安心して産める場所


92年に妊娠8ヶ月で思い立って渡米したのは、おなかに宿っていた子を産む自分たちの場所を探すため。2週間後にたどり着いたその山は、美しい夕陽で私達を迎えてくれた。


 

山に来て最初の冬


 広大な山の端に、茜色のグラデーション。あの日の夕方、連れ合いと私は北カリフォルニアはエルクバレー、サンフランシスコから車で北へ四時間の人里離れた山のふところの草原に、座っていた。胸に広がる安堵の気持ち。刻々と移り変わる美しい夕陽、谷をわたる風、無音にも思われた静けさに、忘れかけた感覚がよみがえってくるようだった。
 「この場所なら産めそうな気がする」
 半年以上待ち続けた心の声を、その時、聞いた。
 九二年の一一月、私たちは渡米した。私は既に妊娠八カ月になっていた。九月頃までは、長野で家を探していた。けれど、私たちが望んでいた“心から安らげる山のふところで自宅出産し、子育てと音楽活動を始めたい”といったイメージを、最終的に納得させてくれる場所とは巡り合えず、思い立って渡米した。知人のつてで、人里離れた山の中に、貸しもらえる家があると聞き、その日初めて訪れたものの夕陽を見るまでは、旅の疲れと先の知れない不安で一杯だったのだ。
 九〇年、私は連れ合いと出会った。その頃、私は東京で自由を満喫していた。幾種もの仕事をかけ持ちしながら、自作の歌をライヴハウス等で歌っていた。「歌と暮らしは、ひとつのものだ」というのが、連れ合いの私へのメッセージで、私もしだいに、歌に専念するとともに、田舎暮らしを志向するようになった。最初の男の子も次の男の子も、当初の望みどおり、山の自宅で医療の手を借りず、連れ合いがとりあげた。マキストーブひとつ満足に燃やせなかった私だが、七年たった今、静けさに満ちた、手作りのシンプルな山の暮らしを、大いに楽しんでいる。英語もろくにしゃべれず、赤ちゃんのあやし方もわからなかった新米の私を支えたのは、田舎暮らしに精通した連れ合いの存在と、その時々に、私を励ますように生まれた歌たち、そして、愚痴さえも受け入れ、包み込み、清めてくれた山そのものだった。
 週末になると、私たちは、ふもとの田舎街で、自作の歌を歌っている。異国の土地で私たちは、子どもと共に再び生まれ、根をはやし、ささやかな花を咲かせている。


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