おおサラスヴァティ 詩と音楽の女神よ 著書『アイアム・ヒッピー』の表紙の見開き1ページ目。マントラの渦の中で踊るシヴァがいる。その周りで礼拝、瞑想し、あるいは蠢く善男善女、有象無象、死者の霊たち。 僕がポンと初めて出会ったのは、1974年秋のことだったが、ミルキーウェイ・キャラバンの旅を経て、1976年の3月に、ひょんなことから、宮崎の街で落ち合って、共に奄美大島の宇検村にあるコミューン―無我利道場に向かうことになった。その勢いで僕は大学をドロップ・アウトし、僕の人生はこの時点で永久に変わってしまった。そして春から冬にかけて8ヵ月間、ポンや無我利の仲間と同じ屋根の下で暮らした。 初期の一時期、無我利道場の床の間の一角に、19世紀のインドの覚者、ラーマクリシュナの肖像が掲げられていた。それは一見、このあたり(久志部落)のジイさんとそっくりにも見えるイッた目をした髭面のオッさんだった。当初、何も知らない僕は、なんじゃ、このむさいジイさんはと思ったものだ。その後、そこにあった『不滅の言葉』の冊子を読んで、その存在を知り、僕自身、瞑想の真似事を始めるきっかけとなった。さらにそこからヴィヴェカーナンダ、ラーマナ・マハリシ…といった覚者たちを知るようになる。 その当時、夜のひとときには皆で車座になり、インド香を焚いて一服交わして、ポンはそんな人々のことをまるで見てきたように活き活きと語ってくれた。ラーマクリシュナの見神体験、弟子のナレンドラ(ヴィヴェカーナンダ)との物語、あるいは時空を飛んで、クリシュナとアルジュナ、恋人ラーダとの逸話、あるいはミラレパの物語、維摩居士の語ること。さらにはヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファンと弟子のカスタネダの修行の 『部族』から無我利道場時代の間に描かれた数々の祭りのポスターや絵は、今でも僕の座右の画だ。彼は詩人であると共に、元々画家であり、ポスターからアクリル画、さし絵、似顔絵まで描くというエンターテイナー的な演出家でもあった。自ら「お祭りポン太」と称したように、彼の描く絵や物語がなかったら、ささやかなフリーク、ヒッピーの歴史も、何の神話も記録も残らない忘れ去られたものになっていたかもしれない。 昨年、12月20日付の『麻声民語』で、ポンはこう言っていた。 ポンとはいったい何者であったのか―若い女好きのスケベジジイ、人騒がせなオッチョコチョイ、画家、物書き、過激な運動家、大麻とLSDのマスターであり、伝導者、一介のフリーク(旅人)、瞑想家…と、誰でもが知るように聖から俗まで様々な顔を多面体のように併せ持っていたポンという人は、ある意味尋常とは思えない道を突き進んだ。そしてある光を見い出し、僕たちにそれを示した。 ナナオが一般にも受けやすい自然回帰の明るく清冽なイメージで、フリーク、ヒッピームーヴメントの表の顔を担っていたとするなら、ポンはいわば裏の顔―清く正しく、美しいだけではない、非合法のモノまで含めて、もっと危険で、ダークで、妖しくもサイケデリックなヴィジョンや意識を体現する顔として存在していたように思う。自然にそうなったか、あるいは多分に意図的にそうしていたかは分からない。初めて出会って以来、僕は ポン、しばしのお別れだけど、近いうち、新しい次元に移行した世界で、また会えることを楽しみにしています。そこは先にナナオが旅立っていった地球Bかもしれない。 ボン・シャンカール!
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