キャラバン・オン・ザ・ロード(その3)
(1976〜1978)


 
“ミルキーウェイ・キャラバン”を機に飛び込んだ、フリークス、オルタナティブのムーヴメントと、その流れについて語るなら、それは同時に参加者、当事者である私の内的な個人史を語ることでもある。党派的な集団主義ではなく、あくまでも個人の解放と覚醒を目指して集まったグループ、運動体であるなら、主体である私という個を語らずして、それは語れない。大きな言葉よりも、欠点だらけの自分という細部こそが大事なのだ。
 フリークスに出会わなくても、私は物心ついた時から異邦人、ワンダラー(訪問者)を自覚していた。読者は食傷しているかもしれないが、大先輩であるポンに負けず劣らず、オッチョコチョイの私―あだ名はガリバーの個人史に、しばらくはお付き合い願いたい。

無我利との別れ

 私が無我利を出ようと決めたのは、本州、北海道を一回りして、76年10月に無我利に帰った時だった。その時、無我利にいたのは、ポン、ミオ、万葉、生まれたばかりの宇摩、ポン子、ウルフ、ダマリ、ヤーと、ほぼ定住メンバーの顔ぶれだった。夏までいたエーコは西表島へ赴き、サトは出稼ぎに行ってるとかで、不在だった。
 8月の「枝手久祭り」の時には、全国から旧部族やフリークスの仲間が、50人以上も集まってごったがえしたが、今は波が引いたように、元の静かな日常に戻っていた。

 文字通りのコミューンの創成期、同じ屋根の下、同じ食卓を囲んで、様々な体験を共にした無我利の仲間は、家族のように大好きだったし、信頼していた。
 労働はハードで、自分の鈍感さと至らなさを思い知らされ、厳しい状況があったとしても、不器用ながら私は懸命に働き、投げ出さず、逃げ出さず、そこで暮らした。そして私は、何よりこの土地の自然と、枝手久島の野性と神秘に深く魅せられた。

 無我利では“道場”と称して、魂の修行場と瞑想の場であることを謳っていたが、ポンのインド志向があったものの、特定の教義や修行を実践したりしているわけではなかった。ヨガや瞑想、精神世界は、フリークスは大抵、常識、教養として認識していたが、無我利では何でもありで、自由だった。

 この地での石油基地反対闘争の一端を担うことで、無我利の定住メンバーは、既にはっきりと「人民の中へ」ということを意識し始めていた。彼らと共に戦うか、見て見ぬふりをするか、「賛成派か反対派か、中間の道はない」ということだ。私も、それは全く同感だった。ここにしばらく住んでみれば、そのことが分かってくる。

 ポンは、自分たちには怒りや憎悪が欠落していたという。いわば、それらを観念的に退けていたと。そのため、自分たちの言う平和は観念論であり、ニセモノであったと。
 自分たちは差別されてきた人々の真の苦しみを知らなかった。
 そして今、自分たちはここで怒りを学びつつあるという。超越に代わって怒りを、怨念を、純粋な理念にまで高めること。その怒りこそ、きっと真の愛なのかもしれない。私が無我利という場所で、何よりも教えられたのはそのことだった。

広島平和集会

 77年5月、私は札幌の実家に帰って、しばらくの間は家業の新聞配達を手伝ったり、アルバイトに出てたりしていたが、夏―8月には、弟ら共々、広島に向けて再びヒッチハイクの旅をスタートした。8月の原爆の日に向けて、この5月から日本山妙法寺の上人、信徒たちとフリークスの仲間らが、核廃絶と世界平和を訴える「平和行進」を敢行して、東京からずっと歩き続けてきた。最終目的地の広島では、平和祈念の式典に参加すると共に、似島という島での大集会とキャンプ・インが予定されていた。
 東京経由で、北海道から丸4日かかって、8月3日の夕刻、蒸し風呂に入ったような、うだる暑さの広島に到着した。ヒッチ、ヒッチでトラックを乗り継ぎ、東海道から名神、阪神道と、京都も大阪も素通りで、国道と高速道を辿り続けた。

 似島でのキャンプ・インでは、75キャラバン以来の仲間や友人とも多く再会し、久々の語らいとセッションに花を咲かせた。同じ北海道からは、旭川の「ひこばえコミューン」の連中が来ていた。東京からは旧CCC、谷原グループ、「名前のない新聞」、御殿場のサイ(斎藤司郎)、宮田雪氏、宮崎の「ヤドカリ」グループ、日南のライジング・サン・ギルド、グリーンピースのメンバー、プラブッダ(星川淳)。また個人参加を含め、総勢200名ほどの参加者が集っていた。さらに、奄美からポンが急遽、駆けつけるという形で来ていた。ポンとは8カ月ぶりの再会だった。

 ここに来るまで、今回の平和行進の内情は知る由もなかったが、行進中を通して、党派や各種団体の政治的思惑や軋轢があり、参加したフリークスの間でも、日本山系と、そうでない者の分裂が起きていることが分かってきた。5月に東京を出発して、日一日と行進団の人間が膨らむにつれ、地域の原水協(共産党系)がこの行進を利用して街頭カンパを募るなど、行進者たち自身が混乱に巻き込まれるようになっていったようだ。

 5日の夜には全体会議が行われ、翌6日の被爆33回忌は、似島にいる200人全員で祀ろうという決議がなされた。ところが、翌朝早々、日本山系の数十人は、「お師匠様(藤井日逹師)の言うことだから」と、広島の平和公園の方へ行ってしまった。帰依したお師匠様には逆らい難いことかもしれないが、ここに来て日本山系とフリー参加者の亀裂は、決定的なものになってしまった。
 6日の夜には、広島の仏舎利塔前で、フリーコンサートが行われた。旧CCCマントラバンドや、旭川のひこばえバンド。アシッドセブン、アリ・バンド、そして菩薩というグループがトリのクライマックスを務めた。

 私自身は、広島に来るまで「平和行進」自体には参加していなかった。参加者の中には知人や友人もいて、広島で再会を果たしたが、日本山系とされる人たちと、私も含めたフリー参加者たちとの明らかな行き違いと分裂が悲しかった。日本山妙法寺に入信、さらには出家したフリークスの仲間も多くいた。私自身は、それも良しと認めながらも、南無妙法蓮華経に帰依しようとは全く思わなかった。

最愛の人

 年を越して1978年の2月初めに、私は再度、上京した。この時の上京は、元々、インド帰りのさる女性を見舞いを兼ねて訪ねるという、ごく私的な目的だった。前年、神奈川・愛川町の知人の家で知り合ったその人―S子は、77年の4月に男と共にインドに旅立った。インドを旅するうち、その彼氏共々、ラージギルの日本山妙法寺にて出家したが、彼女は肝炎を患い、単身、日本に帰国した。一ヵ月ほど入院し、退院したばかりだった。
 S子の帰国を知った私は、入院中の彼女に熱烈なラヴコールの手紙を送り、出家なんて早過ぎるから戻っておいでと呼びかけた。私は、S子に初めて会った時から、彼女を深く愛してしまっていた。

 世田谷・梅ケ丘の彼女の寄宿先での、ほぼ10ケ月ぶりの再会に、私のハートはぶっ飛んで、天にも昇る心地だったが、一方で愕然とさせられた。彼女は肝炎だけでなく、頭の方―精神も病んでいた。いくら目の前で呼びかけても、S子の意識は、しばしばあらぬ方向を向き、私にはどうしてやることもできないことが、悲しかった。

 私は一旦、川崎・柿生の弟のアパートに寄宿し、国分寺にも出向いて、無我利の機関誌「魚里人」(イザトンチュウ)の印刷、出版のため、奄美から出てきたポンと落ち合い、CCC印刷で、その印刷と製本を手伝ったりした。ポンとは昨年の広島以来の早い再会だった。相変わらず意気軒昂なポンを傍目に、私の心は晴れないままだった。「ほら貝」で久々に仲間らと語らい、飲み、生演奏に一緒に声を上げて歌っていても、寂しさは消えなかった。

旭川の夏

 S子とは数えるほどしか会えないまま、私は失意を引きずって78年3月に札幌に帰った。札幌に帰って間もなく、旭川から来た旧ひこばえコミューンのシロ(白須隆)と会い、誘われるまま何度か旭川と大雪山麓・八千代の仲間の家を訪れ、滞在するうちに、ここに移り住むことを決断した。そこには4月の半ばまで、東京の「ほら貝」周辺の連中―サタン、ミロ、ランパ、ヒロ…らが滞在していた。

 久々の彼らとの共同生活を過ごし、大いに触発されたせいもあった。無我利は出たとはいえ、私のコミューン志向は続いていた。ともかくその時は、実家での暮らしを離れて、自立するためにも、もう一度、仲間たちとの自然の中での自給自足を目指す生活に飛び込んでみたかったのだ。とはいえ、八千代の家では特にコミューンを目指しているわけではなかった。来る者は拒まず、だったが、私は押しかけメンバーのようなものだった。

 5月、6月と、私も含め、八千代の家の住人は、生計を得るため、近くの農家の牧草刈りやアスパラ畑の収穫に出て、汗を流して働いた。少しでも自給する食糧を得るため、家の裏手の草地を開墾して、豆類やダイコン、トウモロコシの畑を作った。
 八千代の住人の2人―ヤッチは酪農大中退の、飄々とした山歩きが好きなフリーク。
 トオルは、以前は東京の方でOZバンドの一員でもあった元ミュージシャンだ。心優しく、ひっそりと輝いて生きている彼らには、日々、教えられることが多かった。

 7月から8月にかけては、仲間ら全員で長期出張の測量のアルバイトに出て、稼いだ。
 南富良野(上トマム)の山奥が現場の測量の仕事は、ハードなものだったが、環境は最高で、完遂した後は、心身の浄化とはこういうものかと実感したくらいだった。

 旭川では、シロ一家と八千代の2人―ヤッチとトオル、西神楽に住むサク、ヤス、ヒデ、東神楽のフカ、ミチ、カズといった顔ぶれと出会った。上雨紛にあった「ひこばえコミューン」は前年に挫折したが、残った仲間たちの交流と結束は続いていた。
 シロ一家は、西御料地という地区で、古い農家の一軒家を借りて住んでいた。納屋にはスタジオがあって、仲間らがよく集まっては、バンドでセッションしていた。

 サクはアメリカ帰り。昨年はアメリカで、ネイティブ・インディアンや南無妙法蓮華経の上人たちと共に、核廃絶を訴える大陸横断の平和行進に参加していた。
 ヤスは寡黙なアコースティック・ギターの名手だ。フカも以前は国分寺周辺にいて、CCCマントラ・バンドの一員だった。同じくベースやギターをこなすミュージシャンのカズ(大村和生)は、以前、喜多郎と同じバンドをやっていたことがあり、結婚して間もなく、まだアルバイトで食いつないでいるところだった。(後に彫金のアクセサリー販売から有機野菜の引き売りを始めた)

 私を含め、シロ、フカ、カズ以外のメンバーは独身者で、女っ気がゼロということが、コミュニティとしての新たな展開がなく、停滞の一因となっていた。77年頃まで旭川市内にあった「空想旅行館」というフリークな喫茶店、ライブスペースが、オーナーのやむをえない事情により閉じてしまい、街での出会いや交流の場も今は乏しかった。コミューンもコミュニティも、女性と子どもがいなければ、発展も活気も生まれない。奄美の無我利道場が、その後も90年代初めまで存続したのは、女性と子どもがいて、中心的な役割を担っていたからこそだった。
 ここでは独身の男は皆、30そこそこの若い盛りなのに、女関係が無さ過ぎた。それが残念至極、侘しいところだった。そう愚痴るのは、私だけかもしれないが―。


 

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