amanakuni Home Page | なまえのない新聞ハーブ&アロマテラピー | 八丈島の部屋

HOT NEWS

いのちの祭りから、世界聖なる音楽祭へ

(レポート:澤村浩行)


 6月1日より3日間、広島市に近い宮島の、厳島神社で催された「世界聖なる音楽祭」で隠れセキュリティみたいなお役目と、その後の片づけをしました。ダライ・ラマ14世提唱の、癒しの音楽を主とした音楽家と、その音楽を機に「平和・理解・調和」を発信しようとする人々の集いでした。

 鈍行を乗り継いで二日目の昼過ぎ、JR宮島口よりフェリーで10分程の、かつて聖なる島として、人の住む事が禁じられていた宮島に到着。幸運にも、梅雨時の雨は晴れ上がっています。周囲30キロメートル程の島は、今もって異界の気濃厚で、島人が亡くなると、葬式は本土で行われるとのこと。鹿があちこちを徘徊している。島中が、神社の境内のような、しめやかさが漂っていました。60歳に近くなってから、そんな日本の伝統が自然界を司るおおいなる精神に基づいているように感じられてきました。
 フェリーから見た海中に立つ巨大な鳥居の方向に歩くと、向こうから、胸に?マークを逆さにしたみたいな祭りのシンボルマークをデザインした黄色いTシャツを着たオチさんと逢いました。レゲエスプラッシュやレイブコンサートを次々と催してきた人が、今は癒しの音をプロデュースしています。時代の感性を増幅させるお役目が再び廻ってきたようです。

 神社に祈ってから、鳥居の横に特設されたスタッフテントに行くと、日本を毎年訪れ、また、若い日本人もインドに訪れる、吟遊詩人バウルの一行が、そこで演奏していました。まったくこの人達は、駅で路上でも、自然の中でも、どこでも、気を感じると唄い、演奏し、踊るのです。私も、一昨年にインドで出逢ってから、その気さくな自由さ、厳しい瞑想状態で伝える人生の深い意味に打たれて、私の生き方を考えさせられてきたのです。実は彼等の付き人、若い日本人のナベ君は、長年バウルと住み、ベンガル語も達者となり、彼等と一緒に来日したのです。90年六ヶ所村のいのちの祭りで逢ったばかりの時の彼は、まだ高卒ほやほやの、行方定まらないフリーターだったのが、今やすっかり落ち着いて、音楽と旅と、自然生活を通じて慈悲の心を実践しようとしています。その場には、大鹿村の年長組アキさんも居合わせて、「いのちの祭り」をきっかけに続いた人のつながりをありがたく感じさせられました。

 それにしても、海上の舞台と客席は見事にパイプを組み合わせた上に、百メートル四方はある大きさ。これだけに2千5百万円がかかったとのこと。主催者の電気トランペットの世界的奏者近藤等則さん自身の投資と、数人の有力なスポンサーによって、私達の普段行う祭りとは桁違いの金が注がれた祭りです。事実、招待された音楽家も、チベットの宗教音楽と仮面ダンス、インドの二つの心を唄うグループ、オーストラリア北部からの素朴なアボリジニ、バリ島のガメランと踊り、モロッコの有名な癒しのシャーマン一行のグナワ、ラオス、それに現代国からジャー・ウォーブル、ビル・ラズウェル、イマニ、日本からネネ、古沢、大松、天外、伊藤等の癒し系と豪華な顔ぶれ。ガメラン一行だけでも8百万はかかったというからには、総額は気が遠くなる程でしょう。

 入場料も三日で3万5千円。この金の単位のすさまじさが、私が最後まで参加を迷い、参加してからも迷い続けた主な要因でした。それでも、3百人程集まったボランティアは、5月20日よりキャンプ場に寝泊まりしながら雨の中の準備を継続し、6月1日の午後6時、ついにメインステージに音が立つと、「やった」と大喜び。中には、会社を休んでまで来たという若者も多く、これまでのロックミュージシャンとフリーター主体の祭りとは違った流れが入ってました。

 昨年のいのちの祭りに、メキシコ先住民族のシャーマン一行と訪れた大阪のディアブラブランカ・グループの若者達も、桟橋前のサブステージや、大元公園のフリープレイ運営し更なる発展途上です。精神音楽の演奏には、最適な空間を持つ、秀吉が建てたという清水寺を小さくしたような、眺め良い高台に建つ大畳閣のコンサートは、ネネによって口火が切られ、彼女を主に運営されました。その他にも密教寺院、大聖院も、日本人を主にコンサートが続き、まさに島の主要部分は音楽に占拠されたみたいな3日間。

 島の守護神は、貴族の流れ継いだ平家一族のたてまつった毘沙門天。ヒンドゥーの芸術の神、サラソワティです。当然、昔から音楽になじんだ聖地ですが、近年は特に、それまで主だったスポンサーの宮島口競艇のテラ銭が不景気で減り、また巡礼も少なくなった為に、客集めとしてひんぱんに催し物をしています。私が鳥居前で会った、高校生の娘を連れた広島の主婦らしき人も、友人と即興歌劇を、大畳閣でやり、以来、毎月一回お参りに来るとのこと。宗教と文化が、一体となったものであることを感じさせられる聖地です。

 メインステージの始まりは、真言密教とラマ教のマントラ。そして広島原爆の火が舞台両脇の燭台に点火されると、音楽家全員のセッション。晴れたというのに、客の入りは海上ステージ半分程の、千人か。黄色のTシャツのボランティアが目立つ祭りとなりました。音はすさまじく良い機器を使って、入場しなくとも充分に近くの海辺から楽しめるので、参拝に来た人たちも、辺りに座り込んでいました。音響を扱うのは、オノさんアサダさん、セイカさん、アキラさん等の、テクノやいのちの祭り等のスタッフ。黙々といつものよに、です。ステージのパイプ組みはドラゴンさん、撮影は広島のアキラさんと、これもいつものように、です。

 メインステージをチェックしてから、神社と街を歩きました。古き良き京都を想わせる土産物通りの人たちは「あの黄色のTシャツについたマークは何ですか?」が話題となっており、長髪やドレッドの目立つ若者の群れが突如出現した事への不安には「決して怪しい者ではありません」と笑って答えるだけでした。そう言えば、一昨年阿蘇で、九州の若者達が開いた「旅人の祭り」で、遠路参加したインドのバウルが「この祭りに土地の人はどうして来ないの?」と聞いた事があります。彼等の祭りの参加者は、ほとんどが地元民。日本の世代の差、地域の差、趣向の差、職業や地位の差が、人をひとりの人間として見ずに、互いの差に戸惑うか、無関心となる原因となっているようです。

 スタッフ用の10人は入れる大型のキャンバステントに寝袋を広げたのですが、とたんに隙間から侵入した鹿に、食物と本を食われてしまった。キャンプ場ではタフガイのクルスさんが若者の人気者となって、いのちの祭りの流れを伝えていました。

 翌朝7時からスタッフ・ミーティング。朝食の後、ワッと若者達はシャトルバスに乗り込み、現場に直行。私は裏山の尾根道を40分ほど歩いて会場へ。自然のままの国有林は、町の景観条例に守られて、自然のままの照葉樹と落葉樹が混ざりあう。デリケートな日本の美に酔ったまま、まずは厳島神社に参拝。自然木をそのまま立てた柱に支えられただけで、根本は海底に差し込まれていなくとも、台風等にもびくともしない海上の大きな鳥居に向かって頭を下げました。ところが、そこから対岸を見ると、鳥居の中央に、異様に大きなアーチ型の建物がはまっているのです。まさに目のトゲ。

 しらけたまま、神社受け付けの人に問うと、福岡市に本部のある新興宗教の建物だということでした。どうも納得いかないので、街で出会った神主姿の、4名に立て続け質問すると、その宗教の教祖にお告げがあって、厳島神社本殿と鳥居を結ぶ直線の延長線上に、計画して建てられたとのこと。世界遺産に指定され、外人観光客も多く訪れるというのに、「これは日本の恥だ」と町役場に行って尋ねてみました。土曜日で役所は休みでしたが、宿直の管理職らしい人が、30分間ほど説明してくれたところによると、宮島町は景観条例でネオンサインも禁止しているのに、対岸の大野町には条例がない上に、背後の山は私有地なので、宮島がよく見える景色を売り物にしたマンションや、その新興宗教の寺等が次々と建てられたとのこと。そして景観条例というのは、県単位、国単位では存在していないことが判りました。そして、宮島役場は大野町役場と共通の景観条例を作る意図ののないことも。「これも参拝人減少の理由の遠因ではないでしょうか」と、参拝人のひとりとして意見を言うと、「町民にも参拝人にも、とても不評なんですが」との答え。これじゃあ、公務員リストラも近いのではないでしょうか。

 外人の祭りスタッフとその話をしたら、「私も気になっていたんだ。あのスタイルは、韓国のキリスト教系セクトの一派だろう」と意味ありげな表情。それで、ハッと思い当たりました。日本が韓国を35年間植民地としていた時に、朝鮮人を強制的に国家神道に改宗させたが、キリスト教徒だけは「神がお許しにならないから」と、改宗を拒み、多くの犠牲者を出した歴史的事実です。もしかしたら、あの建物は、その歴史を思い出させる為ではないのか、と。

 土曜日のせいか、前日のテレビ放映のせいか、客足は伸び、2千人は越えている。一般人大人が目立つ、落ち着いた祭りとなりました。私はエチオピアの女性ギギの圧倒する声、モロッコの有名な音楽による治療師グループ、グナワに魂を揺さぶられました。グナワは、時には3日間、その片手に持つ10個ほどの小さなシンバルのついた楽器でリズムを続けながら、歌い踊り続け、病人を癒すという。モロッコ国王にも招かれることのあるバンドのリーダーは黒人系。揺れながら弦楽器を中央で弾く。その暖かい人柄が私に沁み渡ってきました。彼に魅された白人も何名か追っかけで来ていましたが、もう白人の観念を越えた世界共通のハートフルな人達でした。

 メインステージを海の向こうに見晴らす岬では、麻の産業化運動をしているタカシのグループが展示をしていたので訪れると、海岸で弁当をつついている黒人女性がいました。(多分モロッコからの出稼ぎの人が、故国のバンドが出演するというので来たけれど、入場料が高すぎるのでここで聞いているのか)と、気さくな世間話をしていた時です。上空をテレビ局がチャーターしたらしいヘリコプターが旋回し始めました。とたんに、彼女は極端に緊張して、「お願いがあるのですが。実は私は明日出演するニューヨークのイマニという者ですが、私の音楽はとてもセンシティブなので、演奏中にヘリコプターが飛んだら、私は壊れてしまいます。ぜひ、そんなことのないように、本部に頼んでくれませんか」。私はすぐに本部に行き、部隊演出担当に会いました。空撮はその日だけとのことを確認して、彼女に報告したのですが、精神音楽のコンサートでは、空撮の取材は事前に差し障りのない時間を予約してやらせるべきだと痛感した次第。

 その夜、キャンプ場のボランティアはごっそり近くの海岸に移り、パーティです。あちこちに流木を集めた火が立ち、若者達は徹夜した様でしたが、なんのその。翌日の最終日も朝7時よりフル稼動。それでも、誰も疲れた表情をしていないのは、癒しの音楽のたまものでしょうか。若い情熱でしょうか。

 最終日の午後、私は千畳閣で、バウルの切々とした唄に、顔がツルツルになるほど涙していました。お付きのナベ君が歌詞を訳してくれたのも輪をかけて。「私はサドゥー、放浪の行者となったのですが、これで良かったのでしょうか。貴方に、本当に人生を捧げているのでしょうか」と神に問う唄でした。夜のメインステージでは、イマニの唄うニューヨークの黒人のスピリットが皆を包んでくれました。そしてフィナーレの真言密教のマントラを、メインステージの一番海側で聞いたのですが、最初の数分間のマイクを使っていなかった間、声も聞こえない距離だというのに、とたんにすべてが静まって、海と山の双方が盛り上がり、私達を包んだような不思議な体験をさせて頂きました。その十数人の真言宗僧侶の中心には、まだ若くとも、芸術家に慕われているという小柄な宮島さん。稀しくもこの島と同じ名の僧は、チベット密教の修行もしている方です。
 ネネが「山のお父さん、海のお母さん」に呼びかけたのも、ボランティアが舞台に勢ぞろいして皆から感謝の拍手を浴びたのも、祭りの終幕にふさわしい、日本から世界に送る、新世紀のバイブレーションの発揚となりました。主催者の近藤さんが、初めて演奏以外の場で、感性を露として皆の共感を呼び、その余韻のままに、観客は引き揚げていきました。近く公開されるDVDが楽しみです。

 そして、その夜のキャンプ場には、バウルが巨木の下で、グナワが火の廻りで、ボランティアに向けた癒しのセッションが続きました。いつもの夜ならば、朝まで打たれ続けた若者達のジャンべ・ドラムも音を秘そめ、ただ、遠くから来てくれた成熟しながらも新鮮な音と踊りと大いなる精神に浸る、彼等の故郷で催される癒しの儀式そのものの、深い体験をさせて貰いました。ボランティア、つまり「与えることは、与えられる」ことである事を感じた長い夜でした。
 そして、キャンプ地のコミュニティは、キャンプファイアーに調理場を移し、嗅ぎつけて押しかけた鹿の群れを警戒しながら継続されました。その間に、皆で「みせん」という島の最高峰、海抜5百メートルの聖山に登ったり、海岸で泳いだりもしました。ともかく半月近く、分断化された日本では、貴重な心の交流をしました。その体験が日常生活や、社会の動きに何らかの影響を与えるでしょうか。堂々と世界に向かって、広島原爆のメッセージと共に伝えていけるでしょうか?最後の一週間に、宮島町の人達に聞いた印象を伝えます。

 「最初は異様な格好に驚いたけど、みんな心のきれいな若者達で、若返ったよ」と、老齢化する地域社会を気にしている老人。?れだけの人が来て、ケンカひとつ見なかったのは、他の団体とまったく違う。ま
たやって下さい」と、ラーメン屋で働いていた若い女性。「この次はもっとこの町との協力体制を作ってやりましょう」と、その店の中年の男性客。「私共としましては、商売繁昌。結構なことでした」と、街の数少ない食品屋。

 祭りは結局大赤字の結果となったようだけれど、設営に従事したボランティアには、日給5千円が払われました。最後まで居残った、旅に生きる街売り族には、これより沖縄方面に向かう資金となったようです。私には世代間の交流が最大の収穫でした。

 祭りのパンフレットに、ダライ・ラマからの19条のメッセージが載っています。その一条に、「大いなる愛と、大いなる目標の達成には、大いなる危険が伴う事を忘れてはならない」とあります。近藤さん始め、スタッフ、ボランティアはその道へ大きく踏み込みました。大赤字の危険を負ったが、第2条に「失敗をした時は、失敗から学びなさい」とある。そして、人間も自然も、大いなる精神も、金より強いのだ。この先には、千条閣とキャンプ場だけのステージで、少ないバンドをじっくり味わう可能性も見えています。

 たぶん近藤さんは「今の世界の開けた音楽」はどのようなものかをドンとまとめて、日本の若者に聞かせたかったのだと思います。その目的は、充分果たされました。ビル・ラズウェルの多国籍バンド、ジャー・ウォーブルの成熟したパンク系は、近藤さんの未来に突き抜けるような勢いのセッションと共に、まざまざと、世界と日本を告げてくれました。そして、音楽がいかに精神性と繋がっているかも。
 扉が開かれた今、次のアクションは、次の世代に任されると思います。

 私達が祭りの後に滞在していたキャンプ場で、6月8日の池田小学校事件を知りました。若者の一人がひどく落ち込んで、皆とコミュニケートできなくなりました。どこにも居場所がないみたいに、海辺に座り込むばかりです。フランス人の太っ腹おばさんと私が、カキ拾いにさそって、一緒に焼いて食いました。彼の顔色は沈んだままだったけれど、砂浜を歩き、海に足を入れ、木を集め、火を起こして食う作業を一緒にやることで、ひとりだけの思い込みからは抜け出たようです。

 祭りの呼びかけに「感じあう、つながり合う、分かちあう。新世紀のバイブレーション」とありました。それが、本当の豊かさにつながると思います。今、社会の話題は、景気回復ばかりですが、本当に必要なのは、身近の生活に美が甦ることではないでしょうか。自然環境が甦り、人間関係が甦り、ひとりひとりが表現したり味わいながら、文化が創造されている状況が、豊かなことであると思っています。それが、チームワークとなって、波を起こすと信じたい。

 ささやかでも構わない。自分だけに閉じこもらないで、マスメディアやコマーシャルに踊らされるだけでなく、自身の表現をすることが、時代を開くことにつながるのではないでしょうか。

 だから、私もつたない文章を書き連ねました。君とも知恵と美と心を分かちあいたいと思っています。お互いに成長しましょう。そして、幸せとは何であるのかを、形にしていきましょう。

                        2001年7月2日
                                      
       澤村浩行

*ダライ・ラマからのメッセージ

新しい世紀の始まりにあたって、ダライ・ラマからのメッセージを伝えます。ダライ・
ラマから届いた21世紀を生きるためのメッセージは次の通りです。

1)大いなる愛と大いなる目的の達成には、大いなる危険が伴う事を忘れてはならな
い。
2)失敗をした時はその失敗から学びなさい。
3)3つのRの法則に従いなさい。
  ・respect for self :自分自身を尊重しなさい。
  ・respect for others :他の人々を尊重しなさい。
  ・responsibility for all your actions :あなたの行動全てに責任を持ちなさ
い。
4)自分の欲しいものが手に入らないという事は、素晴らしい幸運の場合もある事を
忘れてはならない。
5)決まりについて学びなさい。そうすれば決まりを破る方法を見出せるだろう。
6)ちょっとした意見の食い違いで、友情を傷つけてはならない。
7)間違いを犯した事に気づいたら、すぐに正しいやり方でやりなおしなさい。
8)一日一回、自分一人で過ごす時間を持ちなさい。
9)自分を変えることを恐れてはならない、が、自分自身の価値を見失ってはならな
い。
10)時には沈黙が最上の答えの場合もあることを忘れてはならない。
11)よい人生、誇りある人生をあゆみなさい。そうすれば、振り返った時人生をも
う一度楽しむことができる。
12)温かく愛に満ちた家庭は人生の基盤である。
13)愛する人と仲違いに陥った時は決して過去を持ち出してはならない。今、ここ
での問題解決に勤めなさい。
14)知恵を分かち合いなさい。そうすれば不死の世界を見い出すことができるだろ
う。
15)地球に優しい生き方を選びなさい。
16)一年に一回、これまでおとずれたことのない所を訪ねなさい。
17)最高の人間関係とは、あなたが人に期待するものより、その人への愛の大きさ
が勝る時に実現するものだということを忘れてはならない。
18)成功とは達成するために諦めたこと、失ったものによって評価するものである。
19)愛することと料理にはわき目をふらない情熱を持って臨みなさい。

HOT NEWS

amanakuni Home Page