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カルマの総決算?

合原 弘子


 このごろは「信じられないような犯罪」というのが連発している感じがありますが、個人的にも、けっこう突発的にさまざまな事件が続いています。そしてなぜか知人にも、そういったことが見聞きされます。こういうなかで、つい、精神世界オタク?としては、「カルマの総決算」という言葉を思ってしまったりします。
 つまり……今までは、ある程度の安定があったパターンみたいなものが崩れている感じというのでしょうか。ネガティブなものも、今までは、ある枠のなかで収まっていたのに、それを押さえきれなくなった感じ。

 根底的な枠組みが壊れている、という感じが、実は「保守系の人たち」を動かしている深いところでの直観でもあるように思います。今までは考えられなかった残酷さや、強欲さみたいなものが噴出する事件を見て、おそらく彼らは、枠組みを強力に作り直さなくてはと考えているのだと思います。そして、その根底にあるのは恐れ。おそらくは自分自身についても恐れているはずで、その恐れを見ないようにするために、外側に「敵」を設定しているように感じるのです。
 たとえば、12歳の子どもが4歳の子どもを殺した事件の際に、「親を市中引き回しにすべきだ」といった政治家の発言に、多くの人が賛成したという話がありました。加害者になった子どもは、犯罪者というよりは病気だとわたしは思うのですが、「保守系の人たち」は、あの子どもは犯罪者だ、としたいのだと思います。というのは、もし彼を病人としてとらえてしまうと、巷にあふれるたくさんの犯罪者も「病人」ということになる。そしてその病は当の自分も侵している、ということを無意識のうちにわかっているのだと思うのです。そして、もしそれらが病気だとしてしまうと、もう対処できないと感じている。あまりに根本的で、蔓延しているものなので。だから、あの子は犯罪者だ。としたいのだと思うのです。
 わたし自身は、巷にあふれるたくさんの犯罪者たちも病気なのだと思います。そして、その病気は自分も侵していると思います。つまり……これだけ自然を破壊してきたこの文明のなかで、人間が病気にならないはずがないと思うのです。自然を破壊するということは、生物を支えるベーシックな枠組みのようなものを破壊するということでもあります。自然を破壊するとき、人間の心が破壊されないはずがないのです。
 
 世紀末とか終末予言とかいったものに、わたしは昔から引きずられるところがありました。十代から二十代はじめのころは特に顕著で、世界がさまざまな形で滅亡する夢をシリーズで見たりしていました。核戦争で滅びるとか。最終戦争後、荒廃した世界を避けて地中に住む人々とか。ときどき古代の優れた技術の遺跡があるが基本的には原始的な文明に戻っている世界とか……そういった感覚やイメージは映画やSFにもよく出てくるので、私だけではなく、この時代に生きる人たちの多くに共通したものなのではないかと思います。
 私は基本的にそこから抜け出したと思うのですが、そのきっかけとなったのは、子どもを生んだことだったと思います。子どもは生まれつきのエネルギーを持っているので、子育てのなかでそれをもらったことが大きいのだと思います。よく覚えているのは、以前は「人間が滅びるのは人間が愚かなのだから仕方がない」と思っていたのですが、子どもが生まれてからは、「冗談じゃない。わが子を殺されてたまるものか」と思ったんですね。子どもは純粋に生命エネルギーを持った存在で、しかもその存在が全面的に自分を頼ってくるときに、「この子を死なせてはならない!」という思いが出てきたんですね。「滅亡」に対抗できるのは、そういう、動物が持っているようなシンプルな生命エネルギーなのだろうと思います。
 しかし悲しいことに、子どもが持っているそのシンプルなエネルギーを、そのまま保つことは難しい。大人へと育っていくなかで、そのエネルギーが歪んでいってしまうことが非常に多いわけですね。そして、歪みがあっても、天から与えられたエネルギーが残っている間は問題として顕在化しない。しかしエネルギーが尽きるときに一挙に、それまでに隠れていた問題が噴出する。思春期にはそんな感じがあるのですが、ちょうど現代は、人間全体もそんな状況にあるように感じます。「天という源泉から切れる」時期に、「ネガティブさ」に傾斜していくような感じですね。
 そういうとき、外側から与えられるような形のエネルギーに「頼る」ことはたぶん、もうできないんでしょうね。自分のなかにある、子どもや動物と共通するような生命エネルギーを、いったんネガティブさのなかに落ちたなかから、「自分で」回復させないといけないのでしょう。その回復の仕方はそれぞれ違うでしょうし、簡単なことではないと思いますが、少なくとも、その存在を信じ、その方向を目指すことが必要なのだと思います。
 そしてたぶんその回復には、「カルマを超える」ということが必要なのだろうと思います。つまり、自分のエネルギーを歪めてきたパターンがあるはずなので、そのパターンを認識して、バランスを取り戻そうとすること。そのためには、自分の身の回りで起こる事がらや事件ひとつひとつを大切にすることが必要なのではないでしょうか。
 問題が起こった時は、どうしても他者を攻撃・否定したくなります。あるいは、他者を攻撃できないときは自分を攻撃・否定したくなります。しかし、必要なのはたぶん、「認識」なのだろうと思います。自分のなかにある根底的なエネルギーを信じるという意味で自分を信頼しながら、同時に、自分を客観的に見、自分のパターンを意識化できるようになることが、カルマを超えるプロセスのひとつなのではないかなと思っています。
 おそらく、「天という源泉から切れる」時期や、「ネガティブさ」自体が持つ「意味」がわかる時が、いつか来るのだと思います。わたしたちがより深い認識を得て、より大きな存在になれるとき、その意味がわかるのだろうと思うのです。そういう時を目指して、自分が直面する問題に丁寧に対応していきたいと思います。



No.120=2003年9・10月号

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