〜メッセージ〜 絶望の日本


 「日本の危機」―このフレーズは、過去に幾度となく叫ばれてきた。
 そして、政治家や歴史家、メディアはこぞって、日本があらゆる危機、困難を乗り越え、未来永劫発展するかのような美辞麗句を並べてきた。だが、はたして現実はそうだろうか。私たちは戦後67年に限っても、知らず知らずのうちに「日本人」としての精神を失った。そして今、私たちの目前で繰り広げられている光景や事象は、日本が物理的・精神的に終わっていく過程である。 誰があっちに引っついたとか、誰の背後に何があるとか、それは全て裏で金勘定している老人が算段しているだけのことで、その世界の構図は、これまで地球規模でやってきた悪党の世界の構図と全く一緒。

 先の総選挙で、有権者は、性懲りもなく“失われた20年”の元凶である自民党政権を選択し、“アベノミクス”なる使い古されたバブル政策で株価が上がったと喜び、今度はオリンピック招致だと浮かれている。週刊誌は、株価のバブルを煽る記事を書きなぐる。
 安倍自民党と「お友だち」らしい大メディアは、民主党政権時とは打って変わって、一切政権批判をせず、呆れるばかりのヨイショ報道を続けている。
 皆、何度騙されても懲りない。学ばない。
 この国は、これから何千億もの金をかけてオリンピックなどをやっている場合か。
 被災地の復興は、遅々として進まず、安倍政権が組んだ公共事業の補正予算は、全国に流れて土建業界は一時のバブルに沸いているが、そのために被災地は置き去りにされている。この国は、原発事故のイメージを隠すため、「復興五輪」の看板も降ろしてしまった。

 福島第一原発の事故は、収束するどころか、絶望的な状況が浮き彫りになっている。
 高濃度汚染水が溜まり続け、3年後には破綻の恐れが指摘されている。
 政府や一部メディアは、福島の放射能汚染は大したことはない、健康被害はないと繰り返し、放射能被害とはけっして言わず、「風評被害」という言葉にすり替える。
 新聞もテレビも、そう言って平然としている。そして未だ原発事故の総括も、責任の追及もなされていない。
 人体への影響もこれから出てくる。WHOは先月、福島の乳児が16歳までに甲状腺ガンになる可能性が、9倍に増えるというショッキングな報告書を作成した。日本への警告だ。

 日本は、とてつもなくひどい国になりつつある。悲惨な現実から目を逸らすように、アベノミクスを大マスコミが煽り、今度はオリンピック招致だと、日本中が“夢物語”に向かって突き進んでいる。これでいいのだろうか。
 誰もはっきりとは言わない。皆んな狂っている。異常な有様だと。

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 日本を終わらせたとどめというべき要素の中に、天皇の国師と称して国策に関与してきた三上照夫という人物がいた。三上が言ったのは「変わらない」ということ。
 日本は変わらない。変えようとしないのだ。政権交代があろうと、国民が大デモを繰り広げようと、何があっても変わらない。それを変えようとする動きや人物は必ず潰され、排除される。小沢一郎や鳩山由紀夫のように、検察やメディア、霞ケ関の総力を挙げての攻撃によって。時にはヤクザの手によって証拠が残らない形で殺される。

 この国には主権などない。戦後一貫して、そして今も、実質アメリカの属国、植民地であり続けている。誰が首相になろうと、政権交代があろうと、アメリカの言うこと、要求には一切逆らえない。原発再稼働、TPP参加、米軍普天間基地移設、オスプレイ配備という現実を見ても、それは一目瞭然。それが「日米同盟」の実態だ。
 なぜ、こんなことになっているのか。それは、この社会が、マスコミやアカデミズムが言わないこと、知らないことは認めないという構図になっているから、真相が表面化しないだけのこと。実際はくだらない金勘定しかしていない構図があるだけで、これまで誰も言わなかった。

 日本が終わっているということを示す端的な事例として、山口県の上関原発の問題がある。日本古来の神域を潰して原発を造る計画だが、この神域破壊計画にゴーサインを出したのは、ほかならぬ神社本庁だ。それが日本の正体だった。
 日本列島は、その歴史上、3段階の大きな変化を経て今日に至った。1万年に及ぶ縄文時代を変革した弥生文化の流入、中国式律令制度の導入、明治維新による欧米制度の導入。この3つである。いずれも日本の社会構造を大きく変えた節目であったが、私たちは極めて精神的な要素において「日本国以前」の遺伝子を今日まで伝えてきた。山川草木に素朴な霊威を感じた経験は、多くの人が持つだろう。そこかしこに神がいるという感覚を、私たちは理屈抜きに共有している。この自然観こそが私たちの生命の淵源である。
 歴史の大変化に揉まれながらも、私たちの血の中に生き続け、辛うじて名残りをとどめる精神のふるさとである。これが無くなれば、日本は単なる“市場”にすぎない。血の気のない流通の墓場となる。そうなれば私たちは何者でもない。単なるノッペラボウである

 中国電力は現在も原発建設を諦めていない。何があっても日本の神々を抹殺したいという強靱な意思を持ち続けている。しかもこれは“国策”である。つまり日本政府が、あらゆる手を尽くして日本の神々の抹殺に異常なまでの執念を燃やしている。「日本国」が日本ではない明白な証拠である。
 この政策を続ければ、当然ながら日本は核の墓場となるが、それでもいいから神社などは潰してしまえというのが、マネーゲームに狂奔する企業家、官僚、政治家、メディアの考えである。彼らの正体がこれではっきり分かるだろう。
 神社地売却問題というのは、日本を偽装した国家もどき「日本国」の正体を如実に物語るものである。彼らは、もはやその醜態を隠そうともしていない。縄文文明の破壊に始まる日本列島の“神殺し”は、明治維新と第2次世界大戦を経て、遂に最終段階を迎えている。

 原発事故は、巨大な利権構造がスクラムを組んで後戻りできなくなった結果の惨事だが、再び原発のあるエリアで巨大地震が起こり、原発が爆発すれば、日本の存続は極めて困難になる。場合によっては、その場で終了する。そもそも原子力政策なるものは、戦争政策の戦後バージョンだった。つまり、当初から国民の生命・財産と引換えに始めたことだった。戦後は戦闘状態がないから実態が見えないだけで、日本は戦時からの“原子力利権争奪ゲーム”を形を変えて継続してきた。これは戦争政策の延長線上にある以上、国民の犠牲を前提とした政策だった。目に見えない戦時体制なのである。
 それを隠すために戦後の日本は、表向きは“平和国家”を標榜し、裏では原子力の“平和利用”と称する原子力戦争体制を維持してきた。必然的に原子力政策という国策は国民の生命・財産より優先する事項なのである。

 第2次大戦の大きな目的として、戦後のエネルギー利権を見越した原爆開発があった。
 その成功と人体への影響を実験するには、原爆を使用するまで戦争を継続する必要があった。これは原子力マフィアにとっての都合であるが、日本も原爆投下までは降伏する気はなかったのだ。戦後の原子力利権の分け前を存分にもらうためには、日本にとっても原爆実験は必要だった。つまりこれは“日米共同”の作戦であって、とっくに利害は一致していたのだ。
 ゆえに日本は産軍を挙げて原爆被害調査という“軍事行動”をアメリカと共同で実施したのである。そして日米が共同で出資設立した「放射線影響研究所」が、原爆被害のデータを隠匿し、被爆者の治療に活かすこともなく、今日に至った。
 現在の日本は、良く言ってアメリカの核戦略基地、平たく言えば下請け工場だが、ただの工場ではない。実験場の役割を兼ねている。

 この半世紀の間、日本人はどういう目に遭ってきたか。広島、長崎、第五福竜丸、地下鉄サリン、東海村JCO臨界事故、福島原発メルトダウン事故…。日本人は原爆、水爆に始まって、毒ガス、中性子、放射能被曝と、悲惨な実験データを一通りアメリカに提供してきた。放射能汚染で日本に誰も住めなくなったら、原発を建設した連中も困るのではないか。そんな疑問を持つ人もいるだろうが、彼らは日本がなくなっても困らない。別の土地に行くだけだ。
 だから平気で危ないことができるのである。そもそも原発プロジェクトを始めた連中の出自と行動様式を調べるといい。彼らは元々満州国を経営していた連中である。そして彼らは満州国がなくなっても全く困らなかった。彼らは国民を騙すために愛国を唱えるが、はなから祖国という観念は持っていない。

 国会図書館を探しても、新聞社やテレビ局の資料室を漁っても、こんな情報はどこにも見当たらない。その理由は、いわゆる知識人たちが寡聞にして無知だったからではなく、彼らが傲慢過ぎるゆえに、自分の知らない世界を否定してきたからなのだ。不都合な真実には反論しない。あたかもそれが何の意味も持たないように黙殺する。これが戦後の日本のメディアや学会の典型的な対応だった。

 マッカーサー・GHQ占領軍の手で、日本が完璧にアメリカの植民地になったのが70年前。知らぬふりは元帝国植民地主義で覇権に走った日本政府の得意技。それを指導したのがアメリカ政府だから、統治国日本に過去の真実など絶対に教えない。ひたすらワシントン政府の顔色を窺う運命のニッポン国に外交力はない。マスコミは“日米共同”の深層さえ知らない。起きた出来事だけ追随するのが大メディアの仕事の全て。つまり、子どもにもジャーナリストは務まる。

 多くの人が気づくという時は来ないだろう。今が分からない人には永久に分からない。
 そして、どうすればいいかという方法もない。
 それが終わったという意味だ。“戦争”とは何なのか、日本を支配している者は誰なのか、それを今の人は“テニヲハ”からして分からなくなっている。だから、いつまでも既存の概念だけで社会や歴史を語るしかない。呪縛が解けないニッポンの姿に気づく気配は、未だ国民からは窺えない。それに気づかないうちは、ニッポンは間違いなく終わったままだろう。

 破局や絶望を語ることは、“ネガティブ”な思考、ベクトルとして忌避され、ポジティブで前向きな考え方をしようと、誰もが言う。人々は絶望を避け、希望を求めている。
 しかし、あえて言おう。私たちは、この悲惨な現実に、一旦はとことん絶望して、悶えるべきなのだ。
 多くの人が、既に終わってしまった古い日本にすがりつき、そこに希望を探そうとしてる。否! そこに希望などない。それに完全に絶望しなければ、新たな希望など見えてこない。この国の絶望的状況と社会の異常は、これからさらに加速し、深まる。私たちがこの惨憺たる現実を認めず、夢を見せられている限り、それは止まらない。
 そして、大きな破局がやってくるだろう。「3.11」を経ても結局、何も変えなかった。
 変えようとしなかったことの当然の結果として。
 この地震列島の上で、再び原発を稼働させ、高レベル核廃棄物を蓄積し続ける限り、時間の問題でその時が来る。そうなったら、文字通りの日本の終焉だ。
 その時になって、しまったと思ってももう遅い。絶望するなら今、「日本」から脱けるなら今なのだ。

 私自身は、日本人というより「北海道人」であると考えるようになった。私は、この国の風土や文化を愛しているが、この狂った「日本国」に、決して同化も相容れることもできない。だから未来を見据えて、北海道の日本からの独立を真剣に考えている。政治家や学者、経済人でも、それを考えている人は、実は多くいる。我々は「北海道共和国」の独立を、古い日本に代わる新しい国を作る試みとして提唱したい。
 北海道だけでなく、日本列島中で、これまでの「日本国」の呪縛から脱けて、本来の日本を取り戻そうとする人々が出てくることが、この国の再生と起死回生の鍵だ。
 私は悲観的だが、それでも夢見る。そんな奇跡が、いつか実現することを―。


 


 

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