いのちのフォーラム報告

8/7「自然農

川 口 由 一さん


スライドを通してお話をします。で、最初少し、皆さんの御質問を受けておいてから、スライドで話す時に、何とか答えられたらと思っておりますんで、どうぞ。

(質問)
新潟から来ました。新潟は雪が深くてですね、難しいんじゃないかと思ってるんですけれども、その辺はどうでしょうか?

(川口)
寒い所、あるいは極端に暑い所では、自然農は向かないんじゃないかという御質問ですね。スライドの中でお話するつもりですが、寒い暑いに関係なく、気候に応じて自然にそった、あるいは生命に任した栽培の仕方ですので、ハンデ、問題はないのじゃないでしょうかね。この天候は、この作物は、自然農に向かない、この土地は、自然農には向かないという事は無いんじゃないでしょうか。各々の気候に、または、各々のいのちに任せていく、各々の土質に添って(沿って)いく。こちらから決まったものをもっていくんじゃなくて、添おて行きますもので、あるいは任せていきますので、今の御質問のような問題はないかと思うんです。

ところで、どこでも変わらない、基本の在り方があります。決まった形はないんですけれども、変わらない基本の在り方がありまして、それは、耕さない、田圃の表面を耕さないという事と、肥料や農薬は必要無い、持ち込まない方がいいんだという事と、草や虫は敵でない。それ位の事なんです。自然界がそうなっておりますので、そうなるんです。そうした在り方は地球上どこにおいても、変わり無く、それで居て、その気候、土質、夫々の作物の性質に応じて、あるいはひとりひとりの考え方によっての、自然農があると言えると思います。決まったやり方があるのではなくて、自然に添うわけです。そして栽培をしているんだという認識が必要だと思います。必要に応じて手を貸してやらなければならない。各々の作物は農夫に依存したいのちなんですね。必要に応じて手を貸してあげる訳ですけれども、自然に添う、あるいはいのちに任せる、いのちの世界、自然の世界には手を出さない。そんな風に言えるかと思います。

ですから、あったかい所、寒い所関係なく、あったかい所がものすごい、草の生命力が盛んだから、自然農は向かないんじゃないか…そんな風に思いがちなんだけれどもそんな事はなくて、作物も周囲にあります草も同じ条件のもとでの、いのちの営みですので同じなんですね。寒い所は寒い所で、草はあんまりないんだとか、やはり向かないんじゃないかだとか、考えがちなんだけれども、その気候においての作物のいのちと、同時にその気候においての草や虫達のいのちですので、どこにおいても条件は同じです。あとはその気候においての、ちょっとした対応の技術が身についてくればいいんじゃないかと思います。

「自然農」という言葉を使っておりますけれども、自然のまんま、何もしないで、お米を育てる、あるいは米が育ってくれる、作物が育ってくれる、そうじゃなくて、やはり、必要最少限度の手を貸してあげないと育たない。で、栽培しているんだという認識が要るかと思うんです。適期に、的確に最少限度の手を貸してあげる。少しの心くばりと手助けによって、各々の生命は見事に育ち全うするんですね。米といういのちは、大根といういのちは、全うしていく。その結果、実りを手にする事ができる。ま、そんな風に言えるかと思います。

それじゃ、スライドを通しまして、自然農の世界をあるいは、自然界の姿を紹介いたします。途中で御質問がありましたならば、どうぞ出して下さい。いのちの姿を、いのちの様子を見ていただきながら、自然農を紹介いたします。

私たちいのちあるものが生きていくのに必要な食べ物も同じ様に、やはりいのちあるものです。お米も大根も白菜も、いのちあるわけですが、そのいのちあるお米を、野菜を、あるいは果物を、いのちの世界において、どんな風に育ててあげたならば、いのちの道からはずれずに、毎年毎年、豊かな実りを私たちに届けてくれるかどうか、それを問われている今日(こんにち)です。

ところで、お米が育ちます田畑も、あるいはそのおおもとの大地も、地球というひとつの大きな生命体です。そこに足乗っけております、もろもろのいのち達も、各々の生命体です。で、地球生命圏の中で、地球というひとつの生命体の上で、沢山のいのちが各々生きてる訳ですけれども、すべてのいのちは一体の営みをしている。一つの生命の営みです。田畑におきましても、様々ないのちが一つの生命となって一体の営みをいたしています。

地球というひとつの生命体が、誕生したのは、47億年前と言われております。その遥か以前から、地球を産む、いのちの営みがありました。その営みによって、47億年前に地球というひとつの生命体が誕生しております。もちろん、当初は人という生物は地球の上には、存在しておりませんでした。年経つにつれまして、地球の生命活動が盛んになり、沢山のいのちが、そこに誕生いたしまして、今日もいのちを栄えさせております。そして、各々のいのちが生死に巡っております。で、この地球の上に人類という生物が誕生いたしましたのは、約数十万年、数百万年前。人らしい姿の生物が誕生したと言われております。そして、今日も、存在し続けることができまして、沢山の人が営みをしております。

地球は沢山のいのちが、いのちの営みをすることのできる豊かな環境、豊かな自然、豊かな楽園です。こうしたことは一人一人の思いを超えた、大いなるいのちの営みの中での出来事です。生命の事は生命に添うしかない、それに任せるしかない、あるいは、なるようにしかならない自然界です。そうした、大いなるいのちの営みの中で生かされている私たちが、いかに生きたらいいか、いかに食糧を確保したらいいか、いかにいのちあるお米を育てたならば、そのおおもとの環境を、あるいはいのちの世界を、損ねる事なく、いつまでも生活できるかどうか、あるいは、栽培生活を続けてゆく事ができるかどうか、を問われています。そうした問題を一切、招く事のない生活を人類が誕生しました当初は、しておりました。

すべてにおいて、そうだろうなぁと思います。食糧の確保の仕方においても、自然の恵みを上手にいただいての、採集生活、狩猟生活でした。やがて、知恵が働くようになりまして、生活の足下で、その気候に応じたものを栽培する、種を蒔く、森の中から持って来たものを、ある所に植える、栽培生活が重なってまいりました。約1万年位前と言われております。人類の歴史から言いますと、ついつい、最近のことになります。つい、つい最近です。で、当初は一切環境に、あるいはいのちの世界に、あるいは各々のいのちに問題を招くような栽培の仕方ではなかったはずです。いのちの法則、生命の掟に従った栽培生活、あるいは食生活、そうだったんだろうと思います。

で、数千年、一万年前後の栽培生活の歴史を重ねて、ここ百年位前から、特に4〜50年前くらいから、その栽培の仕方が大きく変化いたしました。大きな問題を招く、栽培の仕方になってしまいました。それは百年位前からでしょうか?科学する知恵での考え方、生き方に、生活の仕方に、あるいは農耕生活の仕方に、変わってまいりました。科学する知恵での化学農業、あるいは、高度な技術能力での機械化農業、化学農業、大規模農業の大変化がここ50年前後の間に、起こりました。その事によって、私たちのいのちの世界に、あるいはすべてのいのちに、一体の営みをしておりますいのちの世界に、大きな問題を起こすようになってしまいました。お米を育てますのに、投入しているエネルギーの方が多いと言われております。栽培すればするほど、マイナスになっているのですね。

あるいは、足下の大地を壊れさせる、土を汚染させる、水を汚染させ、空気を汚染させる、あるいは地球という生命体をどんどん、えぐり取りまして、地球資源をどんどん消費させてしまう。そうした問題を招いての、今日の農業です。あるいは栽培の過程におきまして、農夫の生命を損ねてしまう、あるいは作物に農薬の毒が混ざりまして、食べて下さる消費者の生命を損ねてしまう、その結果人々の生命が衰退する、いのちの舞台であります環境を破壊する。と同時に、生かされております、すべてのいのちの生命活動に障害を招く、生命力を衰退させる、そういう問題がつのって参りました。あちこちからそうした報告がなされておりまして、ひとりひとりが問い直さざるを得ないという状況になっております。

栽培生活が始まっての、数千年、一万年前後の歴史ですけれども、ここ4〜50年の大きな変化によりまして、食糧が多量に、とにもかくにも一時手にする事ができた。で、その事によりまして、消費生活者の数が非常に増えまして、と同時に、生活の仕方が、急速に変化いたしまして、都市が肥大化する。人々が群がって、人工の中で、都市生活を営む、そうした姿が、顕著になって参りました。

その事によりまして、又また、大切な水や空気を汚染する、多くのいのちを衰退させる様な地球生命圏になってしまう、そうした問題が重なりました。お米よりも大切な水や空気を、あるいは、いのちたちの営みの舞台であります、地球生命体を損ねる様な農業に、生活の仕方になってしまいました。

植物に生かされる私たち、他のいのちに生かされる私たち、あるいは水に、空気に、太陽に生かされる私たちです。そうした恵みを自らの手で断っていく、そうした生活の仕方が顕著になっております。群がって、ひしめき合って、便利さを中心にしての都市生活、物質生活、物質文明、都市文明です。

あるいは終戦後日本は、とにもかくにも農業生産を高めました。あるいは工業化、工業を中心にしての発展を急速にみせまして、大きな環境問題を招いております。あちこちで大きな機械が、化学肥料が、農薬が、あるいはその燃料が用意されて、工業地帯を汚しますと同時に、田畑に運ばれて、豊かな自然の農村地帯に運ばれて、また又汚染する。そうした問題が顕著になっております。

で、今日の汚染は工業地帯におきましても、都市におきましても、人の住まない山間地におきましても、避ける事のできない問題になっております。地球上にありますすべての人に、あるいはすべてのいのち達に問題を、私たちが招いてしまった訳です。とり返しのつかない大きな問題になっております。自然から大きく逸脱した都市生活。消費生活です。ところが自然から大きく逸脱いたしましての生活を重ねる、あるいは物質文明の恩恵にあずかる中での生活を重ねている人の中から、気づきが始まりました。

目覚める人たちがふえてまいりました。色んな目覚めや気づきが、こうした都市生活者の中から始まりました。自然農に関心を持たれ実践されます大半の方も、都市生活者です。

豊かな自然に恵まれました農村の方からはそうした気づきは遅れておりまして、いのちの大切さに気づかれましたのは、都市住民です。あるいは、農の変革、農村の変革は、都会から…そうした趣のあります今日です。

大きな問題を背中に背負っての都市文明、化学文明です。いのちあるものにとって、あるいは地球という生命体にとって、大きな問題を背中に背負っての、今日の華やかさです。何かがひとつ壊れますと、すごい破壊力がありまして、人類滅亡の危機だとか、あるいは沢山のいのちを存亡の危機に追いやるとか、そうしたことが報告されております。人類は今日まで、農耕生活に入りましてから、食糧が約束されますと、その近くで都市が誕生して栄えまして、栄えた極みに生命力が衰退する。知恵が衰退する。同時に精神の退廃ともなり、やがて都市文明は崩壊する。誕生と発展と、崩壊の歴史をくり返しての今日です。

ところが、かつてない程の華やかな物質文明を築きまして、その結果、ものすごい破壊力を背中に背負っての、この科学文明、都市文明です。作られましたものは必ず壊れると同時に、自然の理(ことわり)から大きくはずれたものは、大きな問題を残してこわれてしまう。そうした定めの中にあります。

環境問題のこと、自然界、生命界に招いております諸々の問題を考えますと、私たちいのちあるものが、いかに生きればいいかを問われております今日です。いのちの世界におきましての、いのちの営みは、いのち自ら、生死を巡って参ります。あるいは全てを在らしめます大いなるいのちの営みによって、生死に運ばれます。ひとりひとりの思いや事情とは関係なく、生死に運ばれる私達です。

死が終わりではなく、生が始まりでもなく、生死生死に巡る個々のいのちです。死の次に、新たな命が誕生する。成長する。老いる。死ぬ。生まれる。……終わる事なく、命の営みはあり続けて参ります。この命の営みは、いつから始まったのか定かではなく、始めなくそして、いつまで続くのか定かではなくて、終わりなく続く、無始無終の営みです。耕さない自然農の田畑でもやはり、そうした営みを見せてくれる様になります。

命の営みは時の流れを背景にしております。流れる時がありまして、命の営みがある。それゆえに、誕生する、成長する、老いる、成熟する、死に運ばれる。そうした営みがあり、続いています。時の流れを背景にして、必ず生まれて来たいのちは、成長して参ります。あるいは、芽を出したお米は、成長して参ります。かつてない程の難問を抱え込んでしまいました、私たち人類ですが、次の時代を担います幼子が地球のあちこちで、健やかに育っております。幼年期から少年少女期へ。十数年を経過したひとつの生命体です。このいのちの過去を遡って参りますと、人類の初めに、あるいは、人類を生んだいのちの初めまで、遡らざるを得なくなります。今ある生命は、過去のいのちの続きでありまして、一人一人の生命体の中に、過去のすべてがしまい込まれています。

素晴らしい生命体、完全な生命体、人という完全な生命体でありますが、ひとりでは生きることのできない、人類だけでは生きる事のできない、すべてのいのちと一体の営みをしております。

これから四季の巡りを通して、自然農の実際の姿を紹介いたします。

太陽系の生命圏の中で現出いたします四季の巡り…で、季節は冬です。少しずつ時は流れまして、春へ春へと巡って参ります。雪解けが始まります。山から谷に、谷から里にと流れて参りまして、里ではお米を育てる野菜を育てる…あるいは里人のいのちを養い育てる。あるいは海に流れまして、海のいのちを…そんな風に、水は行く所行く所で、沢山のいのちを育み育てて参ります。

山から里に、里から海に注がれました水は天井に昇り、又また山に、里に注がれまして、いのちを育て続け、養い続けてくれる…そうした自然界、生命界です。

冬の眠りから覚め、少しずつ少しずつ春の訪れです。冬は、生きられないいのちは、種に姿を変え、冬静かに眠っておりました。

やがて春の訪れです。大地に次のいのちの種を落としまして、また又巡りが始まります。ひと冬眠っておりました木々も、私達のいのちも、春の訪れと共に、春の営みに入り、心も体も華やぎ、野山には色とりどりの華やかな花を咲かせる季節です。

…日々に、気温があったまって参ります。冬の眠りから覚めて、少しずつ少しずつ華やかな、春の訪れです。四月に入りました。大和では、山桜が咲き始めます。この頃に日本の気候風土の中で、食生活の中心になっておりますお米、食文化の中心でありますお米、あるいは農耕生活の中心でありますお米の種蒔きの為の、心づもり、準備が始まります。

四月に入りますと、気温が暖まりまして、草ぐさが緑色を濃くして参ります。冬の枯れ野原から、あるいは小さな草ぐさが、姿を伸ばし始めます。春一番の農作業は、ジャガ芋の植付けです。冬は生きられないジャガ芋が春の初めに土の中に埋めておきますと、生命活動を再開いたします。

春が深くなってまいりました。冬草は更に姿を大きくさせまして、花を咲かせ、子どもを作る営み、種を増やしております。その冬草をかき分けまして、少し足元の枯れ草をもかき分けまして、インゲンの種、あるいはトウモロコシ、オクラ等夏野菜の種を蒔きます。

栽培生活の最初に行ないます、“種まき”ですね、少し、手を貸してあげる最初の作業です。貯蔵しておきました、保管しておきました、夏草のインゲンやトウモロコシの種をまた、大地に降ろしてあげますと、再び親の続きを営みます。そっと、足元の腐葉土をかぶしておきまして、周囲の草は刈り取らずにそのままにしておきます。数日にして双葉を出します。インゲンは夏の草です。周囲にある草ぐさは、冬の草です。

冬草は沢山の子孫を種で用意いたしまして、やがて死んでいく訳ですが、その夏は生きられない冬草の足元に、夏しか生きる事のできないインゲンの種を蒔いてやりますと、ゆるやかな交代が始まります。やはり種々の冬草が花を咲かせて子ども作りを盛んにしております。その足元に夏草の南京、すいか、あるいは冬瓜(とうがん)地這い胡瓜など、夏の瓜の種を蒔いておきましたならば、双葉を出し、冬草の足元でスタートいたします。

種を蒔く所だけ、草を刈って、種を土中に埋めて刈った草をそっとかぶしておきます。周囲の草々はそのままにしておきます。近くでは全部食べきらないで、種を確保する為に残しておきました冬野菜の大根、人参、種々の葉菜類が花を咲かせ、実を結び始めております。

やがて初夏です。苺が、玉葱が、収穫期を迎えます。そろそろと、その恵みをいただける様になってまいります。

栽培している作物の足元は草に負けない様に、太陽の恵みを受けられる様に、草を刈ってそこに敷く、そうした、手助けを少ししてやります。栽培をしておりません所は、色んな草が自然に生えるに任しておきます。やはり、除草は手を貸す作業の大切な一つかと思います。栽培しておりません所は、草のいのちを全うさせてやる。草はそのままにしておいてやる。その事によって、作物が健康に育つ事を約束されると同時に、草ぐさの足元が豊かであり続けてくれる。豊穣の土地であり続けてくれます。

苺は初夏の草の実、私たちのいのちをうるおわせてくれます。ジャガ芋の一生は、数カ月、4ヶ月位でしょうか?あっという間に、一生が終わります。私たちのいのちは、百年、百二十年のいのちを与えられておりますけれども、ジャガ芋は4ヶ月。寒い冬と暑い夏は生きられませんので、あっと言う間に一生が終わる訳です。六月末です。ひとつのいのちのジャガ芋が、3つ4つと、いのちを増やしました。

周囲はジャガ芋以外の草ぐさもいのちを栄えさしております。収穫です。その足元や土の中にも、小さな小動物が、あるいは目に見えない微生物たちが、生きており同時に、地上でもジャガ芋以外の草ぐさが、小動物が一体の営みをしております。

約四ヶ月でジャガ芋が一生を全ういたしました。土はふかふかとしております。耕さずして、十数年経過いたしますと、足元の様子、あるいは作物の実り具合は一変してなんとも見事になります。かつては耕し、あるいは除草剤、農薬を沢山使っておりました田畑を、耕さず、農薬除草剤を用いず、虫や草を敵にしないで、十数年経過しますと自然に豊じょうの土地になります。

冬草の足元に、夏草のインゲンの種を戻しておきますと、芽を出して、蔓(つる)を伸ばし始めますと支柱を立ててやります。少年期から青年期へと自から育って参ります。夏草の瓜類は蔓を伸ばしていく、その先端先端。そこだけ草を刈って、下に敷く。そういう面倒をみてやります。冬草はまだ元気がありまして、幼い夏草の瓜が、とても太刀打ちができませんので、ひとまず、夏草の生育を押さえる訳ですね、その時に、抜かないで刈って、そこに敷く。遠く離れた所の草ぐさは残しておきます。大切な作業の進め方になります。

ここでもし、一時に作物以外の草を刈ってしまいますと、すいかはあっという間に、うりばいに食べられて、葉は網のごとくになって姿を消して行きます。小動物に食べられてしまう訳です。一枚の田畑の中で、動物と植物は生かしあいの関係になっており、沢山の小動物は草に生かされている訳ですが、作物以外の草を無きものに致しますと、その小動物の食べ物がなくなる。あるいは生活の場がなくなります。故に、仕方なく作物を食べてしまう訳です。で、よくよく考えてみますと、一枚の田圃の中に草ぐさ、小動物は、食べて食べられての営みがそのまま共存共栄の関係でありまして、決して害虫ではない。自然界には害虫益虫の別はないのですね。草や虫を敵にしない、そうした考え方が必要になるかと思います。

この季節に入ると、夏草の地這いキュウリが花を咲かせまして、子どもを盛んに作ってまいります。ちょうど食べごろですが、この頃に、次の種を確保します為に、ひと株にひとつ二つの瓜を残しておいて、種を確保する。自家採種、健康な田畑で健やかに育った作物の種を必ず用意する。それが基本的なひとつのやり方になります。

スイカは夏の草です。冬草の最後が枯れて参りますので、そこに蔓を伸ばしまして、いのちを栄えさせます。完熟したスイカは種を完全に育て上げました。その果肉を私たちはいただく訳ですが、種は又また、採取して次の年の春まで貯蔵しておきます。

水田における四月です。春ですねェ。冬草が姿を伸ばしまして、花を咲かさせ始めます。れんげ草、からすのえんどう、すずめの鉄砲、あるいは冬草の麦、いずれもいっせいに花を咲かせます。そろそろと足元で、夏の草が芽を出し始めます。一枚の田圃で、夏草と冬草が、半年刻みで交代する訳です。同じ草が生き続けてるのではなくて、交代する訳ですよね。生死に巡らされる訳です。で、そろそろと足元に、夏草が芽吹き始めます。お米も夏草ですので、そろそろとまた又、この田畑に戻してやります。親が半年前にいのちの営みをしておりました、そこへ、また又戻してやる訳です。その種降しの作業に入ります。

僕はお米の場合は移植(いしょく)の方をとっております。栽培します田圃のある一角で、苗を育ててから移植をする。田植えをする。そういう方法をとっております。それは作物の性質によって、土地の状況によって、苗を育ててから植えるのと、種を直接蒔くのと、使い分けております。各々のいのちに添う訳です。こちらから直接直まきだとか移植の方だとか、決めないで、各々の作物に添う訳ですよね。各々の性質に応じていく訳です。で、お米はそういう方法をとっております。

春が深くなるにつれ、生命活動を盛んにしておりました冬草を刈って横にのけました。更にその冬草を削り取りまして、平らに致します。田圃の表面に出てきますのは、田圃の土ではなくて、十数年経過してまいりますと、過去の亡骸の層ができます。腐葉土、腐植土この下、数cm下に田圃の土がある訳ですが、その腐葉土の所を平らいたしまして、ここにお米の種を下ろしてやります。

四月末、夏草のお米の種を大地に下ろします。野菜では玉葱の苗、ネギの苗、キャベツの苗、トマト、ナス、ピーマンなども大体同じような方法で苗を育てます。種の上に、その場の腐葉土及び土をかぶせます。種が見えない程度にかぶせます。そして少し鎮圧する。少し押さえる訳です。そしてその上から、この場に生えておりました冬草ですね。刈って横にのけました草をそのままふりまき、かぶせます。湿りを保つ為、あるいは雀に食べられない為にです。そして、周囲はスコップで溝を掘ります。もぐら対策、あるいは野ネズミ対策です。

ところで、周囲では冬草が花を咲かしておりまして、麦もやはり花を咲かしております。冬草の麦が成熟期に入ります。半年の命です。5月後半から6月の初めに一生を終わります。その頃にはもう、足元で夏草のお米がスタートしております。幼苗期。幼年期ですね。幼いお米の苗が、また又半年の営みを始めました。苗代期間は約二ヶ月間です。そして、二ヶ月間は水無しで育てます。畑苗代(はたけなわしろ)、丘苗代(おかなわしろ)とも申します。

六月の中ごろから田植えが始まります。二ヶ月間でお米は少年期までに育った訳です。この頃の冬草は老いて死に運ばれようとしております。この中に幼いお米の苗を植えてゆきます。

苗を植える時、冬草が早くも枯れて死んでいるのもあります。あるいはまだ生きているのもあります。そこにいきなりお米の苗を植えていきます。箱に苗を入れる時3cm位の土をつけてやります。鍬ですくいあげて、箱に入れます。その箱を引きづりながら、植えていく訳ですが、そういたしますと、次植える所が倒れますので、ひとすじ植えますと、次そこに植えていく訳です。目印の紐を引っ張っておりまして、そこに丁寧に一本一本植えていく。そうした方法をとっております。野菜の苗を植えるのも大体、ほぼ同じような植え方をいたします。

自然農に切り変え耕さなくなって、15年目頃でしょうか。土地が豊かになってきますので、植え幅は40×40の一本植え位。それ位の植幅になります。切り替えました当初は、40×25位でスタートしています。当初株間は、狭かった訳ですけれども、土が豊かになって来て、逞しく育つようになって来ましたので、間隔を広くしております。

植え方は、まだ生きております冬草が倒れておりますその下に、過去の死体が重なっている訳ですが、そこに穴を掘ります。腐葉土の所3cm位でしょうか?苗の足元に土がついているだけの深さに掘って、ここにお米の苗を植えます。しっかりと大地に立たしてやります。深すぎない様に、あるいはまだ生きております草の上にのっからないように、丁寧に植えてやります。野菜の苗を植えるのも、ほぼ同じ様な植え方です。

麦の栽培を致しました田圃での田植えは、穂刈りを致しました所に、いきなり田植えをいたします。麦わらは刈らないで。もう死んでおりますので、いきなり田植えです。刈る必要はありません。

田植えが遅れた時は、水田には急速に夏草が茂ってきまして、幼い夏草のお米を植えても負けますから、先に草を刈って、草をその場にふりまいておき、その草をかき分けながらそこに田植えをいたします。そうした方法をとることもあります。生えてる草によって、田植えの仕方も変わる訳です。

ところで自然農を始める最初に畝作りをします。この畝に耕すことなく作物を栽培してゆきます。畝作りは溝づくりでもあります。スコップの幅だけ、3〜40cm掘り、掘った土を両方に上げまして、平らに畝(うね)を作ってゆきます。大体4mくらいの間隔で、溝を掘って、4mくらいの間隔に畝を作ります。ここへ夏は米、冬は麦を、栽培致しております。

田植えの際は、溝に水を入れまして、あまり深く入れずに、田植えを進めて参ります。これで充分な訳です。梅雨時に田植えは終えます。大体6月の半ば頃から6月一杯です。田植えの時季は少し土地によってずれがあるかと思いますが、大体梅雨時。6月一杯になるかと思います。これから少しずつ、更に盛夏へと向かう訳ですけれども、梅雨明けと共に、植えてもらったお米が急速に育ちます。

少年期から青年期へと育って参ります。田植えが終わりますと、水を多い目に入れます。冬草は倒れておりますが、まだ生きております。水は深い目です。冬草と同時に夏草も姿を見せております。その中で、夏草のお米が少し活着いたしまして、どんどん分蘖(ぶんけつ)していく、茎を増やす、そうした営みに入ります。一枚の田圃の中に草くさ、虫達、あるいは水の生き物も含めますと、数えきる事のできないいのちの数があり、夏に向かって、その生命活動を盛んに致します。

沢山のいのちが一枚の田圃で、一体の営みをしており、お米もやはり他の諸々の生命達と一体の営みをしております。一つ生命の営みでもあります。

現行の農業は耕すので、田植えの直後にはほとんど他のいのちはなく、そして、お米といういのちだけが、植えられて立っている訳ですが、さらに除草剤、または農薬で死の世界と化さしめ、不毛の地で何とかお米を育てる…そうした今日の米の育て方です。ところが自然農は、いのちの道に沿って、あるいはいのちに応じた米の育て方でありますので、田圃の世界は生物達が無数にいのちの営みをしております。

やがて冬草が死に運ばれゆきます中で、これから夏草の米が逞しく育ってまいります。世代の交代なんですよね。植えた頃にありました冬草が生き続けてるのでは無くて、必ず死んで参ります。その直前の姿ですよね。ほぼ老年期に入った冬草は死に運ばれて参ります。

冬草は死に運ばれて、一生の全うです。勿論沢山の子孫を種で用意致しまして、交代致します。夏には生きられない草くさは、種で次のいのちを用意致しまして、あるいは種に姿を変えまして、ひとまず眠りに入ります。夏草は急速に成長し、半年のいのちを全ういたします。ところで、苗代期間が二ヶ月間ですので、後半の四ヶ月です。残り四ヶ月間の生命でもあります。

苗代でニヶ月、田植えから収穫まで約四ヶ月。6月の後半に植え終わった少年期のお米が青年期までは一ヶ月です。茎を増やす、分蘖する。大きく体を作ります。この間、水の面倒だけいたします。水を入れてあげる。畑状の時もあれば、沼状の時もあり、それをくり返す訳です。こうして自ずから、冬草と夏草の米が交代いたします。

この頃の田圃の表面あるいは、栽培しております地球の表面、あるいは育っておりますお米の足元は、一世代前の冬草の死体が伏せて倒れております。地面に敷きつめられております。自ずから横たわった訳です。それを10〜20cmくらい掘りますと、一番上が一番新しい死体、その下に規則正しく過去の死体が重なっております。重なっております死体はもう、朽ちまして、腐葉土と化しております。で、いずれも小さな生き物達の営みによってもたらされました姿です。亡骸(なきがら)の世界ですが、亡骸を食べて生活をする小動物達が、夏は夏、冬は冬の季節に応じた営みを盛んにしておりまして、その結果自然の森や山の如くに亡骸の層が出来ます。

この亡骸の層に夏草のお米、あるいは草くさは、細い根を一面に張り巡らせて生きており、半年のいのちを全う致します。お米が生きていくに必要な食べ物は、あるいはお米が一生を全うするに必要なものはここで、すべてが用意されます。農夫であります私が、何も持って来てやらなくても、完結されます。自ずから用意されます。一切、他から持って来なくてもいい訳ですよね。窒素、リン酸、カリ、それらを必要と気づいて化学合成した肥料を人は作るようになった訳です。あるいは有機肥料あるいは、微生物、あるいはEM微生物、あるいは酵素の働き、ミネラルの働き…いろんな必要な働きに気づいて、いろんな農法を見い出され、それらを人々が用意して投入しておりますけれども、そういう事は一切しないでも、耕さないで、いのちが営みに任しておきますと、自ずから用意される。あるいは自ずから用意され続けます。

そしてその用意のされ方は、最善の用意のされ方、狂いのないされ方です。しまも自然にもたらされます。パーフェクトです。自然は完全なんですね。そうした生命活動を舞台にして、お米はお米のいのちを全うさせて参りまして、あるいはお米と一体の営みをしております草ぐさ、小動物達が、ここを舞台にして半年のいのちを栄えさせます。

耕さないで十数年経過しますと、田圃の土の上に、死体の層が自ずからできます。自然の森や山と、相似た姿になる訳です。ここにお米は細い毛根を張り巡らせまして、必要な物を吸い上げます。耕している田圃では現出しない、あり得ない姿です。お米は逞しく育って参りまして、そこで育ったお米は、本来のいのちを完結している。あるいは、素晴らしい生命力を宿したお米といういのちなんだと思います。

過去の死体を舞台にして、次のいのちが一生を全うして、又また新たに次のいのち達の舞台を用意する。それは自ずから、そうなる訳です。そうなる自然界なので、そうなる訳です。そうなる自然界に添えば、見事にお米は育ってくれます。何も用意しなくても育ってくれる訳です。素晴らしい営みをしております自然界、生命界、あるいはそこに生かされる私たち。あるいはすべてのいのち達、そんな風に言えるかと思います。

「耕さない」それが要になるかと思うんです。

耕さなければ、耕す必要がなくなる。耕さなければ肥料の必要がなくなる。健康に育ちますので、農薬の必要がなくなる。そして、沢山のいのちと一体の営みをして、お米も健康に育つ事ができますので、草や虫は敵ではないんだ。敵になるのは栽培の仕方を間違えたからなんだ。耕したから肥料、農薬を使ったから、いのちが弱くなって、そうした問題を招いてしまっている。まぁ、そんな風に言えると思うんです。

ところで、田植えをいたしましたあと、水の管理だけで、何もしなくてもお米が青年期から成熟期まで見事に育ち終えることがありますが、植えてもらったお米が、平行して育ちます他の多くの夏草に負けることがあります。まだ生きておりました冬草が死に運ばれまして、すぐすごい勢いで夏草が群がって、占領してゆきます。こうした場合、このまま放っておきますと、お米は死に運ばれます。その部分は収量ゼロになってしまいます。ここで改めて、お米を栽培しているんだという認識がいるかと思うんです。

その作業としてやはり、除草が必要となります、草に負けないように、幼い頃に必要が起これば、草の生育を一旦押さえます。草を敵にしないで、草の生育を一旦押さえる作業です。手を貸してやることは、種まきの作業、水の面倒、苗を植える、そして草に負けない様に草を刈る。そうした作業が必要になります。適期に、適格に行なってやりますと、お米は逞しく育って参りまして、やがては草に負けないで、お米の足元に草がありましても草に負けないで、逞しく育ってくれます。

草の生育を一旦、押さえる作業は、いずれもお米におきましては、7月一杯の作業です。田植えをいたしましてから分蘖(ぶんけつ)いたしまして、大きくなるのに約1ヶ月〜40日な訳ですよね。その期間に必要に応じて草の生育を押さます。草を邪魔にするんじゃなくて、一旦生育を押さえる訳です。

作業の進め方は、とりあえず、一列おきに刈ってそこに敷きます。刈って敷く。刈って敷く。刈りました草くさの死体は捨てない。そこに寝かしておきますと、又また他のいのちを生かすことになる。ところで小動物も一体の営みをしておりますので、小動物の食べ物であります草ぐさを、一時に無きものにしない。野菜の場合も同じで、いきなり草を無きものに致しますと、あっという間に、小動物に野菜が食べられて、大変なダメージを受けます。あるいは足元が乾燥するとか…、そういう事が起こりますので、草との関係をうまく保ちながら、作業を進めます。草に負けない程度に草の生育を押さえる、その程度は経験から養ってゆきます。

ところで、耕さなくなりまして、十数年経過致しますと、生えております作物の足元は、草の死体の層です。土の上に生えているんじゃなくて、枯れ草の上に、あるいは死体の上に生えております。刈ろうと思いましても、すっと根っこが抜けまして、抜けた草をひっくり返しておく。ですから耕さないでの栽培を始めまして、年々田んぼの様子が変化いたしまして、作業の様子が変わってゆく。生えてる草も変わってゆく。決まってないですね。…作業の仕方も決まってない。

必要に応じて水の面倒、草に負けないように手を貸してもらう中で、お米はお米のいのちを生きて参ります。自らのいのちを全うして参ります。お米も完全な生命体です。

体を大きくし株を増やして約3ヶ月で早くも青年期に達しました。田植後、7月一杯から8月の初め、で暦の上ではそろそろと、秋が立ちます季節です。実際にはこれから熱帯夜が続いて、蒸し暑い日が更に続き、すべてのいのちは、一年で最も生命活動を盛んに致します。私たちのいのちも、夏の営みです。私たちも自然そのもの、いのちそのもの、季節と共に在ります一体の営みをしており、活動を盛んにして、躍動致します。草くさも、小動物も夏です。活動を盛んに致します。いのちを輝かせます。

ところで、木々草々、あるいは田んぼに在りますお米は、これだけの体を作って、そろそろと子ども作りの準備に入る訳ですが、これだけの体を作る、あるいは子ども作りの準備ができるまでに育って参りましたが、足元から吸い上げておりますものだけで大きくなったのではありません。耕してない田んぼは、過去の死体を舞台にしての、無数の生命達がいのちの営みをしている所に根を挿して、ここまで育った訳です。でも細い根を通してそこから吸い上げ、これだけの体を作ったのではなくて、もっともっと多くの物を、空気中から集めているんだという事に気づかされます。空気中から自(みずか)ら集めているんですよね。

自(おの)ずからのいのちでもって、必要なものを、自ら集めまして、我が体を作る。枝葉を作る。そして子ども作りの準備をする。あるいは空から、あるいは山から流れて参ります水の恵みを享(う)けまして、それを吸い上げまして、各々の体を作っている。各々の体の大半は水で構成されております。その水の恵みを享けてこれだけの体を作る。あるいは太陽の恵みを、太陽のエネルギーを、太陽のいのちを一杯に集めまして、ひまわりはひまわりの、お米はお米の、人は人、虫は虫、各々の体を作ってる。そんな風に言えると思うんです。

私たちはついつい、栽培にとらわれますと、育てるのに肥料が要る、用意した肥料で育てるのだと思いがちですが、そうではないんですね。多くのものを用意してあげなくても、自ずから集める。いのちはそういう営みをしているんだと、気づかされます。いろんな問題を招きます都会、自然の理(ことわり)から大きくはずれます建設現場にも、太陽の恵みは、空気の恵みは、やはりもれなく届けられます。お米も夏のいのち。一枚の田んぼにおけるすべてのいのち達も、太陽の恵み、空気の恵み、水の恵みを受けて一体となって、生命活動を盛んに致します。こうして青年期に入りますともう、体作りはいたしません。これからは子ども作りの準備です。

8月の初旬で3ヶ月です。それから約1ヶ月間で、子ども作りの準備を茎の中で終えます。幼穂を形成いたしまして、穂を孕んで参ります。出穂期に入ります。そろそろと秋です。秋の気配が少し見え始める8月末から9月に入って参ります。一本の苗が10本20本30本40本と、気候に応じて、足元の様子に応じて、あるいは面倒の見方に応じて、自ずからいのちを増やして参ります。

8月末〜9月初旬、子ども作りの準備を終えまして、出穂期です。穂を出します。そして開花です。花を咲かせます。いのちの営みをし続けている私たちと同じように、いのちそのもの、そしてお米は米としての営みを、間違うことなく展開して参ります。そして開花・交配です。交わりです。次のいのちを宿す営みです。しばらくの間続きます。お米の交わりはオープンの交わりを致します。晴天の日には10時くらいから、約3〜40分でしょうか。6本の雄しべが用意されておりまして、雄しべの命が中にあります雌しべに注がれまして、新たな次への生命を宿します。宿しますと、残されている期間は2ヶ月です。2ヶ月の間に宿した命を完全に育てる営みに入ります。

すべてのいのちは共通しており、次のいのちを用意するこの季節、やはり一生の中でも、最も華やかな姿を見せます。田圃にありますお米以外の多くのいのちも、相似た営みをいたします。沢山のいのちがこの田んぼの中にはありまして、沢山の小動物が、足元では草ぐさが、お米と一体の営みをすると同時に、個々別々の営みをしておりまして、交配の営み、次への子孫を残す営みを盛んにいたします。

自然界、生命界は、共存共栄、お互いに個々別々のいのちが一体の営みをして、個々別々が生かし合いの関係です。100%間違いなく、生かし合いです。同時に100%殺し合いの関係、そうした自然界生命界です。50%生かし合い、50%殺し合いの関係じゃなくって、100%殺し合い、100%生かし合いな訳ですよね。矛盾する事なく、そういう営みをしております。食べて食べられて、殺し殺されて…の営みが営まれておりまして、それでいて調和を崩す事なく、すべてのいのちが親から子へと巡り続けます。

あるいのちが殺し合いの関係の中で絶えるという事はなく、あるいは、あるいのちだけが栄えるという事もなく、常に調和を保っております。常に沢山のいのちが食べて食べられて、殺し殺される中で、生かし合いの関係を生みながら、大調和のもとで、各々のいのちが存在している。そんな風に言えると思います。

お米に生かされる小動物はお米の葉っぱを食べて、あるいはお米の実を食べて、生き続ける事によって、お米を生かす。共存共栄の関係になる訳です。お米を食べる虫を、害虫だという風にとらえちゃダメな訳ですよね。自然界、生命界においては、害虫、益虫の別がない。有効無効の別がない。そんな風に言えるかと思います。お米を食べる虫を害虫だという風にとらえまして、その命を亡きものに致しますと、バランスを壊しまして、すべてのいのちに困った問題を招きます。もちろん農薬を散布いたしますと、大きく自然界に問題を招いてしまう。それと同時に、終わりのない戦いが始まる事になる。それが今日(こんにち)の栽培の仕方になっています。少し視野が狭いのですよね。視野が狭くなって、害虫にしてしまって不幸に陥ったのですね。

栽培の仕方を間違えたら、害虫になります。バランスが壊れまして、ある虫だけが異常に多くなるとか、困った問題を招いてしまう訳です。本来害虫益虫の別がない。それが自然界、生命界であります。同様に耕さない、他から一切持ち込まない、自然農の田畑では、害虫益虫の別なく、食べて食べられて、殺し殺されて、そして共存共栄の関係。それを見せ続けてくれます。その中で、お米が見事に育ってくれます。

冬は生きれないお米のいのちです。ひと粒ひと粒が完全な生命体です。更に生育、成長、そして成熟してまいります。

秋深くなり、草のお米が色付き始めました。野山においても、木々、草くさの次のいのち達が色付き始めます。冬は生きられないいのち達は、春から始まって、夏に栄えて、秋に次のいのちを用意して、冬、ひとまず眠りに入ります。冬に一生を終えて、死に運ばれて参ります。紅葉の秋、実りの秋です。

時至りますと、いのちの営みの中で、死に運ばれます。自ずからの営みの中です。死は不幸な事でもあり、あるいは喜びでもある訳ですが、私たちの思いを超えた自ずから然らしむる生命の世界における出来事です。

死に運ばれれば、死体と化し、動かなくなります。子孫は卵で用意されております。この死体はあっという間になくなります。動物の死体はあっという間になくなるんですよね。草ぐさの死体は長くあります。この死体がどこに行くかと言いますと、どこへも行かない。この田んぼの中にある、他のいのちに回っていきます。他のいのちの糧になる訳です。他のいのちを生かす、他のいのちに回っていく…。

もちろん、夏草も死に運ばれて、又また他の糧になる。他のいのちを養っていく。他のいのちの肥料になる…。そうなってる訳です。一枚の田んぼの中に沢山のいのちが、無数のいのちの営みをしており、お米も含めて、あるいはこの田んぼのお米に生かされている私たちですので、私たちも含めて、すべてのいのちたちが、生きるに必要な糧は、食べ物は、肥料分は、養分は、自ずからここに用意されているのですね。小動物を生かすのに、餌を一切、他から持って来てない。餌を与えてない訳ですよね。あるいは草ぐさや、米を育てるのに、他から一切肥料は持って来てない。何も持って来ない。なのに、沢山のいのちが育ち実り、生き続ける事ができる。生死に巡り続けることができる。

そういう世界を現出してくれております生命界です。生きていくのに必要なものは、生死の巡りの中で、自ずから用意されている。私たちもやはり、その営みの中にあって、お米に生かされる私たちです。

時、至りまして、私たちも死に運ばれます。死体と化します。とたんに、他のいのちに食べられて、他のいのちに回って参ります。生、死、生、死、有、無、有、無に巡るすべての生命達です。四季の巡りと同時に、一日の巡りがあります。地球生命体の巡りから、現出いたします自然現象ですが、夜から朝、夜から朝と、終わることなく巡りつづけます。

新鮮な朝です。朝日が輝き、朝露浴びて、朝日に輝くお米の姿は格別です。黄金色(こがねいろ)に輝きますお米のいのちに生かされる私たち。私たちは一生の間に、沢山のお米のいのちを、私たちのいのちに変える、あるいは死なせる、あるいは、私たちの糧にする。そうした営みをする生物です。

六ヶ月後の冬の初めにはひと粒のお米が増えます。ひと粒のお米が沢山の茎を増し、沢山の粒を増やし、千、二千、三千、四千…と、増します。すごいなと思います。耕さなくてもですよ。何もしなくても、肥料を、農薬を用意しなくても、増やすんですよね。足元の世界を壊さなければ、耕さなければ。あるいは、必要に応じて的確に手を貸してあげれたならば、一切何も用意しなくても増やしてくれる。私達が存在しているこの自然界は、自ずから増やす営みをするんですね。すごいことですね。

その増やす営みに生かされる私たち、すべてのいのち達です。で、増やしてくれたものだけ、私たちの糧にいたしまして、又またひと粒のいのちを種に残しておきまして、ここに次の春この生命達の舞台になる大地に巡らしてやる、それをくり返していく事によって、食糧が約束されている。平和な農耕生活が約束されているんですね。

生きていくのに、必要な食べ物を栽培する様になりました私たちは、その栽培の過程で、いのちの元を壊しますと同時に、自ずからのいのちを、あるいは、他のいのちを存亡の危機に追いやるような事をやってしまっている訳でありますが、栽培の仕方を間違えなければ、そういう問題は一切招かないですね。栽培行為そのものが、どうしても、生命界を損ねる、地球を破壊する破壊行為だ…という風に考えられがちなんだけれども、そうではないんですよ。栽培の仕方を間違えなければ、採集生活に戻らずとも、環境には一切問題は招かない、いのちの世界を損ねる事なく生きてゆけるんですね、永続は可能なんです。

いのちの巡りの中で、次のいのちが約束されている訳ですけども、その巡りがもう、お米の刈り取り前の足元では始まっております。お米の幼い苗を植えました頃に、死に運ばれて行きました、冬草が、又またその続きを生き始めております。緑色を濃くした冬草が親の続きを生き始めております。同じ時、夏草のお米は死に運ばれようとしております。紅葉しております。お米の足元で他の夏草も死に運ばれようとしております。その足元の姿は、耕さなければ、土はふかふかとしております。ふかふかと言うのは、いのちの営みの中で、自ずからもたらされました、土の姿な訳です。耕した土の姿とは全然、異(こと)にいたしまして、他のいのちを育む、あるいは沢山のいのちの舞台であり続ける豊かな姿であります。各々の生命が生死に巡る事によって各々のいのちに適した環境になっている、あるいは土の状態になっている。あるいは、その上に過去のいのちの死体が重なっておりまして、それによって、沢山のいのちが生かされ続けている。そんな風に言えると思います。

豊穣の地であり続けてくれている、そこを舞台として、お米は一生を終わろうとしております。十月末〜十一月中旬です。夏草のお米は、紅葉して、稲刈りが始まります。足元で夏の草々も紅葉しており、やがて死に運ばれます。その足元で、冬草が芽吹いております。その下に沢山のいのちを育み続けています過去の死体の層があります。亡骸(なきがら)の層で、その亡骸の層では、冬に入ります前ですので、少し、密やかな営みですね。死体を食べて生きる小動物達の営みも少し緩やかになります。

冬の季節は静かですが、営みがあり続けております。その下に過去の人が入れました耕作土。耕して作る土、耕作土ですね。過去の人が田んぼを作った訳ですけれども、その層があります。僕の所では、大体30cmくらいです。その下は、少し水が漏れないように作られた粘土層があって、その下は砂利であったり、色々とその土地によって違いがあります。耕作土の上に過去の死体が重なって、その上にいのちの営みがあり続けている。沢山のいのちを生かし続けてくれる、豊かな足元になっております。

生命達の舞台は、作られた田畑のように土を舞台に営まれるばかりではなく、岩を舞台にして、死体が重なって、生物の営みが、小動物の営みがあります。岩のすき間に根を挿して、木々、草ぐさが生き死にし、鳥、獣たちが、一体の営みをしております。豊かな森で、あるいは山で、あるいは林で、足元をよくよく見ますと、岩な訳ですよね。自然界におけるこうした姿から色んな事に気づかされます。大きな機械化によって、化学物質によって荒廃し汚染された、田んぼを甦らせるのに、あるいは自然農に切り替えるのに、いきなり無理だろう、それなりの対策を立ててないと無理だろうと、考えがちなんだけれども、あるいはですよ、熱心な農夫は研究を重ねる訳でが、その結果としてお米を作るのには土を作らなくちゃならんとか、土を豊かにしなきゃならん、お米を豊かに実らさせるのには、土を豊かにしないと…そんな風に気づく訳です。でも、それはまだ、視野が狭い。そんな風に言えるかと思うんです。

土は作らなくていい、あるいは汚染された土は浄化しなくてもいい。あるいは荒廃した土地は甦らさなくてもいい。岩を甦らせなくてもいい。岩を豊かにしなくてもいい。そんな事はできないんですね。岩は岩でいい。土は土でいいんだ、岩に手を出したらダメ。土に手を出したらダメ。そんな風に、気づかされます。岩は岩でいい。土は土でいい。自然に任せておけばよい。生命に任せておけば最短に、最善に、パーフェクトにやってくれる。そこを舞台にして、いのちはいのちの営みを重ねていきますと、たとえ私たちによって壊してしまった大地といえども、必ず甦っていくんですね。浄化されると同時に、蘇っていく。いのちはいのちの自ずから生命活動を盛んにして、結果として、足元が蘇る。浄化される。

間違うことなき自然界・生命界です。すごいことですね。すごい生命の世界ですね。

死の直前に稲刈りを致します。死んでしまいますと、稲刈りはしにくいので。結ばれた穀類は野菜と違って大丈夫な訳ですけれども、集められませんので、死の直前に稲刈りを致します。収穫の作業です。小さな鎌で。やはり、大きな機械は使わずに、それがもっとも能率のいい、最も労働時間の少ない作業の進め方です。大きな機械は使えば使う程労働時間が長くなるんですよね。広い視野で見ますと、大きな機械を使えば使う程労働時間が長くなる。せいぜい手作業でできる、鎌ぐらいで最も労働時間が少なくて済む。もちろん資源を消費せず、環境にも問題を招かずです。

もう季節は冬です。小さな鎌を持っての稲刈りの作業。そして束ねます。そして自然乾燥。自然に乾燥さしてやる。自然に眠らせてやる。作られた新しいいのちはひとまず眠ります。眠っている米のいのちを、私たちの冬の糧にいたします。私たちのいのちを養ってくれる。

十一月に入りました。夏草が地面に伏せております。9月の20日頃、大和では大根、カブや冬野菜の種を蒔きます。その頃は夏草が花を咲かして、元気がありますので、刈ってそこに寝かせます。種を蒔く場所は薄く草を寝かし、大根の種を地面の中に押し込める訳です。埋める訳です。あるいはパラパラと蒔いておく訳です。あとは、大根に任しておきますと、芽を出し育って参ります。生育の途上では間引きながら、間引き菜を食べます。

七月初旬に収穫した掘り残しのジャガ芋があちこちで姿を見せます。野菜の場合も、畝(うね)を作っておりまして、排水を良くしてやります。掘り残しのジャガ芋が大根畑で、又また二度目の子どもを作ります。約4ヶ月で。春と秋と二度、ジャガ芋は育ちます。夏と冬はダメです。十一月から十二月大根が太り始めてまして、そろそろと食べる事ができます。この頃夏草が年老いている所に、冬草のキャベツの苗を植えます。苗床でキャベツの苗を育てまして、草をかき分けながら、キャベツの苗を植えます。耕さないで、草を刈らないで、やがて死んで参ります夏草をかき分けて、キャベツの苗を植えます。玉葱の苗なんかも同じ様な植え方ですよね。この季節には。

できるだけ余計な事をしない。それはどこまでが余計な事で、どこからがしなきゃならん事か、の判別は難しくて、あるいは決まってなくて、気候によって、場所によって、作物によって、栽培生活を、栽培の経験を重ねる中で自ずから身についてくる、気づく事ができる、ま、そんな風に言えるかと思います。方法、技術はいのちに沿っていく中で自然に、自ずから身について来るものです。あるいは自然の理からはずれた事はしないで、いのちに沿っていけば、必要な技術は自ずから身に付いてくる、結果として、付いてくる。そう言えるかと思います。

冬から春へと巡るなかで夏草が死に運ばれまして、植えましたキャベツが体づくりを盛んにしてまいり、やがて気温が上がりますと、周囲の草が大きくなり、キャベツにおおいかぶさります。そういたしますと、キャベツの成長が衰えまして、時にはダメになることもありますので、草に負けないように、草の生育を押さえる、その作業を必要に応じてやります。その時に刈り過ぎますと、あっという間に青虫が発生するとか、成長が止まりますので、草との関係をうまく保つ。そういう心づもりがいるかと思います。この田んぼの中で、キャベツだけだとダメな訳ですよね。沢山の草ぐさ、小動物達と共に生きれます自然界・生命界です。

最も寒い冬に入ります。夏しか生きていられないいのち達は死に運ばれると共に、冬の眠りに入るいのち達も沢山おります。お米は一ヶ月間の自然乾燥の中で、乾燥は終わりました。季節は12月に入ります。脱穀をいたします。稲藁からもみを剥がす脱穀の作業ですね。その作業が終わりまして、すぐ稲藁を、育っておりました田んぼに返してやる。田んぼから持ち出さない。そして、外からの肥料は持ち込まない。持ち出さない、持ち込まない。それもひとつの大切な在り方になります。切らずにそのまま振りまいておきます。このお米の稲藁、死体ですけれども、あるいは亡骸ですが、次のいのちの舞台になる。次のいのちの糧になる。次のいのちの肥料になる。そのように、つながってくれます。次のいのちは種で用意されて、眠っている訳ですが、その次のいのち達の舞台になる訳ですよね。ただもう、不規則に振りまいておきます。

4mごとに、スタートの時に、溝を掘って畝を作り、お米と麦が栽培できる様に、あるいは野菜の場合は、もう少しこんもりとしたかまぼこ型に、2mとか2.5mとか、色々な幅の畝を作ります。土地の湿り具合に応じて、乾燥具合に応じて、高い低いを決めていく訳ですけが、畝作りは、スタートの作業です。

寒い冬です。冷たい雪も降ります。その下に、冬のいのち達の営みが密やかにあります。やがて春の雪です。冬草の麦が姿を伸ばし始めます。まだ冷たい雪が時折降って参ります。大和盆地は数年に一度位、10cm〜20cm位の積雪を見ることもあります。

やがて春の訪れです。冬草の麦の足元は、過去の死体。腐葉土です。そこに根を挿しまして、更に気温があったまりますと、急速に茎を伸ばして、花を咲かせる。その頃に又、夏草のお米の種をここに下ろしてやる。眠りから覚ましてやる訳です。半年刻みでいのちが巡る、半年刻みで種を下ろす、半年刻みで収穫する。その事によって、私たちのいのちが約束されている…そうした農耕生活、あるいは農作業です。

一年の巡りを通しまして、お米の姿を中心にして、少し野菜の姿を紹介しました。ここ数年の新しい流れがあります。わたし達は、今日まで生きて来た流れがありますと同時に、ここ十年二十年、三十年、人々の意識の変革が起こり、目覚めが起こりましての流れがあります。今日、「いのちの祭り」に来られました皆様にも、いのちの世界に触れられて、目覚められて、いのちの大切さに気づかされてのひとつの意識の流れがあるかと思います。そうしたひとり一人の意識の流れ、と同時に社会全体の沢山の人々のいのちからの意識の流れが同時にあって、それが全体の流れに力をつけまして、自然農に関心を持つ人、自然生活に、あるいは農的生活に関心を持つ人が、あるいは色んな分野で、生活を問い直す、生き方、在り方をとい直す。そうした意識の流れが顕著になっております。確かな流れとして流れている訳です。この祭りも、その流れの中でのひとつであると、思わされます。

自然農の世界でも、最近そうした流れが顕著になって参りまして、関心を持つ人、ただ関心を持つだけではなくて、自足自給の態勢をとりたい、国の政治には任せる事ができない。あるいは、農夫に任せる事ができない。私の食べるものは私が…、そういう目覚めから実践する人、あるいは時間の合間を割いて学んでおきたい。技術を身につけておきたい。そういう人たちが増えて来ました。そういう動きが十年、十五年、二十年前位から始まりそれに応えるべく、僕の足元でも、学びの場を始めました。

多くは農地のない、農業経験のない、都市住民な訳ですので実践へと歩み出せない人たちが沢山おられまして、その願いに応じるべく、自然農の学びの場が誕生いたしました。その始まりは、十年前に、「赤目・室生 国定公園」の近くに誕生いたしました。「赤目自然農塾」です。その後日本のあちこちで、学びの場が誕生しております。

学びの場の多くは、十年二十年三十年と、放置されました、かつての棚田です。大きな機械が入らない。若者が都会に都会に流れまして、荒地と化しています。こうした所では行政サイドでも大きな問題になっております。そこに都会の人たちがその場を借りて、楽しく学びができる。ま、うまく成っているんですね。

放置された棚田をかつての田畑を戻す場合の、スタートの作業は少し知恵がいります。大切な事なんですが人が手を出さなければ、これだけの木々、くさ草を育てるだけの、豊かな地に蘇っています。この蘇った土地を壊さない様にして、そうして山の荒々しい草と、やさしい野菜に、あるいは逞しい穀物の場所に変える訳です。その方法は、耕さない。根っこは掘らない。それが要になります。地上の部分だけ刈り取って、そこに敷く。あるいは、切って寝かしておく、根っこを抜く必要はない。掘り起こすとダメです。刈って敷く、刈って敷く。切ってそこに倒しておく。耕す事になればダメです。

この作業も機械に、あるいは石油に依存したら大きなマイナスになります。小さな鎌で、手作業で、一本一本やっておりますと、必ず田んぼが姿を現わします。最もいいやり方ですよね。石油を使ったらいけないから、大きな機械を使ったらいけないから、がまんして、手作業じゃないんですよね。それが一番いいから。そういう方法をとる訳であります。どうしても水路の確保出来ないところは陸稲の育て方を通して学びを、あるいは陸稲や雑穀類での食生活という事にもなります。

水に恵まれている所は川から水を引き上げ、水路を確保いたします。畦道も補修いたします。畝もつくります。笹が一面茂っていた所は笹の根が、びっしり張り巡らされておりますが、笹の落ち葉が一面敷き詰められておりまして、やはり、植える所は柔らかいんです。そこに水を入れます。田植えです。二ヶ月前に、種を蒔きました。苗が育ちました。で、田植えをいたします。

ところで、お米は水をもらいますと元気よく育ちます。笹は水の中では生きられないいのちですので、あっという間に死に運ばれて参ります。根っこは抜かなくてもいい訳ですよね。根っこは抜いたらいけないと同時に、抜かなくてもいい訳です。で、ここで、お米が又また育つ様になってくれます。

あるいは、すすきが、くずが、せいたかあわだち草が、大きく栄えておりました荒々しいところでも根は掘り起こさずに地上部のみ刈って、その亡骸をその場に寝かしまして、畝をつくり、畦道の補修を致しまして、田植えをいたします。やがて季節の巡りと共に、夏草のお米は、あるいは水草のお米は、我がいのちを全うして参ります。

何もしなくてもそうなるいのちだから、そうなるのですね。妨げなければそうなるんですよね。今日の現行農業は余りにも妨げる事が多くて、自らを苦しめているんです。よけいなことをしないで任せておきますと、やはり逞しく育って参ります。

やがて、出穂、開花。そして色付き始めます。黒米が赤米が、香り米が、色とりどりのお米が色付き始めます。まったくお米を作った経験のない方ばかりです。月に一回ないし二回、広い面積をされている方は週に一回位足を運ばれて、見事な実りを迎えられます。何も知らなくても、ポイント、ポイントにちょっと手を貸す方法がわかれば、お米は自然に実ってくれます。

意識の変革を起こされた人たちが増えております。二十世紀から二十一世紀へ変化しつつある大きな流れがあります。今日まで生きて来た中での間違いに気が付いた人たちが増えて来ているのと同時に、実際に自然農をやらなくても、色んな分野でその間違いに気づいた人が増えて参りまして、色んな動きがあります。二十世紀から二十一世紀へと、大きく時も流れている訳ですが、農の世界でもやはり、その流れとひとつになっての意識の変化がありまして、やはり物質文明から、いのちを大事にした新しい文化、文明の誕生を感じさせられる出来事ではないかと思わされます。

全然知らなかった人たちが、ちょっと方法をわかれば、米を育てられ、そして楽しくやられるんですね。気持ちが定まれば、誰でも楽しくやれる自然農であります。

都会で不安な、明日なき日々の生活を重ねておられる人たちが、野に出られて、田畑に立たれて生き生きとよみがえられていかれます。必要に応じて、必要な事をしていく中で、知恵をあるいは技術を身につけられていかれます。

自然農は専業農家では無理じゃないか?と言われますが、そうじゃないのです。いつまでも続けられます、栽培の仕方であると同時に、専業農家としても、最もやり易い栽培の仕方だと、そんな風に言えると思います。

毎年、一年に一度だけの、全国各地での実践者が集まって、勉強をもしております。いのちの大切さへの意識の変革は、日本にとどまらず、世界のあちこちで時を同じうしてあり、やはり嬉しい流れであります。私達の生き方、栽培の仕方を間違えまして、大きな環境問題を招いております今日ですが、それでいてなおかつ、地球生命圏は、素晴らしい生命活動をしておりまして、沢山のいのちを育んでくれております。そのことによって、沢山のいのちが生かされております。豊かな実りをもたらしてくれます、この地球生命体です。

地球はもとより、宇宙の楽園です。この楽園を壊さないような栽培の仕方、生活の仕方を得る事ができましたならば、平和に楽園に生かされ、生き続ける事のできるわたし達、すべてのいのち達です。

生死に運ばれます個々のいのちでありますが、各々が、我がいのちを輝かせ、美しく見事に全うしてゆく素晴らしい生命体、あるいは、各々のいのちが全うする事ができる、素晴らしい生命界、自然界です。

今日の集いが、そしてこの文章が多くの皆様の役に立てれば嬉しく思います。

................................the end...................................

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