肉体を持った人間よりもAIの思考を優先する社会が来る イーロン・マスクは今、“ニューラル・レース”というものの開発、生産に取り組んでいるようだ。これは脳全体を覆うメッシュ状の物質で、AIとのインターフェイスとして機能するものだ。ただ、すぐに実用化されるものではなく、これから数世代後のAIとの連動を目指している段階だ。 こうして受ける側の体の中でハード環境を整え、外付けハード的な装置であるHMDを組み合わせれば、AIの思考や意思は遍在のものとなり、ごく当たり前の社会的常識として受け入れられる。こうして“グローバル・マインド”を媒体とした意識の共有が完成する。個々の人間よりもAIの思考や判断が優先する社会が生まれるわけだが、個々の人間には何かを強いられている感覚は全くない。先述のゾルタン・イシュトヴァンが言うように、変化のペースが一見緩やかに見えるため、実際、大きな変化が起きても分からない。 こうして人類は、賢明なるAIに導かれ、治められ、トランスヒューマニズムの発展によって、一部の人間は神のようなインテリジェンスと能力、永遠の命さえ得るようになるのだろうか。 ここまでトランスヒューマニズムの思想や、AIや機械との融合、科学とテクノロジーによる人間の改造…といった状況を紹介してきて、どうしても拭えない違和感と共に、どこかで見たような、聞いたことがあるような既視感を持った。思い出したのは、科学テクノロジーとスピリチュアルの融合によって、超能力開発と解脱―人間の進化を謳った、かのオウム真理教だ。前述の“ニューラル・レース”は、麻原彰晃が頭に被っていたメッシュ状の電極ヘッドギアを連想させる。無論、ニューラル・レースの方がテクノロジー的にははるかに高度なものだが、根本の思想はさほど変わらないと思える。 我々は、そのようなAIや機械との融合による人間の無限の進化(?)というものを、認め、信じていいものだろうか。仮にそのような“改造”が可能だとしても、間違いなく言えることは、その恩恵、あるいは特権に与れる人間は、一部のエリート、金持ちだけ。 緩やかなペースで進むAIと人類との融合 パソコンやインターネットが浸透し始めた25年前―1990年代初頭に、それらがここまで日常生活と密着する状態を想像できた一般人は、どれくらいただろうか。おそらくは携帯電話にしても、自分とは関係ないという認識で、横目で見ていた人がほとんどだったはずだ。私もその一人であり、社会生活上、どうしても携帯電話が必要となり、使うようになったのが2006年頃のことだった。 HMDを使えば、世界中どこにいてもVRやARを通じてミサや祈祷会に参加することができる。映像処理技術が今より進むことは間違いないので、やがてHMD内の別の実世界で起きていることが、ヴァーチャル・ワールドこそがリアリティであるという感覚が生まれるはずだ。いや、現在においても、既にそうなりつつある。 カリフォルニア州バークレーにある機械知能研究所という組織がある。その前身だったAIシンギュラリティ研究所の所長、人工知能のエキスパート、ルーク・ミュールハウザーは、AIが人間の仕事を奪うことから全てが始まるというシナリオについて語っている。彼が語るのは、人間がAIの生贄になる世界のリアリティだ。 トランスヒューマニズムは、総超人化というコンセプトの下に進められているのかもしれないが、その一環として開発が進められている超人AIが結果として生み出すものは、ユートピアではなく、人間が今の姿でいられなくなる、見た目は平和そのもののディストピアなのだ。映画『マトリックス』三部作は、的確にその世界を予言していた。 問題の本質は、こうした世界へ向かう流れを一つの陰謀ととらえ、黒幕が誰かを突き止めることではない気がする。それを究明したところで、この流れを止めることにはつながらない。現時点で心しておくべきことは、我々の意識の姿勢、生き方だろう。ゴーグルの中で展開される仮想の世界を現実として生きるのか。それとも、そういったものにはなるだけ触れないで、むしろ抗って生きていくことを選ぶのか。流れに流されるのは楽だし、流れに抗うことは苦しく、易くはない道だ。そして流れに抗う者は絶対的少数で、それもしばらくすると、そういう少数者もいたことも忘れられてしまうかもしれない。 重要な情報やテクノロジーは小出しにされる。そして大きな変化へ向かうトレンドの流れは、イシュトヴァンが語るように、あまりにも緩やかなペースで進むこともある。だから、実際の変化に気づく人は圧倒的に少ないかもしれない。テクノロジーの進化によって、人間は今の姿でいられなくなる可能性がある。専門家の間でも、人間が人間でいられなくなる―人間を人間たらしめているものが失われる可能性についての議論が盛んに行われている。具体的には何が変わるのか。それは人間の基本的な概念の一つである幸福感の変容ではないか。トランスヒューマニズムによって、過去の進化のペースを全て否定する形で知能や身体的機能が、飛躍的に向上する。しかし、それと引き換えに、幸福感をはじめとする“人間であること”の要素を全て差し出さなければならない。 心まで機械に支配されて生きるのか、それとも、機械とつきあっても、可能な限り人間らしい姿をとどめる気持ちを固めるのか。選択の余地はいくつか残されていると思うが、このままいけば世界は、超人AIによる支配・管理と、トランスヒューマニズムによって超人化した一部エリートが支配層として君臨する世界に、気がついたら移行しているかもしれない。その変化は一見、緩やかで目立たないため、ほとんどの人が気づかない。
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