に触れる、いのちというものが自分の体の中をたくさん通過して、「いただきます」というのは、「いのちをいただく」という意味だということを、少しずつ少しずつ積み重ねながら行ったんですね。

で、あるときに、1、2年のときに持った親がですね、「先生はなんで豚でやらないのか」っていうんですね。「豚でやらないというわけではないんだけど」といったら「今日テレビ見てたら、豚っていうのは一生の間にお日さまの光を見るのは、豚小屋から屠場に行く間だけで、ほんのわずかしかお日さまにあたることはないんだっていってた」と教えてくれたんですね。これは私は知らなかった。豚というのは大体ブーブーいって、こういうところで飼われているのしか私は見ていなかったものですから、これはたいへんだと思ってすぐ調べたら、ウインドレス豚舎というのがあって、今はほとんどウインドレス豚舎でやっているっていうのがわかったんですよ。ウインドレスというのは、窓が無くて真っ暗で、一時間ごとに消毒の液が降ってくるんですよ。そういう無菌状態の中で、豚が自動的にやってくる餌を食べさせられて、太らされて。まるで子ども達がそうされているのと全くおんなじですよね。イメージがどんどん重なっちゃうんですけど。

それで、調べにいったんですよ。もう、何かを調べるというとどこまでも行きますから。どこへでも飛んで行きます。飛べないですね、鳥山であっても(笑)。で行ってね、そして見たら凄かったねー、やっぱり、恐ろしかったね。そのときにもう一つわかったのは、その後、屠場に行ったんですけどね、牛の目をじっと見てるとね、牛って泣くんですよね。牛は悲しまないとかいうの、嘘だと思いましたね。屠場に集められてくる牛達は、じーっと見ていると、あの大きな目でね、だんだんだんだん泣くんですよ。どの牛とも目を合わせると泣くんですよ。この牛だけが涙もろいのかなあというとそうじゃない。どの牛も泣く。

あー、本当にすごいことを私たちはやって、自分の食べるものをつくり出していて、しかも大量に捨てている。学校給食というのはね、捨てるために作っているんじゃないかというくらい捨てるんですよ。子どもの数以上に作ることになっているんですって、どうしてかしらないけど。いやあ、本当にあれはもう参っちゃいますよ。そういう風にして、子ども達が目の前でどんどんものを自分で捨てるわけですよ。食べきれないものとか、嫌なものとか。そんな中で一つ一つの「食材」--あまり好きな言葉じゃないですけど、その中に全部いのちがあったんだということ。

豚のもう一つの驚きは、屠場に行くと写真が撮れないんですよ。働いている人を入れて撮れない。豚そのものはOKなんです。つまりね、差別がすごく残っている。自分がここで働いていることを妻にさえ言ってないという人がたくさんいたんですよ。そのくらい、部落問題っていうのが、まだ終わっていないっていうことの問題です。

そういう風なこと、今の社会問題も多少入れながら、戦争のことは、ずっと毎年、親やおじいちゃん、おばあちゃんにインタビューして調べることを、宿題として出すんですね。親子一緒で。子どもだけじゃなくて、親もその親に聞いてくるっていう形で出すんです。そんな風に生と性と死っていうものを、授業として取り上げていったんですが、やっぱりえらいことは親ですね。

私はその間、1970年代、1978年になるんですが、おおえさんの本を持って、インドへ旅に行くことを、毎年行くんですが、5年間続けました。行くと一ヶ月くらい行くんですが、間に一回だけ、アフリカとギリシャに行くのを挟んでいますが、その他は全部、だから6年間行き続けて、お釈迦様が生まれて死ぬまでの道を辿りながら歩いて、最後のインド行きは母を連れて行きました。



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