ゴジラは艮の金神


 

 ゴジラ―英語読みではGODZILLAと書く。先頃、NHK・BSで、ゴジラ誕生60周年を機に、「ゴジラ、おまえは何者なのか」と題して、歴代のゴジラ映画を振り返り、検証する特番が放映された。折しも、今年2014年は、アメリカ・ハリウッド版の『ゴジラ』が製作されて世界各地で上映され、大ヒットと共に大きな人気を博している。日本でも7月末に封切られ、日本の俳優・渡辺謙も出演していて、話題となっている。
 アメリカの映画人もリスペクトし、夢中にさせるゴジラという怪獣、存在の摩訶不思議な魅力、あるいは魔力と言っていいものとは何だろう。

 私も、実は子どもの頃からのゴジラのファンである。初めて見たゴジラ映画は『キングコング対ゴジラ』だった。私とゴジラの生誕年は同じで、それを知った時から、子どもながら兄弟か同級生同士のような親近感を抱いていた。私が生まれたのが10月21日。それから2週間後の11月3日に『ゴジラ』が封切りとなったのである。
 そもそも1954年に作られた第一作は、そのコンセプトとメッセージは明確だった。
 当時、米ソの二大大国が繰り返していた核実験ラッシュ。その年、アメリカが南太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験によって、近隣を航行していた日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」と、その乗員が放射能を浴びて被爆し、その後、次々に亡くなるという事件が起きた。それらの核実験の放射能を浴びて、海底深くで眠っていたゴジラが目を覚まし、甦った。―そこから映画が始まる。

 核実験によって眠りから起こされたゴジラは、人間に対して怒っている。それに復讐するように、ゴジラは人間の住む文明世界を襲う。全編バックに流れる伊福部昭作曲のオーケストラによるテーマ曲が、ゴジラの登場と共に畳みかけるように迫ってきて、未知の恐怖を高めていく。
 ゴジラは咆哮を上げる度に、口から水素プラズマの熱線を噴射するほど、全身高濃度、高レベルの放射能を帯びている。いわば核エネルギーを原動力にしている、通常の生物の概念を超えた存在、ありえない怪物なのだ。大地と空に轟く、その恐ろしい咆哮は、同時に悲痛な叫びを帯びている。
 第一作の「ゴジラ」では、ゴジラと核実験との関わりが丁寧に描かれ、そいつが放射能を帯びていることが、分かりやすく示されている。ゴジラの巨大な足跡から、ガイガーカウンターで放射線が検知され、ストロンチウム90が検出された。まるで今の日本の光景を見ているようで、目を見張った。これはまさに予言的なシーンである。

 核という禁断の技術によって、ゴジラを甦らせ、それが大きな災厄を招いてしまった人間。そのゴジラを殲滅する唯一の手段として、「オキシジェン・デストロイヤー」という悪魔の技術を開発した科学者芹沢は、それを使用するに当たって、全ての資料の隠滅と共に、自らの頭脳―命をも引き換えにする。このような生命を絶滅させかねないような技術や兵器は、もう二度と持ってはならないと。そのためには、自己犠牲さえ厭わないという悲壮なまでのメッセージだ。第一作の「ゴジラ」は、こんなシリアスなテーマに貫かれたものだった。

 ゴジラ、それは破壊神であり、荒ぶる神。人間の作ったちっぽけな文明と人工物を、あざ笑うように叩き潰し、焼き尽くす大いなる力。ゴジラが、こんなにも長年に渡って求められ、不動の人気があるのは、ゴジラが見せる痛快なまでの破壊と、その力の発現を人々が求めているから。このニッポンもそうであれかしと、どこかで思っていて、「ゴジラ」は、その思いや感情を刺激し、それを観ることでカタルシスと共に満たしてくれる。
 日本人は、実はそんな荒ぶる神のような力の到来を、心の底では強く求めているのではないだろうか。

 今回、製作されたアメリカ版『ゴジラ』は、ハリウッドらしい超大作で、ゴジラ映画として、ちゃんと成立している。そのリアリティは圧巻の一言。リアルCGで人間の住む都市が怪獣によって壊滅していく様子がいっぱい描かれ、現実の災害や事件とも重なる演出で、単なるエンターテイメントではない面も持っている。ハリウッドなりに考えて、初代のゴジラに寄せてくれている感じがする。先行きの見えない暗い世相の今、観客は圧倒的で恐ろしいものを見たがっている。だから、時代に合わせて初期のゴジラと同様の人間の想像を超えた恐怖の化身というゴジラが出てきた。
 映画自体の筋立てや、出来具合いは、大いに評価したいと思うが、一つだけ言わせてもらえば、この映画のゴジラをゴジラと呼ぶのは、いささか抵抗がある。本家ゴジラの佇まいと存在感は、これとはまた別格のものだ。中でも平成に甦った日本のゴジラは、首から上の頭部がもっと大きく、ゴツく、歯牙は長く鋭く、その恐ろしい目が異彩を放っている。それは単なる爬虫類とか恐竜の目ではなく、まるで鬼か不動明王のようである。
 米国版ゴジラを見て、日本のゴジラの「目」が、いかに強烈なインパクトを放っているかをあらためて思った。

 ゴジラを見ていて、今更ながら気づいた。古神道の流れを汲む大本、「日月神示」の言う“艮(うしとら)の金神”が顕現した姿が、まさにゴジラではないか。ゴジラとは映画を通して現代世界に甦った艮の金神―。それは日本の東の近海から出現した。ここが肝心だ。アメリカやヨーロッパでもなく、ロシアや中国、アジア、インドでも、どこの国の映画界でも、こんなキャラクターの怪獣は生まれなかった。
 荒ぶる龍神である艮の金神は、国常立大神であり、大地―地球を治める神でもある。
 ゴジラは、その化身として三次元に具現化した存在であり、同時に地球の守護神なのだ。だから、宇宙と自然の法則に逆らい、性懲りなく環境破壊と戦争―殺し合いを続ける人間に対して、映画の中で何度でも破壊と鉄槌を食らわす。
 ゴジラは、いわば「不動明王」。インドでいえばシヴァ神である。怒りと破壊の向こうに、人間の覚醒を願っているという慈愛があるのだ。

 1984年に製作された『ゴジラ』では、ゴジラが静岡県の海岸にある原発を襲い、施設を破壊しつつ、原子炉の核物質や放射能を全部、吸収してしまうという場面が出てくるが、実際にゴジラが原発を破壊したら、「フクシマ」を上回る放射能の大放出をもたらすだろう。実際、現在の日本列島の海岸線には、ゴジラの大好物である原発がズラリと並んでいる。今はほぼ全てが止まっているが、稼動していなくても、そこに核燃料があれば同じことだ。ゴジラが第一作で、最初に日本に上陸した1954年には、そんなシロモノは一つもなかった。それが今では止まっているとはいえ、全国に40基以上。この間ずっと、ゴジラよ来てくれと、国を挙げてのプロジェクトをやっていたようなもの。そしてゴジラは、2011年3月11日の巨大地震と津波となって、福島第一原発を襲った。
 その図体こそ現さなかったが、ゴジラは地震と津波となって、そこに来ていた。
 福島第一原発の現場にいた人間は、きっと誰もがそのことを感じ取っていただろう。

 平成ゴジラ・シリーズの最終作である『ゴジラVSデストロイヤー』(1995年)で、ゴジラは壮絶な最後を遂げる。ここで登場するゴジラは、初っぱなから体中が過熱し、所々赤く光る満身創痍のゴジラだ。体内の核分裂反応が暴走し、メルトダウンとは、まさに後年の福島第一原発のメルトダウン事故を思わせる。最後に、あの悲痛な叫びを上げつつ、真っ白な光の中で溶け、消え去っていくゴジラは、あまりに切なく、悲しい。核によって誕生した怪獣に、こんな思い入れを抱くのは、それを生み出した日本人だけかもしれない。

 今も核燃料を抱え続けている日本中の原発。そして、そろそろほとぼりが冷めたとばかりに、九州電力・川内原発を皮切りに、各地の原発の再稼働が進められようとしている。
 福島の放射能被害はなかったことにされ、各地の原発地元では、「避難計画」が当たり前のように語られ、何があっても、この国は原発推進を止めようとしない。
 今度は、電気料金を上げてほしくなかったら、原発を稼働させろという脅迫付きだ。
 もはや付ける薬もない、この重度の原発中毒ぶりには、きっとゴジラも呆れている。
 このまま性懲りもなく原発を稼働させ続ければ、次なるゴジラの襲来も免れないだろう。今度こそ徹底的にやられ、取り返しのつかないことになる。日本人は、そのゴジラの襲来を、密かに待ち望んでいるのだろうか―。



 

表紙にもどる