フォーラム報告

8/4「満蒙開拓団と長野県;
いまだ語り明かされていない日本現近代史」

池田浩士さん


 いのちの祭りのレインボウラウンジ、ひとつ目のプログラムで、池田浩士先生による、「満蒙開拓と長野県」。「今だ語り明かされていない、日本の近現代史」ということで、お話していただきます。じゃ、寿満子さんの方から、先生のご紹介と御挨拶よろしくお願いします。(小林一朗)

はい、おはようございます。
このお祭りで私は、是非20世紀の日本の歴史を振り返ってみたいと思いまして、この初日、第一日目を池田浩士さんの「満蒙開拓」というテーマにいたしました。と言うのは、この長野県から多く、満蒙開拓に渡っている人たちがあったと聞きますので、それがどういう事なのか、という事と、ここ、このお祭りの会場が、長野県であるということで、そこでつながりを見たいと思いました。それで、池田浩士さんは実は京大の先生なんですけれども、専門はドイツ文学でして、日本史ではありませんが、以前飯田の方で、百姓一揆についてお話をお願いした事がありました。その交流会の時に、実は飯田の方にちょくちょく来られているという事で、それが「満蒙開拓」の聞き取り調査に来ておられるという事だったので、私は是非、池田さんからその「満蒙開拓」の話を伺いたいと、かねてから強く強く思っていたので、今日それが実現する事になって非常に嬉しく思っています。で、じゃ池田さんに是非始めていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。(田村寿満子)

(池田浩士さん)
はい、おはようございます。久しぶりにお目にかかった方、初めてお目にかかる方、どちらもおられるんですけれども。今すま子さんから、お話にありましたように、もうこの何年か、満蒙開拓団についての話を、しかも長野県で、一度必ずする事という課題をいただいておりまして、今回そういういきさつがあった為に、ここに参加させていただきました。

寿満子さんからの話もありました様に、友人達と一緒にこの90年代の始め前半から、ずっと、伊那の下伊那の飯田及びその周辺の、元農民であった方々から聞き取り調査を続けて来たメンバーのひとりでした。それでこの聞き取り調査というのを、どうして行ったかと言いますと、1931年の9月に、いわゆる満州事変が日本によって引き起こされた訳ですが、その後日本はその、満州事変という侵略の、いわゆる15年戦争の最初と言われている満州事変で満州と言われている地域、即ち現在の中国の東北三省の地域ですけれども、ここを瞬く間に軍事的に制圧して32年3月1日に、傀儡(かいらい)国家、即ち日本のひも付きの国家、満州国という偽(にせ)満州国と、中国の方は言われますが、それをでっち上げました。それと、相前後して、広大な満州、中国東北部に、日本の農民を、長期計画では500万人、これは全満州の人口の一割にあたるんですが、机上の計算では。最終的には500万人、日本の農民を送り込むという計画を、政府と軍と、それから学者、研究者、これが三位一体となって、作り上げて、たちまち、その年すなわち、1932年の3月1日に満州国がでっち上げられたんですが、その年の10月3日には、日本を出発した500人の第一次の移民が、満州に送られました。それから敗戦の年の1945年まで、14次に渡って、あしかけ14年間に渡って、農民が中国東北部に送り込まれました。合計の送り出し人員は32万人を越えるという膨大な数にのぼりました。それでも、まだまだ、全体の計画で言うと6%に過ぎなかった訳ですけどね。

で、この人たちが日本の敗戦と共にどういう運命を辿ったかという事については、満蒙開拓団すなわち、満州農業移民というものと、直接結びつかない形ででも…例えば、残留孤児、残留婦人という形、未だにまだ肉親を探して、日本に里帰りして来る、元日本人達。中国人に育てられて、現在ではもはや、60あるいは60を越える歳になっている人々、しばしば日本に送られてくるという事になって、知られてくる訳ですが。あの人々のほとんどは満蒙開拓団の親たちと離ればなれになって、中国に残った人たちなんです。従って、まだその国策として行われた、満蒙開拓団というその過去の歴史は、具体的な人間ひとり一人のいのちとして、まだつながっている訳ですね。そして当然、ひとりひとりの人々がやがて、歳をとって、これは人間ですから、ひとりひとり、少なくなって行く訳ですけど、わたしたちもそうですが、その人たちが全部この世から居なくなってしまっても、その歴史そのものはまだ、未解決のまま残っていると、わたしたちは思っています。

それで、下伊那の飯田近辺の開拓団、特に「水曲柳」という村に入植した千数百人の人々。そのうちで、生きて日本へ帰って来た方達が、まだ存命でいられます。その人々からの体験を伺い、その人々が入植した中国現地の現在の吉林省という、省の一部に、その水曲柳があるんですけれども、その飯田・下伊那の方々が入植して、そして、敗戦で引き上げて来た、もう少しはっきり言いますと、その飯田、下伊那の、日本の農民によって土地を奪われ、生活を奪われた中国現地の人々の、子孫を含めた当事者たち。この人びとにやはり、現地で色々な事を聞いて、隠された歴史を明らかにするっという作業をやってきました。

それを手がかりにして、満蒙開拓団に関して私は、非常に狭い窓口なんですけど、考えて来た訳です。それで今日はその、水曲柳ちん、ちんは金偏に真実の真と書く、村と言う意味ですけども、鎮守の森の鎮ですね、鎮圧するという(笑)その鎮。水曲柳鎮という村です。今日はここの具体的に、聞き取りに関することも交えながら、もっと広い目で、特に信州、長野県とのかかわり合いを中心にしながら、満蒙開拓団と言うものが、一体どういうものであったのか、そして今どうしてその事について考えなければならないと、私が思っているか、という事をお話したいと思います。ちょっと始まりが遅れましたけれども、最初の、そうですね1時間20分位お話をさしていただいて、あと、討論をできれば、大変嬉しいと思っています。で、まず満蒙開拓団っていうのが、これまで知らなかった方も、どんな字を書くのかも知らないという方も当然おられる訳ですし、また、満蒙開拓団という言い方とは別に、満州農業移民と言われることもあります。はじめ、満州農業移民と言っていたものを、後に正式に日本国家が満蒙開拓団という名称に変えたんですね。ですから満州農業移民と言って出発したものが、やがて満蒙開拓団と言う名前に固定していく事になりました。だから、事実上同じものだと思っていただければいいと思います。皆さんお手元に簡単なレジメがあると思います。この項目に従っていきたいと思います。固有名詞も、ほとんどここに挙げておきましたので、それに沿っていきたいと思いますが。まず、満蒙開拓団というのはいつ、誰がどのように構想し実行にうつしたかというのを、まずお話したいと思います。先程申しましたように、1931年9月18日に、日本は柳条湖という、日本が権益を持っていた、いわゆる満鉄と言いますが、南満州鉄道という鉄道を、爆破した訳ですね。これは日本軍が爆破したんです、ところがこれは、日本軍が爆破したという事はもちろん言わないで、中国の軍隊によって、日本の鉄道が爆破されたという事で、ただちに日本は軍事行動にうつりました。そして、瞬く間に鉄道の沿線だけではなくて、中国の東北三省すなわち、広大な満州全域を武力で鎮圧して、そしてその圧力で3月1日、半年足らず後、1932年の3月1日に満州国、後にこれは、満州帝国と言われるようになりますが、満州国というのを、でっちあげました。御承知の通り、それはその時に、中華民国と言う民主制になる以前の清朝帝国の最後の皇帝であった、愛親覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)と言う人を、も一遍かつぎ出した訳です。清朝が革命によって倒れた時、この溥儀というのはまだ、十になるかならないかの子供で、名目だけの皇帝だったんですが、これが、生きていた為に、日本はこのラストエンペラーですね、映画にもなった、これをかつぎ出して、これを皇帝にして、実権は日本が握るという形で、もう一度操り人形、傀儡の国家を作りました。それがもう一遍いいますと、1932年天皇の暦では、昭和7年3月1日でした。そして、今までこの満州事変というのは、軍部が自分達の野望を、つまり軍事的に中国東北部を制圧して、そこに自分達の思うままの勢力を作ると言う、軍部のアジア侵略の野望という風に見られて来たし、歴史的にもそういう風に言われているんですけれども、驚いた事にですね、この1932年3月1日に、満州帝国がでっち上げられるよりも前に、満州に日本の農民を入植させるという計画が進んでいました。もう一遍言いますと、3月1日に満州国はできたんですよね、ところが満州国ができる前から既に、満州に移民を送り込むということ、それは最終的に500万人という数を含めて、そういう事が、計画されていた訳ですね。ということは、もうちょっと、遡って考えてみると、満州事変そのものが、もしかすると、この日本の農民を満州に送り込むというそういう、将来計画を実現する為の一こまであったと、考えられなくもないです。これは、まだ資料がしっかりと、そこのところが確認できないんですが。どうもそういう事があったらしい。それは、色々な動きを見ると明らかになって来ます。

ひとりそこの、橋本伝左衛門と言う名前を書いたんですけども、橋本伝左衛門と言う学者が居ました。この人は、京都帝国大学の農学部の教授で、農林経済学というひとつの新しい学問領域、講座を初めて開いた。言わば、ボス教授だったんですねぇ。この人はかねてから、この満州事変が起こる1930年代より前の20年代から既に、満州に日本の農民を送り込まなければならないという事を、自分の研究者としての、学説として、唱え続けて来た人なんです。で、この人は、何でそういう事を考えたかというと、日本の国土は農業を営んでいく上で、もはや限界に達している。つまり、農民の数と日本の耕地面積、そして、日本が新しく開発するような、まだ未墾の、未開墾の土地なんてものはほとんどない。従って、米を主体とする日本の農業というものを、更に発展させて、日本の食糧を維持、確保する為にも、日本だけでは足りない。じゃ、どうするか?日本に一番近いのは満州だ。しかも満州には広大な未墾、未開の土地がある。そこは非常に肥えた土で、農業を営むのに適している。それがひとつ。

彼はもうひとつ、日本はアジアに進出していかなければならない。狭い国土からもっと発展していかなければならないということと、自分の農業を結び付けて考えていたので、日本が今後自給自足を遂げながらアジアの盟主になっていくには、必ず海外へ行かなければならない。これは農業だけではなくって、様々な産業が海外に進出しなければならないけれども、とりわけ日本がアジアに進出していくためには、儲けたらすぐに又日本に帰ってくる、故郷に錦を飾ってくる、そういう風な、金もうけだけを目的で行くような人をいくらアジアに送りこんでも、日本が確固たる地位は築くことはできない。やはり、土地と共に生きて、その土地に骨を埋める覚悟で行く農民が、日本の国家の発展の為には最も適している。という風に、彼は学問的に考えたんですね。で、彼はかねてから、この自分の学説を実行に移す為の機会を真剣に求めていた訳です。で彼は幸せにも、満州事変が起こると同時に、自分の学説を実行する為の具体的なチャンスを手にする事になりました。そのチャンスというのは何かというと、2番目に書いた、トーミヤと読むんですけれども、東宮鉄男(かねお)と言いますが、関東軍、つまり満州の日本軍、満州駐在の日本軍の中佐という位にあった、高級将校であった、東宮鉄男という人とのコンタクトを持つ事に成功しました。この人も、橋本伝左衛門とはまったく別に広大な満州の、眠っている土地に日本の農民を送り込まなければならない…という事を考えていました。ところが、東宮鉄男が考えていたこの未来像は、橋本伝佐衛門の考えていた、農業で日本の国を興して行くという考え、理念とはちょっと違ったんですね。それは何かというと、東宮鉄男という、この人は満州の鉄道守備隊に所属する軍人だったのです。つまり、日本が中国という、他国の中に鉄道の権益だけ日露戦争で勝って、ロシアから奪って、満州鉄道、満鉄と呼ばれる数千キロの鉄道を持っていた訳ですね。鉄道というのは、線路だけが宙に浮いている訳ではなくて、地面に線路を引く訳ですから、当然その線路の敷いてある地面は、事実上日本のものなんです。それから、付属地というのがあります。何かと言うと、鉄道の線路の補修に使う道具とか、線路とか枕木とかを、置いておく場所がいりますよね、沿線に。それから鉄道に勤務する人が住む所がいりますよね。それで、一番狭い所でも、線路の片側200メートル、それから、大きい所では例えば、ひとつの市全体、例えば奉天、現在の瀋陽ですけれども、鉄道の主要な駅を持っている都会全体が、日本のものになった訳です。外国の鉄道が、例えば日本の東海道新幹線だけが、アメリカの物だと考えてみればわかると思います。当然東海道新幹線の駅も車庫もそれに付属する施設も、鉄道の工場もですね、鉄道を走らせる為の石炭が出る炭坑も、それから、鉄道の為の車両や線路や車輪を作る鉄工所も、全部満鉄のものだった、事実上日本のものだったんです。膨大な利権を持っていた訳ですね。それで、それを守るために広東軍という、日本陸軍の最強部隊が中国東北部に駐屯していた訳です。だから、事実上、軍事力を背景にして、日本は鉄道を運営していた。そして、大連、旅順という、関東省と言われた所は、日露戦争で勝った日本が、ちょうど香港マカオと同じように、中国から事実上植民地として、それを自分のものにしていた。という風に、日本は中国の東北部に非常に大きな利権を持っていた。当然の事ながら中国の民衆から、反対と言いますか、反抗と言うか、当然の事ながら抗議が起こる。中には武力で日本の鉄道を破壊して、自分達の主権をきっちりと貫徹しようとする、農民や、農民の指導者たちも出て来た。

これらをみんな、匪族と呼ぶんですね、匪族の中には、はっきりと思想を持った、共産主義者たちのパルチザンの人たちが居ました。これを赤匪とか、共匪とか言いました。赤い匪族ないしは、共産主義者の、共の匪族と呼びました。それから匪族の中にも有名な、馬族、馬に乗ってる人たちがいました。この人たちは農民にとても信頼されている、農民運動の指導者でもある。で、特に満州と言う地域は、日本だけがそこで滅茶滅茶なことをやったんじゃなくて、軍閥と言われる、自分の軍隊を持っている、中国人の大地主階級、こういう人たちが、民衆から絞り放題絞っていたんですね。だから、そういう奴に反逆する為にも、農民の指導者たちは、武装しました。それを日本は匪族と呼ぶ。その匪族が、跳梁跋扈、つまりのさばっているのが満州だ。そこで東宮鉄男は、日本の農民を入れる事によって、この日本国家に反逆する匪族たちを鎮圧するという事を考えた。これはどういう事かと言いますと、そのパルチザン、パルチザンとはっきり言ってしまいますと、パルチザン達は中国の中央政府に対しても反対してた訳ですね。封建地主的な、農民に対する搾取に対しても反対していた。ましてや、日本が中国に利権を持ってる事に関しても反対していた。

ところが、日本人の、例えば鉄道の沿線にある日本人の鉄道員の住宅とか、そういう所を襲撃すると、ただちに日本軍は、ものっすごい残忍な、武力による反撃をした訳ですね。従って段々、日本人に対して、匪族と言われる人たちは、直接攻撃をして来ないという事が経験上わかって、そこで東宮は、広大な満州全域に、日本人を配置すれば、匪族、これは特に赤匪、共産主義者達が恐かった訳ね、日本は。従って彼らを鎮圧することができると。だから、はじめから農民は中国の反日ゲリラ、反政府ゲリラに対する防波堤として、位置付けられていた。これが、東宮鉄男という関東軍の将校の理念だった。彼は鉄道守備隊の隊長だったんですね、当面。そして、満州国ができてからは、軍政部、つまり陸軍省の顧問になりました。満州国というのは、全部、建て前は満州国の主権があるんですが、重要な場所には全部日本人の顧問が居て、これが操ってた。軍部は東宮鉄男という、たかが中佐。あのぅ、大将中将少将の下に、大佐、中佐、少佐がある訳ですから。将軍ではなくて、佐官級と言うんですが、ま、中堅幹部ですね。これが、満州国の軍部を牛耳ってた訳ですが。この東宮鉄男はかねてから、中国人の于○○(ウ・チンシェン)という一人の軍閥、大地主の軍隊の親分、これと非常に親しかった。何故かって言うと、ウ・チンシェンというのは、満州国が日本によって満州国がでっち上げられる前から清国の鉄道守備隊長、中国の吉林省、ここの鉄道守備隊の隊長でした。この時、東宮も日本軍の鉄道守備隊。鉄道を守備する事がとても大事だったんですね。で、そこで知り合っていたんですが、満州国ができると共に、このウ・チンシェンという人は、満州国の鉄道守備隊の最高指令者になり、かつ1937年、満州国ができてから5年後には治安大臣になりました。治安大臣つまり、国内の治安警察の最高幹部。そういう言わば、満州国の、日本に操られた大物だったんです。

この人は、ウ・チンシェンという人は、吉林省、中国の東北三省の中の南の、まん中辺にあたりますが、この吉林省に自分の広大な領地を持ち、ここには金の鉱山があったんですね。ところがこの、金の鉱山はしばしば、反政府ゲリラ、匪族と呼ばれる反政府ゲリラの攻撃をうけて略奪されてた訳ね。当然ですね、民衆の物を、軍閥は奪っている訳ですから、民衆は絶えず反撃している。そこで、このウという将軍は、東宮にこういう事を申し出た。満州国ができると、ほとんど同じ頃に。自分の領地の中から2万ヘクタール(2万町歩)を無償で提供する用意がある。だから、かねて、東宮クンが言っている、日本の農民を満州に入植させるという案を具体化しないか?ということを、中国の日本の傀儡である軍閥、大地主の軍人が提案した訳です。それで躍り上がって東宮はこれを、軍の中でも、大至急、特に石原莞爾(いしわらかんじ)という非常に有名な、この頃まだ中佐だったんですが、後の将軍になった「悲劇の将軍」とよく言われるあの石原莞爾。それから、本庄という、関東軍、つまり、満州守備隊の最高司令官であるとか、そういう人に根回しをして、これを実現する可能性を模索したんですが、これにはただ、軍隊だけのイニシアチブでやるよりは、専門の学者が中国東北部、満州で、日本農民が農業ができるという御墨付きを与えないと、国家や世論を動かす事はできない…と彼は考えたんですね。そこで、かねてから知り合いであった加藤完治という(これ教育者なんですけれども)人を通じて、橋本伝佐衛門博士と連絡をとって、ここで、橋本、東宮、加藤という三人が二人三脚じゃなくって、これを三人ですると、三人四脚となりますが、非常なテンポで具体化していって、瞬く間に、国会で、この満蒙開拓案に関する予算が通って、1932年10月3日に靖国神社に参拝した500人の開拓団員たちが満州に向かいました。そして、10月末には、ウ将軍が提供した、ウ将軍の領地にある永豊鎮(えいほうちん)という所へ入りました。この永豊鎮を日本ではイヤサカ村という名前に変えました。今の簡単な字では弥、繁栄の栄。これで、弥栄。「いやさかいやさか」っていうのは、良く栄えてる、栄えろっていう意味でおめでたいっていう意味ですね。京都に八坂神社ってありますけど、祇園の。「やさか」っていうのは「いやさか」です。めでたしめでたしっていう意味ですね。中国の名前で、僕は中国語の発音を正確にできないので、日本語読みですが、永豊鎮といった所を、弥栄村(いやさかむら)というふうに改名して、そこへ500人送り込まれました。

つまり、今までのことを整理しておきますと、橋本伝佐衛門という農業学者が、かねてより持論としていた、農民を送り込む事によって、アジアの盟主になるその、実質的な基盤を作らなければならないという学説。それから、2番目に、東宮鉄男が、単に農業の事だけではなくて、国防上、日本が満州での利権を確保する上でも、農民を送り込む事が一番いいということ。そしてもうひとつ、加藤完治という人は教育者で、今と同じなんです。大体、日本の若者の根性が腐ってる。親もダメだ。だから、教育に全力を注いで、教育によって、新しい人間を作らなければならないって言うんで、彼は茨城県に、日本国民高等学校という、私立の高等学校を作りまして、ここで、農業の実習を通じて、つまり土づくり。それから物を育てる。そういう風な具体的な農作業、自然と、ある意味で言うとふれあいながら、物をつくり出して行く、という実践を通じて全寮制の高等学校を経営していたんですが、彼は自分の教育理念にとって、まったくの未開の地である満州に青年達を送り込んで、そこで農作業をやらせれば、立派な日本人ができる。そして、その立派な日本人が満州の指導者になれば、満州全体が自ずから日本のものになる。それをやがて、アジア各地に拡げて行くという彼の理念があったんですねぇ。教育を通じてアジアの盟主になる。アジアの指導者になる。この3人の意見がぴったり一致して、そして中国人であるウ・チンシェンは、自分の個人的な利益を日本の農民によって守ろう、こういう4人の意見がぴったり一致して始まったという訳ですね。

そもそもが、そういう風な始まり方を満蒙開拓団はしていたわけです。そういう風な4人の人間の簡単に言うと思惑が、勿論これは理想、本気で理想として唱えてたんだと思いますよ。少なくとも日本人の3人は。そういう風な理想が三十数万人の人間を、要するに人間の運命を変えたっていう事ですね。それどころではなくて、それに数倍、数百倍する中国の人々の運命を変えた。という事をまず、はっきりと確認しておかなければならないだろうと思います。じゃ一体、32万人余りの日本の農民というのは、どう人だったんだろう?一体誰が、満州農業移民、後の満蒙開拓団員になって送られて行き、かつ命を落としていく事になったのか?…という事を次に見て行かなければならないんですが。

最初に1932年10月に送りだされた、第一次移民、弥栄村の移民はすべて、武装移民でした。大砲、機関銃、そして、ひとりひとりが銃、ピストル、日本刀、そういう物を持っている。何故かと言いますと、日本人はみんな、悲しい事に、(今の若い人は夢にも思われないでしょうが)二十歳になると男は全部、徴兵検査を受けなければならなかった。2年間の兵役義務があった訳です。よっぽど身体が悪くない限り、日本の男はすべて兵隊にならなければならなかった。幸い戦争がその間になければ、2年間日本国内で、いろんな軍事教練をされ、上官にひっぱたかれて、2年経つと又帰れですね。たまたまその時に戦争が起こったとすると、現役兵ですね。満20歳から22歳までにかけての、現役兵は戦争が起こったらまず最初に戦地に送られる。ところが、現役兵だけでは戦争をするのにとても足りない、人口構成を考えればすぐわかるんですが。20歳になる人間というのは、毎年日本の人口の、何%いるかを考えればいいわけですね。すると、2年間ですから、その2倍しかいないですよね。だからほんの数十万人か、多くても数百万人にはならない数しか居ない。戦争が始まったらすぐに足りなくなります。そこで、昔の兵役法によると、そのあと5年4ヶ月も予備役兵役がある。だから、2年間終わってもまだ兵隊なんです。ただ、その時には兵舎に入らないで、自宅で普通に自分の商売をしてればいいんです。ただし、予備役の動員が来ると、次に戦争に行かなければいけない、その時には。更にですね、帰ってくると10年の後備役。で後に、1937年7月に始まる支那事変、本格的な中国侵略戦争では、2ヶ月のうちにたちまち、後備兵、ですから、37歳までね、37歳までの男は全部取られた訳です。この、現役兵ではなくて、家へ帰されもなお、兵隊である予備役である、後備役である人たちは、「在郷軍人」、故郷にいる軍人と呼ばれた。それでまず、最初はどういう事になるかわからないので、在郷軍人っと言っても、農民ですよ、全部。農民だけどちゃんと兵隊の位を持っている訳ね。例えば下士官であるとか、上等兵とかね、そういうのを持ってる。職業軍人は別ですよ。商売として兵隊をやる、高級将校になって行く人は別ですが。農民や労働者はみんな、家へ帰っても兵隊だった訳ね。ですから、彼らの中から重点的に募集した訳です。というのは、彼らはなお、兵役にある訳ですから、彼らには武器を使わせる事ができる訳ね。

その予備役の人々の中から500名を募りました。悲しい事に、瞬く間に500名の募集定員は、三日で満杯になった。9月1日に募集を始めて、つまり公示して、(8月に国会を通った訳ね。法案が)9月一日に、公示して9月3日が〆きりで、たちまち500人の定員を満たしました。しかも、これは実にうまいと思うんですが、東北北陸の農民を重点的に求めるという、但し書きをつけました。その時、東北と北陸は農村が、壊滅状態にあった訳です。30年と31年は大凶作なんです。それから30年から、蚕(かいこ)の、繭(まゆ)の値段が大暴落した。という事があって、東北、北陸の米作農家及び一部の養蚕農家では、ひとつの村で一年間で、50人の娘が売られて行った、身売りをしていった。と言う記録がある位の、物凄い農村は大変な状態だったんですね。ですから、それをしっかり見越して、東北北陸の農村に的を絞って、瞬く間に500人を集めました。これは全部武器を持って、永豊鎮へ行った。そこは匪族の巣窟であった。そこの匪族の本部。これは日本の言い方、匪族の本部を武力で占拠して、そこを移民団の本部にしました。当然銃撃戦をやった後です。敵を沢山殺した。敵って言うのは中国人です。その匪族の本部っていうのは、農民の自治組織の指導部だった訳ね。つまり。そういう所を奪いました。従って、開拓団と言いながら、立派な家があり、立派な耕地があった。開拓はひとつもしなかった。この、第一次武装移民は。翌年33年に今度は第二次の武装移民500人が送りだされました。これも、同じように今度は長野県。甲信地方を名指しで募集しました。これは、さっきお話しました、繭の大暴落で、農村が壊滅していたという所。これも、瞬く間に定員を突破していた。従って、第二次の記録を見ると、長野県の人たちが沢山入っています。養蚕農家の次男坊、そういう人たちが沢山入っています。これは、チイフリ、中国語の7がチイですね、フは虎。リは力。七虎力。これをシチコリキと日本人は呼んだんですが。チイフリというのが中国名なんですが、そこをなんと、日本はチフリ村と名付けました。チは千、フリは手偏の振るっていう、これ、中国語のチイフリ村というのを、日本語で千振村。チブリッていうのはなにかっていうと、天皇と関係している、天皇の神。ちはやふるという枕詞があります「ちはやふる」、日本の神を表す。古代中世の日本の文化の中で、神様を表す枕詞ってありますね、和歌、短歌の。この「ちはやふる」っていうのは「神代も知らず」と続く訳ね。その、チィフリっていうのは、ちはやふるという意味です。だから、それを千振村と名付けた。ここでは非常に、頑強な現地の人々の抵抗がありました。しゃぶんとう、シャは感謝の謝、ブンは文京区の文、トウは東。謝文東。という一帯の農民から非常に敬愛されていた、農民運動の指導者がいました。これを日本は「謝文東匪」と呼んだんですが、彼の頑強な抵抗があった為に、最初に入居したところ、中国人の村を奪って入植した所では、維持できなくなったんですね。で日本は滑稽な事ですが、入植して一番はじめに、日本の満蒙開拓団がやった事は、村の鎮守の神を作る事、神社を建てる事でした。せっかく作った神社も、遷座と言いますが、移らなくてはならないことになった。それで、神社もろとも、数十キロ離れた山の裾野、匪族の襲撃、つまりゲリラの襲撃がしにくい所に、場所を変えざるを得ない位、頑強な抵抗がありました。やがてこの、謝文東も日本に投降して来ます。やがてゲリラも屈服していくんですけれども。こうして、第二次まで武装移民が送りだされ、その後は人数を増やしつつ、結局は14次、敗戦の年の春まで満蒙開拓団は送り込まれました。第3次以降は、武装移民ではなくて、まったく普通の移民、農家の次男坊、三男坊でした。さて、移住形態だけ、ぱっぱっと見ておきますと。満蒙開拓団と言われるものに、下に書いておいたように、いくつかの例があるんですけれども、これはあとでまた、読んでおいていただけば結構ですが。

-----------<レジュメ>---------

「満蒙開拓団」の歴史から現在へ----とりわけ信州で考える事


氈@はじめに  なぜ、あらためて「満蒙開拓団」か?

 「満蒙開拓団」は、いつ、だれが、どのように構想し、実行に移したか?
  1.橋本伝左衛門の「実学」と国策の二人三脚
  2.東宮鉄男と于○○(ウ・チンシェン)の国際協力
  3.「満蒙開拓青少年義勇軍」の父、加藤完治

。 だれが満州農業移民になったのか?
  1.移住形態
   1)集団開拓団(団数 695)
    200〜300戸で開拓団を作り、独立村を構成。
    1932年の第1次から1945年の第14次まで。
    第1次・第2次の武装移民、のちの分村移民も、これに含まれる。
      @一般農業開拓団
      A転業開拓団(満州「帰農」)
      B義勇隊開拓団(3年の訓練ののち4年目から開拓団に移行)
      C馬産開拓団(ごくわずか)
   
   2)集団開拓団(団数 123)   
    30〜100戸で部落構成。「自由移民」は大体これ。1943年に廃止。
   3)分散開拓団(団数 94)    
    既設開拓団の地区内または隣接地に縁故で入植。
  2.農村の貧困と海外進出との結合
    1)農村経済更正運動と地域文化運動
    2)侵略戦争の楯にされた青少年

「 移民たちの戦中・戦後
  1.水曲柳開拓団員たちのエピソードから
  2.敗戦、集団自決、そして逃避行
  3.天皇の地方「巡幸」と内地再入植者たち

」 おわりに、……そして、討論その他 

---------------------------------------------------------

結局、日本の農民が、そうやって送りだされて行った訳ですが、一番典型的な形を言いますと、1936年、つまり昭和で言うと11年から、「分村移民」と言うものが始まっている。これはどう言う事かと言うと、日本の様々な地域にある農村の、原則として1/3なり半分を、その村のまま満州に持って行くという話です。例えば、有名な大日向(おおひなた)村というのが、信州佐久にありますけども、小海線の沿線の海瀬と言う駅から山に入ったところにありますけども、分村移民としては大日向村と言う所が一番有名になったんですけれども、小説に描かれ、映画にもなりまして。その大日向村は、満州大日向村というのを作って行きます。それが、たまたま、私達が調査をした、水曲柳村と小川、ほんの3m程の川を隔てた隣に位置しています。つまり吉林省にこれもあるんですけれども。この大日向村の例で言うと、ここは山林の農村だったんですね。当然ながら、養蚕の村だったんです。ここは、山が両方から迫っている谷あいの村で、一日に1/3しか日が射さないと言われた、あるいは半日しか射さないと言われた「半日村」とか、そういう風なあだ名もあった村なんですが。とにかく養蚕が壊滅状態になった為に、どうにも成り立っていかなくなった。こういう所が、日本の全国に一杯あったんですね。そこで考えたのが、その半分を中国に持って行けば、残った農民で、計算すればわかる通り、耕地が一戸当たり二倍になる訳で、そうしたらなんとか村は生きて行けるだろうと、極めて単純な計算ですね。それで1936年に初めて、「分村移民」というのが導入されました。そして、大日向村は、完全な形の分村移民としては最初のケースとして、1938年に移民する。そして、日本全国からもう、大日向村が手本になって、神話化されていくんですが、「大日向村に続け!」と言うんで、日本全国に「分村運動」と言うのが広まりまして、これは、10年間で百万戸、5年間で10万戸、分村移民を実現するという、計画が立てられたんですが、要するに村の半分が満州に行かなければならない。これは、世論の力で、「あの村はまだ分村移民を送りだしていない」と言うと、これは地方自治体から配分される予算が削られるっていう事が起こってくる。そういう風に色々な圧力をかけて、嫌でも応でも、なんとか分村させて満州に行かせる。なんでそういう事をしたかというと。物凄い、満州に行った人たちは苦労をしたから、それがだんだん日本にも伝わってくる。だから、はじめはこう言われました。「一家、二十町歩満州へ行くと、無償でもらえる」。20ヘクタールですね。20ヘクタールですから、当時1932年段階での、日本の農家の全国での平均耕作面積は一町歩。1ヘクタールだったんです。これは山林を入れないで田圃及び畑が。そしてこの1ヘクタールは北海道を含めての平均です。従って、小規模経営のところは、ほんとに「三反百姓(さんたんびゃくしょう)」と言われた通り、三分の一ヘクタール、畑の面積が1000坪しかない、というような農家がたくさんあったんですね。それが、向こうへ行けば20町歩、日本の平均20倍の農地がもらえる、しかもここが20年間肥料が要らない肥えた土地であると言われたんですね。その為に、最初に言ったように、日本の農村が非常に困難な状態にあったために、沢山の応募者があって、満州に送り出されて行ったんですが、匪族はくり返し逆襲をしてくる。そして実際はそんなに収穫が上がる訳ではない。

でこれは、島木健作と言う小説家が、この人はプロレタリア文学から転向した作家ですが、1940年の時点で、非常にいいルポルタージュを、書いてますが、日本の農民は満州へ行って農業をやるんですが、開拓団ではないんですよね。つまり、今まであった、既耕地で条件のいい所を次々と傀儡国家満州国当局を通じて、大日本帝国の権力によって、強制収容していた。で、代替地を与えるから、この土地を売れと言って、これは今日は数字を細かく持って来なかったんですが、前に僕はびっくりしたことがあったんですが、例えば「失楽園」と言う小説が何年か前にありましたよね、渡辺なんとかいうの。あれが一冊2000円くらいだったとします、それが、5冊しか買えない値段です。一戸ですよ。当時の貨幣価値に直してですよ。当時の小説の値段と、今の小説の値段との比率に直して、当時満州国が、満州拓殖会社という、国策会社を作りまして、そこが強制収容をした。ほとんどの中国人の農家が、当時の小説本を5冊くらいしか買えない値段で、全耕地、家付きで取り上げられて、別の土地へ行かされた。その別の土地は、ほんとに開拓しなければならなかった。つまり、中国の農民が開拓したんです。日本の農民が開拓したんじゃなくて。やがて、これはあとで出て来ますけど、本当に開拓した人たちもいた、日本人でも。これはもう少しあとで申し上げます。そうして、これは、既耕地に入植した。ということ、つまり中国の農民の土地を奪ったということ。簡単に言いますと、先程言いました下伊那からの移民団。そのなかの水曲柳開拓団というのは、自由移民団と呼ばれて、分村ではありません。飯田を含む、下伊那一帯から募集して、今までそれほど知らなかったようなかなり離れた村の人たちも一緒に行って、向こうで新しい村を作ったので、だから、中国の名前のまま、「水曲柳」という名前をとったんですね。だから、大日向村のように、「満州大日向村」と「日本大日向村」と二つ同じ名前があるということにはなりませんでした。

さて、水曲柳鎮というのは、とてもいい条件、分村で強制的で連れて行ったんでもないのに、ちゃんと自分達で応募して、自発的に行った人たちに与えられた土地、とても良かったんですね。米作地帯、水田地帯、陸稲ではない、水田地帯だったから、物凄く条件が良かった。で、水田地帯でない所へ送り込まれると、コウリャンとか大豆とか、トウモロコシを主にする。どうしても米が作りたいとなると、灌漑工事から始めなければならない。水曲柳でもだんだんと、自分達でも灌漑工事をしました。だんだん、稲作の地域を拡げて行った。そういう意味では開拓もやったんですけれども。もともとが、水田地帯だった。水田地帯とは何を意味するか。漢民族は米が主要な食糧ではありませんよね、ご存知のように。小麦やコウリャン、とうもろこし、粉食です。万頭を作ったり、あるいは麺類です。米作地帯であるということは、朝鮮族が住んでいたということです。その朝鮮族が永々として切り開いた水田を日本人が奪った。当然の事ながら、水曲柳鎮には、水田だけではなくて、トウモロコシやコウリャンや大豆の畑もありましたから、田畑両方。じゃ一体、なんで、漢民族、及び満州族の土地である、満州族は何万人しかもう残ってないんですけど、満州族の土地である、つまり、愛親覚羅溥儀っていうのは、あの清朝って言うのは、満州帝国ですからね、満州族の本拠であった、そして漢民族が圧倒的多数の住民であり、モンゴル族、蒙古族が若干いる、その満州の土地に、なんで朝鮮人がいるか、ということです。つまり。

朝鮮人は19世紀の中ごろから、しだいに中国へ流出していきました。これは、李王朝の国内政策が破たんしていた為に、朝鮮で暮らせない人がだんだん出て来ていたということです。ところが、1905年の日露戦争で勝った日本は、最終的には1910年の日韓併合つまり、朝鮮の植民地化にいたるまで、朝鮮で着々と土地測量事業というのを始めました。というのは、朝鮮ではこの土地が誰のものか、というのが非常に曖昧な地域が多かった訳です。例えば、山林はすべて、入会(いりあい)権がありました。つまり、誰の山、帳簿上誰の持ち山であれ、薪を採ったり、松茸椎茸などきのこを採るのに、付近の住民が自由に入れるという制度が、ずっと昔から永々としてあったわけですね。しかもその地域の境界というのは、杭を打ってというのではなくて、漠然としてる訳ね。だから、場合によってはみんなで使っているという場所がいっぱいあった。日本がまず日露戦争に勝って、朝鮮に統監府っていうのを置いて、日本が朝鮮の後見人、面倒を見る役割を奪って行った時に、最初にやったのが、土地測量事業。土地台帳を作るということ。土地台帳を作るなんて、当り前のことじゃないか…と思うのは、今の我々がひと坪いくらに、まぁ汚されてるのであって、みんなの土地ですよねぇ。それを、線引きをやっていったんですね。そしたら、当然持ち主のわかんない土地が一杯ある訳でしょう?それを、全部日本の土地にしちゃった訳ね。そうするとですね、今まで自由に入って、薪をとっていた。薪がどれくらい大事かっていうと。朝鮮ではオンドルを使う。一日中、冬になると薪を絶やさない訳ですね。これはみんな、ただで採って来てた訳ね。みんなのものだ。これが採れなくなる。そうすると薪を買わなければいけなくなる。それで、日本人が行って、薪屋を始める訳ですね、例えば、です。で、そうやって、日本の商人まで朝鮮に儲けの場所を作って行く。で、持ち主が曖昧であって、東託、東洋拓殖会社っていうんですが、これが、満託、満州拓殖会社の手本になるんですけど、そこが全部土地を管理する。日本から来た人に配分する。買わせる。日本でできない、膨大な果樹園を「一生の夢だったァ!」とか言って、朝鮮でやった人とか出てくる。こうして、日本の貧しい農民や、林業の農民が、朝鮮へ行っていた。そしたら、朝鮮人が住む所がなくなる。生きる所が、仕事がなくなる。急速に1905年以後、朝鮮半島から鴨緑江と、豆満江を渡って、非合法に満州に流入する朝鮮人が増えている。彼らは25年間、1/4世紀かかって、営々としてそこで、水田を切り開いていたんです。ご存知の方は沢山いらっしゃると思いますが、あの、米っていうのは、田圃っていうのは、何年もかからないと米ができるようにならない訳でしょ?そうすると、まずはじめは灌漑から。そうすると当然のことながら、トウモロコシやコウリャンを作っている中国の農民との、水の利害の問題が起こって来ますね。

万宝山(まんぽうざん)事件。と言うような事件が起こって来ます。日本の軍隊が出動する口実になります。中国に流出していった朝鮮人と、漢民族の中国の土着の人々が、農業の権益を争って、血で血を洗う戦いをする。これは日本のせいなんですね。それなのに、日本の軍隊は治安が乱れている、やがてこの治安の乱れが日本の利権まで及ぶといけないというので、軍隊を覇権してこれを鎮圧するという事をやってきたんですね。つまり、そういう所に水田があった。という事です。水曲柳に行った日本の移民は--その人たちにそういう事を問いつめる事はとても辛い事で、僕なんか戦後に自分の意識を持って、全然自分の口をぬぐってというか、手を汚さないでこういう事を言っている訳ですけれども--実際に中国の人々の土地を奪ったという事は、例えば水曲柳へ行った、伊那の人々がしたことは二重の搾取であるわけです。中国の人々から農地を奪っただけではなくて、日本から土地を奪われて中国に逃げて行って、中国の人々の中にようやく割り込んで行ってようやく、自分達の土地を作った人々。つまり朝鮮の人々。これは、当時まだ当然30年代は日本の植民地ですからね、朝鮮は。だから、朝鮮人というのは陛下の赤子つまり、天皇陛下の子供だった訳ですね。論理的に言えば。そういう人から奪った訳です。

さて、こういう事を、各地で日本の農民はくり返しました。つまり、日本では耕す土地がないから、政府や軍部、学者の陰謀によって、簡単に言うと、彼らなりの理想なり、理論によって、日本から捨てられて行った人々です。そういう人たちが現地でそういう事をやらなければならなかった。

ちょっとあの、半分の方の、数字を書いてある所を見ていただきたいのですが。大きい下の方の表です。開拓団及び、義勇隊(義勇隊については、後程お話しますが)これを見て下さい。

---------<表>--------

開拓団および 義勇隊合計送出 順位 開拓団関係は  昭和20年5月現在の満拓調査 
         
順位 府県名 開拓団員(名) 義勇隊員(名) 合計(名)
1 長野 31.264 6.595 37.859
2 山形 13.252 3.925 17.177
3 熊本 9.979 2.701 12.68
4 福島 9.576 3.097 12.673
5 新潟 9.361 3.29 12.641
6 宮城 10.18 2.239 12.419
7 岐阜 9.494 2.596 12.09
8 広島 6.345 4.827 11.172
9 東京 9.116 1.995 11.111
10 高知  9.151 1.331 10.082
11 秋田 7.814 1.638 9.452
12 静岡 6.147 3.059 9.206
13 群馬 6.957 1.818 8.775
14 青森 6.51 1.855 8.365
15 香川 5.506 2.379 7.885
16 石川 4.463 2.808 7.271
       
       
37 和歌山 1.272 1.877 3.149
38 北海道 2.002 1.127 3.129
39 福岡 1.669 1.445 3.114
40 島根 1.507 1.528 3.023
41 沖縄 2.35 664 2.994
42 大分 735 1.836 2.571
43 愛知 634 1.724 2.358
44 長崎 747 1.403 2.151
45 千葉 1.037 1.111 2.148
46 神奈川 1.013 575 1.588
47 滋賀 93 1.354 1.447
合計   220.359 101.514 321.873

最後の14次の移民が送りだされた、昭和20年45年の5月、敗戦の3ヶ月前までに、合計32万1千873人が送りだされました。そのうちで、全国47道府県の中で、東京はまだ都ではなく府だったから、道府県ですよね。長野県はダントツです。3万7千859人。で私が、生まれて現在住んでる滋賀県が最も少ないですね。たった千4百何十何人。しかも、そのうちの、ほとんどは、青少年義勇隊、義勇軍と言うんですが、農業移民はたった93人しかいない。これはとても簡単な事です。日本中で、米が自給自足できたのは滋賀県だけだったんです。あの、戦争がものすごく過酷な状況になっても、滋賀県では米が足りていたので、満州へ行く必要なんかなかったのです。これは、敗戦の時に5歳だった僕でもよくおぼえていることですが、戦後の食糧難の時代にも、滋賀県では比較的食糧が豊かでした。僕の家族は滋賀県に住んでいた為に、自分の所は既に米作農家ではなかったけれども、近所にすんでいたお百姓さんから闇米を買って生きて行けた。代用食と呼ばれる、米以外の芋とかマメとかですね、かろうじてすいとんとか人参とか、都会の人は食べなければならなかったんですが、主食のかわりに。そういうものばかりを食べなくても良かった。別に僕のとこは地方の顔役でもなんでもなかった普通のうちだったんですけども。じゃ、93人はなんで行ったのか?というと、これは、後にですね、だんだん人間が足りなくなってくる、だんだん行かない所が出てくる。滋賀県のように。そこでどうしようもなくなって、報国農場という国策が出てくる。報国と言うのは、天皇の国に御恩返しをするという意味です。報国農場というのを、無理矢理各府県に作らしたんです。滋賀県報国農場と言うのを満州に作らなければならなくなって、そこが窓口になって次々と移民を受け入れるという政策で、滋賀県もついに、戦争末期に93人がそこに行かなければならなくなる。幸い戦争が終わり、93人。といっても、ひとりの命は、それこそ安田さんや千代丸さんじゃないんですが、一人の命は地球よりも重い訳ですから、93人もといったら、大変な事ですけど。とにかく、このように、これを見ると歴然としてるんですね。つまり、自給自足ができるかどうかと言う事が決定的だった。農業経営が、経済的に成り立っていったかどうか?ということが問題なんです。長野県がこれなんですね。ついで、山形県ですね。これ、長野県は、ニ位の山形県の二倍以上。日本の農業にとって、何を作ってるかというのがとても大きな問題になってきたことでもある。まず、滋賀県の場合は米が自給自足できた。それから、米が自給自足できない場合は、これまでの日本の農業の歴史では、米以外の物で、金になるのは蚕、養蚕です。絹糸を作る為の繭(まゆ)の生産。この二つだった訳ですね。お金で売れる農産物というのは。蚕にちょっと悪い言い方ですけど、繭を作る。それで、長野県は1930年の時点で、県下の全農家の80%が養蚕農家でした。もちろん、自分とこで食べるお米なんかは、自分の畑で作ってる場合はありますよ。だけど、主とした収入源は蚕、繭であるっていうのが80%です。ところが、この繭の生産量が日本全国で考えると1926年昭和最初の年であり、大正の最後の年ですね。この年の日本全国の繭をお金に換算すると、8300万円になっている。今と全然ケタが違いますけど。これは比較の問題。それが、8年後の1934年には、繭の全日本における、売り上げ額というのは、2000万円。1/4以下になっている。従って1/4以下しか、養蚕農家はお金が入らなくなったんです。8年前と比べて。それが県下の80%であったということですね。従って、長野県の場合は、米の不作にも増して、繭の値段の暴落というのが、決定的に大きかった。その為に、長野県では大勢の農民を送りださなければならなくなった。

もうちょっと簡単に申し上げますと、1929年の10月末に、ニューヨークのいわゆる、ブラックサウスデーと言われますが、株式市場の株価が大暴落したわけですね。これが11月のはじめから日本に波及してきて、日本の株価が大暴落する。ものすごい、世界的な大不況に、資本主義国がなっていく。この資本主義圏の大不況によって、ヨーロッパアメリカの人々にとって、贅沢品であった、絹製品というものが、買い控えられるようになった。という事です、簡単に言うと。だから、絹っていうのは、自分で着たり食べたりする為に農民が作ったんじゃない。米もそうなんですけどね。米も自分で食べるのは、盆と正月とか、そういう農民が圧倒的に多かった。特に絹なんてそうです。お蚕ぐるみ、絹の物を着ているっていうのが、金持ち、特権階級の代名詞だった。お蚕にくるまれて育った。という風に言われたくらい。

そういうことで、長野県は圧倒的な打撃を被りました。とりわけ長野県では、30年代になるや、東北北陸の米の不作と、ほとんど時を同じくして繭の不作で、日本では農業で、金になる農業が、30年31年に一挙に崩壊しはじめるんですね。これが、実が満州事変の直接の引き金になったと、僕は思うんですね。従って、農業移民を興す為に満州事変をやったっていうのは、そういう意味でもあるんです。これは、岩波の近代日本総合年表を見てもわかる通り、30年、31年、この2年続いて、冷夏。今年みたいに暑くない。冷害だったんですね。従って、米が壊滅したわけです。夏の日照が圧倒的に少なくて。で、31年の9月でしょ?取り入れを目前にして、不作は目に見えてるでしょう?2年続いて不作であるということはどういうことか。米の備蓄はない。今でも100万トンないでしょ?日本は米が余っていると言うけれども、現在の備蓄は100万トンもないですね。だから、2年不作が続いたら、今の日本は輸入しないとダメな訳ですよ。この前、ちょっと不作が続いたらば、ものすごい沢山輸入しましたでしょ。今は輸入できるからいいけど、当時は輸入できないから。2年間不作であるということは、ほんとに、2年間日本人が米を食べられなくなるということ。この事の衝撃の大きさっていうのは、僕らにはわからないですね。ただ、年表の上の数字で確認できることは、この2年続き不作であるということが、確定した時点で、満州事変が起こったということです。これは歴史上の現実ですね。これをどういう風に結び付けるかは、まだ資料がない。資料はないけども、警察だったら強引に(笑)自白でやっつけるとこですね、これだけ状況証拠が揃ったら。そういううふうなことですね。

日本全国で、民衆運動が展開されました。農村経済更正運動といいます。これ悲しい事ですね。政府と御用学者が音頭取りになった、民衆運動です。これがそのまま満州農業移民に結びついていく。我々が知っている民衆運動のいくつかは、そういう運動なんですよね。ちょっと、多分、時間が足りそうなんで、一番ひどい民衆運動について言いますと、1936年に、植民地朝鮮で、ひとつの民衆運動がおこりました。生活改善運動が起こりました。朝鮮の民衆の中からおこりました。もちろん、日本の総督府がそういうふうにしむけたわけです。その生活改善運動というのは、ひとつは、束髪、ちょんまげを、朝鮮の人は、沖縄の人たちと同じように、髷(まげ)を結っていたんですよね。男もずっと。それを切る。断髪運動。これは文明国として恥ずかしい。これまで朝鮮は未開の土地だったけど、大日本帝国の一員になったんだから、一等国である。一等国の仲間入りをしたのに、ちょんまげを結ってるというのはおかしい。という、男の髷を切らせる断髪運動が起こった。朝鮮の青年会とか婦人団とかいうのに、総督府が影で操って、ジャーナリズムを使って運動として展開された。

その第二は、白衣を着ない運動。白い、純白のチマ・チョゴリを着ない運動というのをやらしたんですね。これ、話はちょっと脱線します。夏目漱石という¥1000札の人がいますが、この人が1909年の秋に、つまり最終的に日本が朝鮮を併合する前の年の秋に、満州を観光旅行して、朝鮮半島を南下して日本に帰って来ました。その時の日記が残っているんですね。彼は鉄道で、鴨緑江を渡って、満州から朝鮮に入って来ました。その朝鮮の第一印象を日記に記している。「朝鮮に入れば、人みな白し」。朝鮮に入ると人は、みんな白い。つまりそれ位、彼にとっては印象が鮮烈だったんですね。朝鮮で汽車の窓から見える農民がみんな、真っ白なチマチョゴリを着てる。これが、民俗衣装であって、農民であれなんであれ、民族的な衣装です。それを36年の民衆運動でどういう理由でやめることにしたか?ひとつは、白は汚れやすいので、洗濯を度々しなければならないから、不経済である。これは、朝鮮の洗濯というのは、ご存知でしょうが、砧(きぬた)で叩く洗濯ですね。これは、洗濯だけではなくて、ずっと昔から朝鮮からの渡来人から学び、更には日本の植民地になってからの朝鮮で、多くの人が“砧のメロディ、リズム”を身につけてくる訳ね。日本でも古代の渡来人から学んだ砧のメロディが、「砧」という、ひとつのメロディの定型としてずっと残っている。たとえば、「春の海」という、あの下らない曲を作った宮城道雄という検校(けんぎょう)。目が見えなかった人は、7歳でおばあさんと弟、妹を連れて、朝鮮に渡りました。そこで彼は、尺八と三味線、お琴を教えて一家を支えたんです。7歳の時から。失明して間もなく。で、彼はほとんど失明してましたので、ほとんど音でしか、朝鮮を体験してないのね。彼は沢山の砧、「唐砧(からぎぬた)」とか「遠砧(とうぎぬた)」とかいう曲をたくさん作ってるんですね。古代から流れてくる伝統音楽だけではなくて、近代化された新日本音楽と言われた、昭和と共に始まる新しい音楽運動があるんですが、新日本音楽という、新しい日本音楽の近代化の革命の運動の中でも、朝鮮の砧のメロディは宮城道雄によって、取り上げられてるのね。文化っていうのはつまり、そういう風なものなんですね。洗濯、クリーニングだけに、砧はとどまるものではないんですね。

さて、もうひとつの理由は、白は汚れが目立つので、それを気にして仕事の能率が上がらない…と言うんですね。ジョじょ冗談もいい加減にしろ(笑)。とまァ、思うんですけれどもね。こういう運動をやらせます。36年です。どういう事かと言うと。37年の支那事変、中国に対する本格的な侵略戦争をするにあたって、既に35年から、日本は朝鮮を兵站(へいたん)基地、つまり中国に対する戦争、中国を舞台に戦争をする為の、後方基地として、工業を急速に増進、つまり軍需産業をね、朝鮮でやろうと思った。従って古いチマチョゴリの工場労働者なんてのは、これは考えられないという事もあったんでしょう。それで、白い着物を着ていると、後ろから墨汁をかける運動(「え〜?!」と会場がどよめく)朝鮮の民衆にそれをやらしたんですよ。しかたなく、墨染めにしたり、若い人たちはむしろ逆に、緑や黄色に染めていった。ということなんですね。我々が知っている、今のチマ・チョゴリ。これが民衆運動として展開させられたのです。ところが、もっと衝撃的な事がある。--もうひとつの民衆運動が。1945年に、日本が敗戦。8月15日のいわゆる玉音(ギョクオン)放送は、朝鮮でも聞かれました。その日のことを、ある日本人が証言をしています。8月15日の正午、自分達には聞こえるか聞こえないかわかんない、陛下の放送を聞いて、何しろこれは負けたんだ、思ったら途端に、…この人はソウルから南60キロ程行った、スーウォン水原、水の原っていう所に住んでた、当時まだ、12〜3歳の少年が子供にいる、40歳代中ごろの、日本の小説家だったんですが。自分の子供が朝から遊びに行ってまだ帰って来ない。ウァ〜っと、ものッすごい声があがって、町中に轟き渡って、「マンセイ、マンセイ」という声がした。で、窓のカーテンを開けて見ると、街中が真っ白だった。つまりどういう事かというと、彼らはちゃんと、その日の為に1枚だけ、白い着物を隠してたんですね。そしたら、その騒ぎの中、子供が「お父ちゃん、変な旗が上がってるよ」。各町の市役所の前には、国旗掲揚台が、日の丸が常時かかげられている。朝鮮で。で、子供に手を引かれて、彼は湯浅克衛という小説家の人なんですが、朝鮮の人たちにとても、言わば親しくされていたんで、大丈夫だ。という自信があったんで、その「マンセイ」の中を子供と一緒に市役所の前まで行くと、そこに旗がはためいていた。どういう旗だったかといいますと、これは想像がつくでしょう。こういう旗だったんですね。(…と見せている)。日の丸の半分を黒く塗った。で、朝鮮の旗である太極旗にしたわけね。日の丸の半分に巴の形を黒く塗る。ほんとは、赤と青ですね、ほんとはね。それが、赤と黒の太極旗が揚がった。そして、さすがに、この赤と青の太極旗だけは残しておけなかった。もしこれが見つかったら、即刻これ、反逆罪ですから、この旗だけは、残しておけなかった。1919年の三・一万歳運動で、この旗が出たのが最後でした。当局が神経質になって、徹底的にこの韓国の旗を弾圧したんです。だけどちゃんと、日の丸というありがたい旗があって、(笑)これ即座に、韓国の旗になった。…というこれはあとの話ですが。民衆運動の歴史には、もちろん、こういう本当の民衆運動もあった。しかし、作られた民衆運動も少なくなかった。

さて、その民衆運動のひとつ。そういう「作られた民衆運動」のひとつが、農村経済更生運動というんです。これは、「日本の農村はもう、だめだ」、なんとして、生産力を高めたらいいか…ということが、20年代の末から、問題になっていて、全国規模で農林省が音頭をとって、農村の経済を立て直す運動。それで、農民たちや農民運動をやっている人たちから…、この、農民運動をやっている人たちは、ほとんどが転向者です。つまり、転向する前は共産主義・社会主義の農民運動をやっていた…。ついこの前まで、伊那で生きていた羽生三七(ハニュウサンシチ)という社会党の、戦後代議士になった人とかね、羽生三七。有名な農民運動の指導者だったんですが。戦前は社会主義者。戦中はこういうもののイデオローグになっていく訳ですね。つまりこれでは、みんな農民たち、青年たちから、「どういう改革をすれば農民は立ち直れるか」という作文を募集したり、アイディアを募集したりね。こんなもん、いいアイディアがある訳ないです。従って、ほんとに農村経済更生運動というのは、絵に描いた餅に終わる所だった。一番熱心だったのは、長野県です。その熱心だったイデオローグ。しかも、地域に根を降ろした理論的指導者は、ほとんどが学校の先生。小学校および、中学校の先生。これは、信濃教育会という、現在もある組織の人たちが、これも初めは反体制的な運動だったんですよね、その教育者たちが、ここで一番の地域の理論家。リーダーになっていく訳です。こうして、農村経済更生運動はとりわけ長野県では信濃教育会とタイアップして、非常に地元に浸透していった訳ね。しょっちゅう座談会とか講演会とかやりながら。で、なんにもいい案浮かぶ訳ないですね、全然。機械化するったって、そんなお金はないし。せいぜい農作業の時に順番に、どこの農村でもやってきたことで、田植えや稲刈りは道具はみんなで新しいやつを買うんじゃなくて、みんなで回して、一緒にやりましょうとかね。そういう当たり前の事しかできないんですね。ところがそこへ、満蒙開拓団というのが出てくるんです。これは、農村経済更生運動がまっ先に飛びついた。これで、つまり、分村運動もこういう中から出て来た。半分を満州に持っていけばいいんだ。そしたら、日本の農村は更正できる。理論的には作付け面積、一人当り、2倍になる。しかも満州に行った人は、新しい希望、本当に満州に行って、満州の農業で新しい指導者になる事ができるという、新しい夢を抱いて行く事ができる。単に小作人ではなくて、今度は自作農である。自作農であるばかりでなく、5000万人の人口を擁するはずの全満州で、指導者になる事ができる。五族協和、日本と朝鮮と漢民族とモンゴル族と、満州族。この五族が協力して生きて行くという理想の国で、その指導的農民になることができる。と言って、これに全面的に、農村経済更生運動や、地域教育がのっていく訳ですね。で、自分達の教え子を送りだしていく。教え子を送りたのは戦地だけではなかったんです。で、飯田におられる、矢沢れいさんは先生だったから、そういうことをしたのですが、その自分の責任を、ちゃんと償いたいと今でも語り部になって、僕らもその方にずいぶんお世話になったんですが、飯田で一生懸命、満蒙開拓団の事を若い人に語っておられる方が、これは、水曲柳から生きて帰って来た方です。今83〜4歳かな、もう。(実は92歳でした--池田追記)

さて、満州へ行って指導民族になったか。というんですねぇ。さっき言った島木健作、有名な転向作家。これも、プロレタリア・文学運動の代表的作家から転向して、転向文学の作家になったんですが、彼が1940年に満州の開拓団の見学に行きました。で、それで実に驚くべき事を見て来て、それを書いてしまったんですね。『満州紀行』っていう本に。日本の農民は現地でのノウハウがわからない。当り前ですよね。例えば、長野県から行った、養蚕農家の農民が、どうしてコウリャンや大豆を作るノウハウを知っているか。しかも、一年の1/3は完全に地下の60cmまで凍っている、凍土。そういう所でほんの短い日照時間を利用して、一気に作物を作らなければいけない。その為の例えば、畝(うね)のつくりかた、水のやり方、そういうものは全部現地の小作人として使用している支那人の農民から教えられていると書いているのね/これ当たり前の事ですよね。彼らは、つまりもともとそこで生きていた中国の人々は、土地を強制的に買い上げられて、別の所へ行かされる、そこへ行ってそこを開拓する人もいたが、もう歳をとっていて一から開墾することができない…という人は、日本人の小作人になった。自分の土地で。今まで自分の土地だった所が今度は日本人の土地になって、そこで小作人になった。そうして、日本人に農業を教えた。当然、水曲柳の人は朝鮮族の人に、満州での米の作り方を教わる。良く言われるのが、満蒙開拓団によって、人類の米の生産の北限が大変延びたと言われるんです。米っていうのは熱帯植物ですから、だから北海道が北限だったんです。北海道の人たちは重宝され、「北海道農法」と言われて、向こうに行って教えるという建て前で、沢山連れていかれたんです。北海道を開拓して100年足らずで、やっと米を収穫できるようになった農民が、満州へ行ったんですが。それは微々たるもの。実験農場と言うんですが。実際は、朝鮮族の人に教えてもらったんだから、日本人が米の北限を北へ伸ばしたんじゃないんですよね。まったく。

で、現地の人々とどういう付き合いをしてたんだろう?これは、敗戦の時に一挙に明らかになった。8月9日午前3時、ソ連軍がソ満国境と言われる、満州のソ連との国境地帯ですね、北と東。そこを突破して、つまり、この日に長崎に原爆が落ちる訳ですね。で、どっちが先だったか。これは、2発目の原爆を長崎に落とすという事を、アメリカが同盟国ソ連に通告していたか、それとも、ソ連が8月9日に、参戦するっていう事を、同盟国アメリカに通告していたか?どちらかの可能性もありますね。ただ、その二つは連動していたんですね。完全に。つまり、ソ連は広島に原爆が落ちて、アメリカの勝利が決定的になった時に、日本に対する不可侵条約を破棄して日本に参戦するという決意をした。ちょうどそれは、ドイツに勝って、ドイツの方に回していた軍隊が、ようやくシベリア経由でソ満国境に集結できた、ぎりぎりの時期でもあった。だから、アメリカは逆にいうと、その時期にやっと原爆開発が間に合って、一発目の原爆を落とした。だからあれは、戦後の支配を巡って、日本の敗戦に関してはソ連とアメリカが駆け引きをやった訳ですけれども、ソ連が参戦したのは、2発目の原爆が落ちる数時間前であったんですね。そうして、もう満州守備隊は他の戦線へ送られてほとんどいませんから、逃げる避難民を一挙に追いこして、ソ連軍は朝鮮半島に向かって殺到したんですね。で、8月15日に、38度線まで到達していたという事なんです。簡単に言うと。こうして、満蒙開拓団の、今度は逃避行が始まる訳ですが、まず、ソ連参戦で、日本の敗北がまだ決定しないうちから、匪族ではなくて、明らかに顔を知った隣人たちから、日本の開拓民の部落が襲撃されるようになった。これは色々なケースがあって、本当に全然襲われなかった、むしろ、ほかの地域から流れて来た中国人の、日本人から見るといわゆる暴徒…からかくまってもらった人たちも沢山います。従って、これは現地の農民の中に、人間的なある意味での、これは圧倒的な落差があるにしてもですね、人間的な関係を少しであれ、結ぶ事に成功した日本の農民も居た、っていうことです。で、水曲柳の人たちはそうだった様ですね。で、同じ村の中国人・朝鮮人たちではなく、他の集落から遠征して来た農民に、敗戦と共に、全部略奪されていきます。その時に、中国の農民たちが、彼らは物が欲しいんだから、黙ってやって下さい、と言ったんですね。で、私達がいのちは保障するから、と言ったんですね。水曲柳鎮の中国人の人たちは。そう言って、黙って自分の家にかくまってくれた。中には、それに抵抗して殺された人もいる様ですけれども、ほとんどの人はその時点で無事だった。ところが、その時の満蒙開拓団はどういう状態にあったかと言うと、敗戦に先だって、16歳以上の青年男子はほとんど、兵隊にとられていた訳。従って、嫌な言い方ですけど、女子供と年寄りしかいなかった。ほとんど。で、今日本で生きている人は、一番の年長がその時15歳くらいです。兵隊にとられる直前だった人が帰って来ています。ところが周りから、次々と開拓団が壊滅したという知らせがある。軍隊なんかもう、全然ない。このまま行っても、帰れない。ということが、ほぼ伝わってくる。それで、集団自決を、水曲柳鎮は決めたんですね。そして村のはずれの谷あい。今、慰霊碑を中国の人たちが建ててくれてるんですけども。谷あいに結集して、その時、水曲柳鎮は267戸、そして1096人居ました。敗戦当時。そして、中で絶対に自決をしてはいけない、どんなことをしても、日本に帰ることに努力ベきだと言う意見と、二つに割れました。それで、自決派がそこに結集して、これは言うまでもなく、皆さんもご存知の通り、自分の子どもや肉親を殺して、お互いに心臓に短剣をあてて突きっこをしたり、そういう、咽を掻き切ったりという事で、3百数十人…つまり、1/3が死んでしまいました。それで生き残った人は、それからずぅっと、ハルピンへ行き、そして新京(現在の長春)へ行き、という風に、今度は中国の中をさすらう事になりますが、伝染病が瞬く間に蔓延しまして、で、駅とか広場とかで野宿をするわけですから、弱い人から倒れていき、結局日本に帰り着いたのは600人。400人が死亡してしまいました。生きていた人の4割が死んでしまったんですね。そして、その生き残った人たちは、今度は帰ると、だって日本に土地が無いから行ったんですからね。帰ってもない訳なんですよ。で、特に村の半分行ったっていうんで、半分の人が帰って来たらまた、昔と同じになるんじゃなくって、既にそこはもう、かつての村の仲間たちが、自分の土地として耕している。そこで、帰って来た人たちのほとんどすべては、再入植をさせる。これは内地再入植です。だって、日本に開墾する土地がないから、中国に捨てられた訳でしょ。じゃ、一体どこに土地があるんだ?わずかにあった訳ですね。今では、一番有名なのは上九一色村。それから、成田の三里塚。北海道、そして北軽井沢。大日向村は、軽井沢に新しい三つ目の大日向村を作らなくちゃならなかった。で、この大日向村の生き残りで、再入植した、今ではもう亡くなったと思いますが、あるおばあさんが、1970年代にインタビューに応えて、こう語りました。

「自分の生涯で一番苦しかったのは軽井沢だ。あそこでは本当に開拓をしたから」。この証言が何よりもよく語っています。つまり満州では、大日向村の人たちも開拓はしなかった訳。北軽井沢で初めて。あそこはすごい所でしょ?火山岩、火山れきが、ゴロゴロしてる。なんにもできないから、それまで放ってあったんですね。

三里塚はどうかと言うと、赤ッ風と言って、北風が吹いて荒涼たる北総台地だった。ただそこには、天皇の御料牧場があったのね。僕も中学校の時遠足で行きましたけど。(笑)牛乳が美味しかったんですが。でも日本は牧畜文化じゃないから、牧場っていうのは、天皇の贅沢で、遊びでやってたんです、簡単に言うと。で、天皇はやがて、成田空港の話が持ち上がったら、まっ先にそこを寄付したんですね。農民たちが土地を売るように。その農民たちと言うのは誰だったか?もともと農民はいなかったんです。荒涼たる北総台地に再入植させられた。そこで、戦後30年近くかかって、やっとピーナッツができるようになった。三里塚のピーナッツご存知ですよね。ピーナッツとさつま芋ですか、できるようにやっとなった所で空港が造られることになった訳です。成田空港反対の三里塚闘争には、そういう歴史があるわけです。僕は、オームの事は、あまり批判してはいけないと思っている人間なので、上九一色村の人が、あそこの土地をオームから守ろうとしたという気持ちも、よくわかる訳です。彼らはあすこを切り拓いた。つまり、もいっぺん、捨てられて…というようなことが、戦後にありました。

戦後天皇は、地方巡幸っていうのをやってきました。沖縄を最後にして、50年かかって。最初は敗戦の翌年、1946年2月19日に神奈川県に行きました。神奈川の川崎大師。多摩川の鉄橋を渡ったら、すぐあるわけでしょ。それが、地方巡幸。つまり、それ以上行くのは恐かったんですよね。俺たちを死ぬ目にあわせた、俺たちの同胞を沢山殺した。その責任はテメー、どうとるんだ!という民衆の糾弾が恐かったんだと思います。ところが、それどころではなくてね、沿道の日本人が全部土下座をして、「陛下、申し訳ございません…」という姿を見た訳ですね。天皇は。それでもう、その年の春から、地方に本当に出かけてゆく勇気を、天皇の側近たちは、持った訳ね。翌年3月には、群馬県と埼玉に行きました。そして、翌年47年10月7日〜15日まで、初めてもっと遠出をしました。新潟と長野と山梨。47年10月に行きました。その時に、長野でどこへ行ったか。北軽井沢に行ったんですね。つまり、まだ再入植したばかりの、大日向村へ行ったんです。また、体験者の話です。陛下からねぎらいのお言葉をかけていただいて、今までの苦労が全部吹っ飛んだ。というそういう、農民の言葉が残っています。つまり、一体どういうことなんだろうか?(笑)

橋本伝左衛門、その学者としての満蒙開拓団のイデオローグは、1937年に行なわれた、ある講演の中で、「東亜(東アジア)の開発と皇国精神」という、長い講演をしているんですが、さっき僕が御紹介した、東宮大佐、これは戦死して、大佐になりますが、東宮中佐との、軍人としての信念から、農民を盾に使おうとした、その東宮との経緯を言い、そして満蒙開拓青少年義勇軍のことについて述べています。満蒙開拓青少年義勇軍というのが、38年からできてきますが、それも橋本と、東宮は戦死してしまいましたので、加藤完治とが、軍部と相談するんですが、いよいよ16〜19歳までの青年に、開拓義勇団として、満州に行かせる。これは義勇軍として。それで、武器を持たせる軍隊編成で、これはソ満国境に近い所に配備する。満州の北部と東部。ここは未墾の未開拓の地がほとんどです。従って、満蒙開拓団の中でも、青少年義勇軍の十代後半の、今で言うと、高校生。彼らが、本当に、開拓をしました。この構想も、つまり、橋本伝左衛門という学者と、加藤完治という教育者が軍部と結んで立てたのです。

で、次に見ていただきたいのは、上の方に書いた「満蒙開拓団および満蒙開拓青少年義勇軍の引揚その他に関する推定実員」という細長い表ですが。

種別 総人口 死別 残留 行方不明 未幅員 内地幅員 引揚者 
集団開拓団 131516 100 32784 24.9 6970 5.3 2226 16.9 11836 9.6 1973 1.5 55763 42.4
集合・自警村 35475 100 8858 24.9 1886 5.3 6013 16.9 3202 9.6 535 1.5 14983 42.4
義勇隊関係 58496 100 4379 4.7 2753 4.7 17088 29.2 14968 25.6 2160 3.7 17148 29.3
                             
総計 225487 100 11609 5.2 11609 5.2 45327 20.2 30006 13.3 4666 2.1 87894 38.8
満蒙開拓および満蒙開拓青少年団義勇軍の引揚その他に関する推定人員(1946年10月末)   義勇軍の引揚 その他に関する 推定人員 (1946年10月) 末)                

★★ここに非常に細かい46年10月末のデータがありますが、義勇隊関係というのは、死亡した人は全員のうちの7.5%ですが、行方不明は29.2%、46年10月にまだ帰っていない、つまり捕虜になった、どっかの収容所に25.6%という。とてつもない数字になっているわけですね。これはダントツです。他の所を見ると、パーセンテージで言うと、行方不明と捕虜になった、つまりソ連軍に全部つかまってしまった。ソ満国境に近い所に居たから。65%近い人たちが、死亡者を加えるとほとんど、3人に2人に近い。そういう人たちが帰って来なかった。まだ十代の子供達がそうなってしまった。それが、橋本伝左衛門や、教育者であった、加藤完治の提案だった訳です。で、なんで加藤完治がこういう提案をしたかというと、「土に生きる」というのが、教育の最も大事な部分であると。これに対して橋本伝左衛門はこの講演の中で、「陛下の土地を耕すという精神が不可欠である」と。つまり農業というのは、単に土地から収穫するだけじゃなく、天皇陛下から賜った土地を自分は耕しているんだ…世界中にいろんな農業国があるけど、例えばデンマルクはあるけれども、日本が本当に世界の農業的な指導者になっていくとすれば、そういう精神が培われなければならない。そしてその為には、どうするか?これ、ハッキリ言ってるんですね。毎朝農作業にかかる前に、日の丸の掲揚をして、君が代をみんなで歌う事である。これによって、陛下の土地を耕すという精神を、しっかりと自覚的に身に着けていかなければならない…というこれ、37年の時点。

満蒙開拓が成功するか失敗するかは、この精神を日本の開拓農民が、そして青少年義勇軍の少国民たちが、身に着けていくかどうかにかかってるんだ…と言われた。で、村を作るとまず、神社を作りました。神社っていうのは、ここでは当然の事ながら、天皇の国家神道です。この満蒙開拓団の人々は、天皇の為に生きた。それが、天皇から労われて、あ〜自分が苦労のしがいがあった〜と思う。こういう生き方っていうのは、一体なんだろうか?で、この生き方が、しかも天皇の為に生きてるんではない人間たち、すなわち、現地の朝鮮人や中国人やモンゴル人や満州人。これから、あらゆるものや命を奪って、そういう生き方をして来た…ということ。しかも、もうひとつ困難な問題は、その人々は満州に行かなければ生きられなかった…ということ。こういう歴史を私たちは持っているということです。だから、農民たちは侵略の手先だったんだ、というのは、極めて簡単ですね。で、ある意味で言うと、戦後長くそういう結論がもう、当り前の常識になってたので、真実を掘り起こす事がかえってできなかった訳ですね。だけども、侵略の手先だったということで、すべて終わるとすれば、あの戦争がすべて侵略戦争だった、という当り前のことを、繰りかえし言っているだけであり、いや、あの戦争は解放の要素もあったのだ、という人の前には、たちうちできなくなってきます。だから、事実をあくまでも、もう一遍掘り起こすという事を私たち、遅れて来た人間が何度も何度ももう生存者がいなくなったあとにでも、やらなければならないだろう…こういう事をやる事によって、いやぁ、あの大東和戦争は、アジアの解放の為に戦われたんだという、滅茶滅茶な、しかし一面の真実を持っている主張を、打ち破っていかなくてはならない。解放のためだったんだ、という主張、これは、一面の真実を持っている訳です。というのは、これは東宮も、別に侵略戦争をするのが、彼の学者としての直接の目的ではなかったかもしれない。そうではなくて、満州という土地をいかに立派なとこにしていくか。その為には軍隊はどういう風な貢献ができるか、とおそらく大真面目で考えていた訳ですよね。そういう風な人々の心に切り込んで行く為の歴史のとらえ直しというのが、これからも、色んな切り口からやられなければならないだろうと思われる訳です。そういう風にしなければ、ある意味では手先に使われてしまって、現地の人から多くの物を奪ってしまった、日本の農民たち自身の歴史もやっぱり、隠されたままに終わってしまうだろうと思われます。何か、口ばっかりで、実際に手を動かして、開拓に参加したのでもない、遅れて来た世代が、しかも生きて来られた方の話なんかを、言わば悪い言葉で言えば、利用しながらこういうお話をすることに、全くためらいがない訳ではないんですけれども。あえて、寿満子さんの脅迫にのりまして(笑)今日は、こういう話をさせていただきました。時間の許す限り、討論をさせていただきたいと思います。

(寿満子)ありがとうございました。

(拍手)

みなさん、質問とかありますか?

(池田)幾つかのパンフレットを持って来ましたので、大事に扱って下さい。どうぞ、両方回しますので、中開けていただいて結構です、写真も一杯載っていますから…。

(参加者女性の声)62歳、つい先日、あの3月の末から4月にかけて、北朝鮮から飢餓で脱出してくる人たちの隠れ家をずっと訪ねて歩いたんですね。

(池田)ホォ〜。

(参加者)中国語、朝鮮語ができて、あの辺はずっと朝鮮街の形態も、中国語と朝鮮語とで、案内して下さった人が、「これから行く所は、決して日本人に良い感情を持って行ない」と、そのつもりで来て下さいと、日本にいるうちに念を押されて、ですから、今のお話の中で、トマンコウとか、その中国側に私は行って来たのですけど、逃げて来た人や、そこに住んでる人に、たくさん会って来たものですから、今のお話でとても身近に思いました。

(質問者)あの、学者、軍人が、三位一体になって、結果として、侵略戦争が実現されたという事なんですが。確かに、一面としては、アジアの解放の農民を救済するという理念もあったんで、その直接、東宮が言ってた事とか、精神性を持って、田を耕せとか、金もうけだけじゃなくて、大地に…。それだけ聞くと、非常にまっとうに聞こえるし、今の日本なんかでも、心の教育とか、自然に還れとか、同じような事を言ってるんですね。で、ある部分は確かに子どもをそのように育てれば、拝金主義よりはいいだろうと、思える様なある種の理想論がなぜ、現実の場面で、このような最も悲惨な状況を引き起こしてしまったのだろうか?言わば、発想、論理のすり替えは、どんな風に起こったのか、今を生きる私としては、非常に気になるんですが?

(池田)今のお話聞こえましたでしょうか?要するに、例えば、「土に生きる」とか「精神的な事がだいじなんだ」ただ、単にお金を儲ける為に何かを作るのではない、例えば教育の問題。今でも、そういう事が非常に重要なテーマになっているし、まともな正しい部分が沢山あるだろう。それが、なんで、侵略の実践にすり替えられてしまったのか…というメカニズムを考える事が、大事だと思うけれども、どう思うか?コメントせよと言われたんですけれども。僕はむしろ、皆さんがどう思われるんだろう?ということを、むしろお聞きしたかったんですよね。実は。ハッキリ言いますと。僕もまだ、結論は見えていません。ただ、皆さんはどう思われるか?

(寿満子)それじゃ、私は、この満蒙開拓の、NHKテレビで、またあったんですけど、『大地の子』というのがね、随分感動のドラマとされていて、観たんですけれども、一番最初の、さっきおっしゃった様に、何故こういう所に日本の子どもが満州に来ているのか?というところが、すっぽり切れていて、いきなり逃げる所から始まるんですよ。それで、イッシンていう俳優、主役の日本の若い人が、そのドラマが非常にヒットしたもんで、インタビューされている所があったんですけれども「僕はなぜこんなに日本人がいじめられているのか、いまだにわからない」と言うんですよ。結局ドラマを作っている人も、一番最初の「なぜこのような事になったのか?」という一番最初が、すっぽり抜け落ちているので、なぜ日本人がいじめられているのかばっかり、強調されていて、あのドラマは、何かほんとに日本と中国が共同で作っているというんですけれども、まったくね〜、おかしいんですよ。ソ連はすごく悪者。それで、中国の共産党も、あの毛沢東あたりは、ちょっと悪い。(笑)え〜、日本人は被害者、うん、まったくその図式なもんで、私はやっぱりその、最初の所を伝えなければ、満蒙開拓も、結局被害者という事だけで終わってしまうなと思ったんですよ。

で、今の日本の状況というのが、さっき言われた、1930年代の大不況と非常に良く似ていて、職を失っている人たちが一杯いて、で、農業も限界があって、大規模でやる人たち以外はどんどん、もう農業では生きていけないような状態になっていて、どうしたらいいんだろう?という、詰まってる状態なもんで、ここが詰まっている、アイディアがない、さぁ、どうしたらいいか?というここの所で、今の日本の事が、その当時の事と非常に似ている…この次にどこへ突破していくんだろうというのが、それが恐くてね。ヘーゲルは絶対、人間は歴史に学ばないと言ってるんですけれども、(笑)私は、少しでも歴史に学びたいと思って、あの、執拗に池田さんに、この満蒙開拓の話をしていただきたかったんです。

(会場から発言)さっき言われた、軽井沢の人たちは、天皇の一言ですべてがもう満たされ、癒されたようなことを言ってたという。僕もね、戦後昭和22年か23年、天皇が高山に来たの見たんです。僕は昭和12年生まれですからね。小学校の3年生か4年生だったんですよ。僕の所の家の裏にね、ず〜ッと並んだんです。ザ〜ッと鉄道の線路があって、で、僕も4年生かそこらだったんで、何がなんだかわからないで行った。みんな日の丸持って(笑)おやじは悪口言って、いっつも天皇の悪口言ってたんですけど、言い出した訳ですよ。戦争が終わってから。二日酔いで寝てたから「ほら!天皇が来たぞ」。「馬鹿野郎、そんなの放っとけ。見たくないわ!行くな行くな!!」と。でもちょっと見たかったから行った。ま、4年生だから、ある程度意志があって、でも僕一人だけ、ちょっと孤独なんだ。みんな手を挙げてくれてんのにね。自分だけは全然手を挙げてくれなかったのよね。しかし、あれはちょっと、信じられないなぁ。

(池田)ほんとにねぇ…。

(参加者)あれだけ、ひどいめにあって、まだ傷も治らないうちからね〜。だから天皇制が、どんな恐ろしいもんだっていう事を、もっと徹底的にやらないと。(池田)やっぱり、ほんと、そうですねぇ。天皇制の問題あると思うんだけれども、僕、えっと、今日どうしてもね、明日の朝から用事があって帰らないといけないんですが、えーと、あとでちょっと電話してみて、その会議をちょっとずらせたら、明日朝帰ればいいんで、無理かもしれないんですけど、もし話し相手になって下さる方がいたら、僕はここに今晩泊まることができれば、また、夜にでもお話したいと思うんですけれども、その前にちょっと、ひとつ、今やっぱり、山田さんが言われた事って、ものすごい大きいと思うんですよね。

(山田)学ばないと。今の若い人は、被害者としてしか…。

(池田)ずっとね、軍部が独走、暴走したという言い方でやられている訳ですよ。で、満蒙開拓団も、確かに軍人がものすごくかんでくるので、やっぱり軍部というのが表になりがちなんですね。でも、本当はつまり、ひとりひとりの農民、例えば、日本で思っていたのと、中国へ行ったみた時とね。あっ!ひとつ言うの忘れてましたが、水曲柳の人たちのね、聞き取りをして、座談会をしてもらった時、驚くべき事があったんです。

それは、こういう質問をしたことがあるんです。「皆さん、開拓団で行ったんでしょう?じゃね、皆さん水曲柳に着いた時、家も田圃もあって、青々と実った水田があって、変だと思わなかったのォ?」と。おじいさん、おばあさん達に聞いたんです。そしたら、男の人たち「え〜?!行った時あそこはどうなってたかなぁ?俺たちはだけど、開拓したよなぁ?」「うん、したー!」とか言ってる。あとで、灌漑工事とか、開拓をした記憶はあるんです。そしたら、矢沢レイさんをはじめ、おばあちゃんたちは、「何言ってるだよォ」と言うんです。つまり、「あたしゃね」って。「着いた時に変だって言ったじゃないか。あんたに」って言ってる訳。20人位で話してもらってる時、女の人たちは、変だっていうのが、圧倒的多数なの。男はみんな忘れてんです。男はね、中国語を満語って言ったんですが。満語を覚えないんですよ、男の人たちは。全部日本語で通しちゃうわけ。これについては、すごい面白い研究があって、現地の人を勝手に組織さして、自治をさして、日本に従わせる為のグループ、協和会っていうのを作る。協和会日本語というのがあったそうですね。中国語満州語というのを、一向似覚えない。買い物に行く時に、満州の人、中国の人が、やってる店ですよ。こういう事を言うんだって。「とーふ、いいやんで、少々かたいかたい、めーよー」。豆腐というのは、普通の白い豆腐。イーヤンと言うのは、一様、同様を意味する中国語、少々かたいかたい、メーヨー(没有)っていうのは、あるか?そういう事を平気で言ったんだそうですよ。何を言ってるかわからない(笑)しかも、何を買いに行ったのか、わかりますか?コンニャクを買いに行った。一緒満蒙開拓団の調査研究をしていた仲間が、満州の言語のことを研究してるんですけど。そういう風。それから、てーがダイコン、トンネル、たーたーで、ぷしんぷしん。この大根はスが一杯入っているのでダメだっていうんだって。(笑)それで通じたと思ったんでしょうね。でも女性は、井戸端会議をやったそうです。現地の、自分達が小作人として使ってる、女性達と、朝鮮語も片言、中国語も片言でっていう井戸端会議を。水曲柳の朝鮮族の人はまだ、僕の子どもの頃よく覚えてるんですが、ゴムでできた、スポンと、スリッポン方式になっている、靴があるでしょ?ああいうのを、まだ履いてますよ。水曲柳の朝鮮族の人なんかは、懐かしい姿をしているんだけど、で、勿論民族教育は保証されている訳だから。

(寿満子)それでは、あの、非常に残念なんですけれど、次のプログラムがありますから、2時から虹の村のシンポジウムドームで「平和と人権」のお話があります。夜、山田征さんの持って来られた「教えられなかった戦争シリーズ」ビデオの会ウーマンテントですけど、男の人も是非参加してください。

(参加者)昭和8年、1933年生まれは、満州台湾なんですけど。父親が満鉄の関係で、一家の私の記憶は2歳半くらいから、いわゆる東北の兵隊さんたちが、マンジン、朝鮮、日本人、私自身は子どもの頃の意識としては、勿論差別はないんですね。ないけれども、敗戦になった時、それまで毎日の様に天皇陛下の写真を拝まされていた私たちが、敗戦と同時に、写真を捨てさせられるわけ。中国人にね。そして、お前、日本人はこれを足で踏め!と言われる訳ですよ。そうすると、私は敗戦当時、旧制中学の一年で、あと2〜3年したら、予科練に行って、天皇陛下の為に。つまり、教育の恐さっていうのがある訳だし。今のお話、日本人として、*日の魂(ヒノタマ)だとか、国家というのが出て来た時に、その怖さというのが、絶対あるだろうという気はします。それが、ある日突然、天皇の一家なり、その国を護る為、天皇制の為に、軍隊はバラバラに。子ども心に、絶対にいや。その時に、中国人の大人が来て、多分殴られるんだろうなっと。そうすると、その大人が中国人のショウハイに「この日本人のショウハイには罪はないんだ。悪いのは軍隊だ。日本人と中国人は仲良くしなければならない。なのに、お前のした事は間違っている」。

それが私の心にもずっとあるんですが。彼らの心の深さ。但し、君ら日本人に罪はないけれども、悪いのは政府とか、軍隊だけれども、私たちが招いたお客さんではないんだよ」と。言ってるんですね。小さい時から、兵隊さん達が、広い家に来て、昭和12〜3年、それほどまだ悲愴な感じではなくって、芸者さんたちをあげて、楽しくやる、御国の為に。満州の満鉄の総裁とか、子供心に覚えています。日本の軍隊の中に小学校がありました。それからやがて、北京に行って、敗戦ということになるんです。天皇制、人間の価値観ですが、それまで絶対視されてきたものが、日本の軍隊が守ってくれる、ある日突然変わる、持てるだけの荷物持って、日本に帰って来る時は、一家でぞろぞろと、乞食みたいな格好をして、翌年の五月に引き上げて来て、佐世保から小倉に住み着いて、買い出し、かつぎ屋をやって、学校は行けなかった。その時に、国とか国家はあてにならん、信じるのは自分とか財産、今の意識にあるから、「人権110番」というのをやっているというのがある訳で。御上とか、絶対的な権力、つまり人間が人間を支配する…オームの人たちもそうなんですが。

オームの人の相談も住民票の不受理、一切拒否はおかしいから、彼らの相談なんかものったりしてるんですけれども、生きた麻原彰晃をなんで…。口移しに誰も生きて来ないような事を、これは公明党にしてもね、共産党にしてもね、絶対的に自分が正しいがお前が正しくないというような排除の理論と言いますかね。大義名分があります。言葉では、正義というのはあります。絶対的な真理や正義はありえない。真善美っという、人間の哲学の世界のなかで、人間の見方によって、どうでも違って来ます。国家による最大の犯罪が戦争である。もうひとつはえん罪です。自分自身がえん罪体験した事からきていますとね。伝えるのが義務だろうと。池田さん、仲間のひとりという意識はあるんですけれども、生きてる限りはやろう。それと、今日のこのお祭りの中でもね、12年前の1988年八ヶ岳の「いのちの祭り」の時に、ぽんさんとも知り合って、参加している。企画も顔ぶれも変わって来てるな〜と、思いながらも、持続すること、大事だなぁと思いました。

----------完-----

いのちのフォーラム 8/4「満蒙開拓団と長野県;いまだ語り明かされていない日本現近代史」
講師;池田浩士さん(京大教授) コーディネイト;田村寿満子


祭りHPin アマナクニ企画案内参加要綱データページいのちの祭りHPアマナクニHP