キャラバン・オン・ザ・ロード(その4)
(1978〜1985)


 連載に当たって、紹介するのは私の旅のごく一部、75年から77年の3年間に限定したと言っておきながら、時代は既に78年に突入してしまった。ここまで来たら中途半端に区切ることはできない。78年という年は、私にとってとてつもなく重要で、大きな転機となった1年となった。そして時代は80年代を迎え、私自身も東神楽の家に腰を落ちつけて、文字通り再出発―スターティング・オーバーの季節に入った。そうして、私のこの地での生活と試みは、84年いっぱいまで続いた―。

ロックンロール・ゲームズ

 その年、旭川に移り住んだ私に、何通ものS子からの長い手紙が届いた。彼女は、精神の方も徐々に回復しているように思われた。しかし、8月を最後にS子からの音信はぷっつりと途絶え、何度、彼女の寄宿先に手紙を送っても反応がなかった。たまりかねた私は、78年の11月に何としてもS子に会おうと、再び上京する。一刻も早く東京に着きたいと、苫小牧〜東京港直行のフェリーを使った。

 測量の仕事はお盆の頃までに一旦、上がり、9月いっぱいにかけては、私は恒例の旅のように、一人リュックとテントを背負って、ヒッチハイクで利尻岳、雌阿寒岳、屈斜呂湖・藻琴山、斜里岳等の山々を訪ね、歩き回っていた。そうして、深い自然の中に身を置いていても、心はいつもS子を想い、呼び続けていた。
 10月の半ばに、東神楽の街中に、家賃月五千円のボロい一軒家を借りて、独り住まいの居を構えた。それから測量の仕事を再び一ヵ月ほど勤め、当面の生活費と旅費を稼ぎ、11月下旬、愛する人に会うために、東京直行のフェリーで、この年2度目の上京を敢行したのだ。

 東京に着いて、S子をよく知る入間に住む友人夫婦を頼り、今は東京・王子の実家にいるというS子のところに思い切って電話をかけた。父親が出て、とりつくシマもなく、二度と電話をかけてくるなと門前払いされた。これで当面は、S子にアプローチすることもできなくなった。ケータイなどない、固定電話だけの時代だ。ただそれだけのことだったが、私は外に飛び出して、声を上げて泣いた。心が砕けて、もう何も考えられなかった。

 そんな有様で、一時はどん底まで落ち込んで、眼の前が真っ暗だった私は、あるバンドの連中との出会いを機に、奇跡のようなブレイクスルーを得た。
 12月の冬至の頃だった。狭山の青少年会館で練習している彼らを覗きに行った時、勧められるまま、そこでドラムを叩いたことで、私の中で何かが底が抜けるように、堰を切ったように爆発した。これで死にたくなるほどの落ち込みと鬱は、魔法のように吹っ飛んでいた。

 そうして78年クリスマスの初ライブを手始めに、私はフラワートップというロックバンドでドラムスを担当し、それから1年半の間、断続的にステージ活動に参加することになった。ギターは以前から弾いていたし、バンドをやってる仲間もいたが、自分がその一員としてステージに立ったことはなかった。ましてやドラムスなんて、素人のようなものだった。それが、そそのかされたとはいえ、我ながら大それたことに飛び込んだものだった。ロックバンドの要、ステージでいえば扇の中心に当たるドラムスを自分が担当しようなんて。
 運命の悪戯か、必然なのか、私はフラワートップというバンドの仲間と、その音楽―ロックのビートによって、恋の地獄と失意の底からジャンプし、救われた。大げさでなく、その時、本当にそう思った。執着と苦しさが嘘のように消え、心が洗われたように軽くなった。その時、私を救い、甦らせたのは、ロックの生の音とビート、そしてその熱く夢のある歌だった。

 フラワートップは、アンダーグラウンド・ロックの吟遊詩人、イフ(梶田重吉)を中心として発足したばかりのバンドだった。ドラムスのメンバーだけ欠けていたが、そこへ奇しくも飛び込んできたのが私だった。
 ボーカル&ギターのイフ、サイドギターのガク、ベースギターのモウフ。ガクとモウフの2人は、以前から見知っていた。イフとガクは、最近、インドの旅から帰ってきたばかりで、その余韻とハイを、バンドの音楽で炸裂させていた。

 畏友イフに敬意を表し、フラワートップの十八番の曲であり、私自身、今も一人で歌わせてもらっている大好きな曲、「風を変えなけりゃ(心の地図を頼りに)」の一節を紹介したい。私は、この曲に出会って、生きる勇気をもらったのだ。

 風を変えなけりゃ おしまいさ 何もかも
 まだ生きてるつもりでいたいなら
 目の前の明るいうちに
  歩きはじめるよ 心の地図を頼りに
  いつもお天道様と 追って 追われて

 今日が曇りでも あしたのことは分からない
 夢や希望の ない人に
 なりたくないから
  歩きはじめるよ 心の地図を頼りに
  いつもお天道様と 追って 追われて

 私がフラワートップでドラムスを担当した活動期間は、79年いっぱいと80年の4月まで続いた。その間、北海道・東神楽と埼玉を何度も往復するサイクルを続けた。
 フラワートップの活動エリアは、主に埼玉や東京だった。瑞穂町、R16沿いにそのアジトがあった。いくつかのライブハウス、大学、野外コンサート、祭り…。同時期、デビューし、現在まで続く「ひのこバンド」は、普段からよく知る仲間だったが、同じ頃、わずか1年弱の間、徒花のように狂い咲いた、フラワートップというパンクでサイケなバンドがいたことを覚えている人は、今もいるだろうか。

 フラワートップとの蜜月期間は、私がドラムスを務めた最後のステージとなった80年4月の「飯能河原春祭り」の野外コンサートを、最期の花として終わった。
 私のドラマーとしての実力は、バンドでプロを目指すなら、及第点には遠いということも事実だった。

再 出 発

 かくして私は、80年4月末には北海道・東神楽の自宅に帰り、あらためて腰を落ち着けて、この地での生活を再開した。家の窓からは残雪を頂いた大雪山の峰々が見え、一人こうしていると、つい昨日までの東京近辺でのバンド活動など、夕べ見た夢のように思えた。それはまさに一時の“ロック・ドリーム”というにふさわしいものだった。
 この時から、私の旭川の地でのサイクルが、再びスタートした。仕事は、遺跡発掘調査の臨時職員、教材印刷会社、喫茶店のカウンターと変転し、81年の11月には、東神楽から旭川市内のアパートに引っ越した。

 そしてバイクという乗物―相棒を得たことによる新たな旅も、原付免許を取って、初めてバイクというエンジン付きの乗物を走らせた1980年の夏から始まった。
 バイクに興味を持ったのは、仲間のヤスが250ccのオフロードバイクを乗り回すオートバイフリークで、それに刺激され、理屈抜きに惹かれたこともきっかけだった。自分もあんなバイクに乗りたい、走りたいと、強く思った。

 50ccバイクからステップ・アップして83年には中型二輪免許を得、250ccのオフロード・バイクのオーナーとなって、バイクとツーリングに熱中する10年が始まった。
 オートバイの自由さと、そのパワーは、思うがまま、行きたいところに行くという旅をするには最高のものだった。そのバイク―スズキDR250Sで、北海道のいたるところ―道北日本海沿岸、道東、オホーツク一帯、道央一帯、日高、十勝、大雪山山麓一帯、そして林道、原野、海岸…を走り回った。

 バイクで空間に身を晒して走る、時空間を旅する感覚は、雨風、陽射しを受けて路上を歩く徒歩とヒッチハイクの旅の感触と、どこか似ている。
 しかし、バイクには徒歩では絶対に得られないスピードと、大きな自由がある。
 そしてバイクで走ることでしか、知ることができない世界がある。
 かつてはヒッチハイクで、さんざん他人のクルマに乗せてもらっていながら、バイクに目覚めまで、自分が「石油文明の利器」であるバイクやクルマを運転しようとは考えたことはなく、関心が薄かった。それが50ccのバイクを走らせたことで、何かを目覚めさせてしまったようだ。

 80年12月9日(日本時間)、夕方のテレビニュースで、アメリカ・ニューヨークでジョン・レノンが何者かに銃で撃たれて死亡したと報じられた。私にとっても青天の霹靂で、ニュースの文面を追ううち、泣いてしまったほどだった。身内を含めても、人の死ということで、これほどのショックを覚えたことは、かつてなかった。
 つい先日には、何年ぶりかの新しいアルバム「ダブル・ファンタジー」が発表され、その斬新で新たな境地を感じさせる楽曲の数々に、文字通りの再出発と洋々たる前途を確信させてくれた、その矢先だった。

 私が14歳の頃、ロックに目覚めて以来、ジョン・レノンは、自分にロック・ミュージックの核心を示してくれた導師(グル)のような存在だった。同じ天秤座生まれということも、嬉しい共通項だった。これまでの人生の様々な局面で、彼の歌やメッセージ、存在そのものに勇気づけられたものだった。
 ジョン・レノンの死は、世界各国のメディアがトップニュースで報道し、世界中のあらゆる国の人々が祈り、黙祷する姿が伝えられた。一人の人間の死が、これほどの事態と波紋を起こしたことは、自分の記憶する限り、かつてなかった。

 ジョン・レノンは、一人の人間としては欠陥の多い存在だったとしても、この20世紀という時代に、ロック・ミュージックを通して、多くの人間に愛と励ましを伝え、人類全体の意識の進化を促進するために遣わされた、天からの使者ともいうべき存在だった。
 どんな宗教や哲学、政治家や知識人の言葉といったものより、ジョンの歌うメッセージとメロディー、そしてビートが本能的に人々の心を震わし、真理といえるものを伝えていた。だからこそ、何千万、いや、何億という人々が、彼の冥福を心から祈ったのだ。

喫茶「ソングス」

 83年の4月、仲間のカズから紹介されたH君という男と共に、旭川市内に音楽喫茶「ソングス」という店を開いた。ロック、ポップス、ジャズ、ニューミュージック、etc…ジャンルを問わず、新旧のグッド・ミュージックを聴かせる音楽喫茶&スナック―。この店名は私の発案だった。
 蔦に覆われた古いレンガ造りの一軒家。総地下になっているスペースはバンドのライブやスタジオにも使える。そして、若者が集まる新たなコミュニティ・スペース…オーナーで、マスターとなるH君とも、その夢を語り合い、意気投合した。ここで自分の仕事と新たな道が見えてきたと思った。
 内装はアメリカ西部の酒場風+北一硝子のランプシェードを多用したロマンチックな造りを奢った。そうして私は、大いに張り切って、スタッフとしてカウンターに入った。
 開店後の半年は盛況だったものの、1年を待たず、経営は苦しくなり、年末にはオーナーから引導を渡されて、あっけなくその仕事は終わってしまった。目論でいた夢やプランは、まだ何ひとつ実現しないままだった。

 初めは楽しかった。色々な客と話をしたり、レコードを次々にかけたり、店内は客でいっぱいで、オーダーのメニューの設えに大忙しという夜があったりで、大変だったが、やり甲斐があった。それに何といっても女性と接する機会が多いということがよかった。
 それだけで心楽しく、豊かな日々だということを、あらためて実感した。
 そうして続けるうち、この仕事でやっていこうと考えるようになっていた。しかし、私は店の持ち主でもマスターでもなく、雇用者である以上、それは叶わぬ計画だった。

 10月のある日、「ソングス」に、ひょっこりとあのナナオが来店した。彼は今、八千代の家に来ているらしかった。何の予告もなかったから、H君は、ナナオを見て唖然としていた。ナナオが現れると、その場の空気と次元が変わる。ただ無言で、ニコニコと微笑んでいるだけで、とてつもないオーラを放射している。
 私は、無我利でナナオと同じ屋根の下で暮らしたことがあり、敬意を払いつつも、何らカリスマ視することもないが、一般から見ると、まるで神話の人物が出現したように見えるらしい。
 ナナオは、ほとんど無言で、コーヒー1杯を飲んで悠然と帰っていったが、H君は、フウーッと大きくため息をつき、まるで仙人だな。ありゃ只者じゃない…と言って首を振っていた。

 旭川の仲間との緩やかな付き合いは続いていたが、新たな展開が見えなかった。私はこの地で、これから何の仕事をしたらいいのか、私の行くべき道とは何なのか、迷いに迷っていた。そうして私は、84年いっぱいをもって旭川での独り住まいを畳んで、札幌の実家に戻る決断をした。不肖の長男ながら、60代半ばで今も新聞店を細々と営む老いた両親のためにも、為すべきことがあるのではないかと思ったのだ。

 85年4月、私は愛車のバイクと共に、札幌の実家に帰った。家を離れてから約10年。
 一時は家も捨てたように、旅ばかりを繰り返していた不逞の長男の素のままの帰宅だった。とりあえずは、両親と共に家の仕事―新聞販売店の仕事をこなす日々が始まった。
 20世紀末に向かって、全く未知の時代の口が開くチェルノブイリの原発事故は、すぐ翌年まで迫っていた―。
                    
                       〜了〜

☆登場する人物の呼び名は、ほぼそのまま使わせてもらった。もし、差し障りがあるとしたら、私の不徳の致すところだが、私は彼らを信頼し、尊敬しているからこそ、そうしたのだ。この個人史と旅の記録を目にして、そういえばガリバーっていう変わった奴もいたなあと、思い出してくれる人がいれば、本望である。

                          心身清浄  ガリバー拝


 

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