〜 メ ッ セ ー ジ 〜

「 日 本 の 心 」を 越 え て

 

 なぜ、この国の人々は「日本」「日本人」「日本の心」なるものが、そんなに好きなのだろう。無条件に「日本」というイメージ、共同幻想を支持するのだろう。なぜ「素晴らしい日本人」「日本に生まれて、日本人であってよかった」「世界に誇る日本の文化」「日本を愛する外国人」ばかりメディアに登場するのだろう。
 日本と日本人に対して、手厳しい外からの声、耳に痛い意見は、ほとんどメディアには流れない。そして少しでも日本批判をすると、「反日」「自虐的」「売国奴」「日本から出ていけ」扱いとなる。
 本当に日本の素晴らしさを分かっているなら、批判や反対意見を許さないとか、議論を受けつけないなんて独善的、排他的な態度はあってはならないこと。それこそ「和の精神」に真っ向から反することだ。
 日本を愛するが故にこそ、手厳しく批判もするのである。外から褒められることに恐縮こそすれ、自ら自画自賛ばかりして、悦に入っているのは恥ずかしいことだ。

 人種や民族の特性、精神性といった問題ではなく、日本人が「成し得なかったこと」を挙げるとすれば、以下のようになるだろう。
 ・日本人は、先の戦争における自らの過ちを、自ら総括できなかった民族である。
 ・日本人は、戦争責任や歴史認識を共有できなかった民族である。
 ・日本人は、特に中国や韓国など、東アジアの人たちへの攻撃性、排他性、差別意識を払拭できなかった民族である。

 さらに言おう。日本人は優しい、内気である。マナーやモラルが良いと言われてきた。だが、それはどこまでが真実だろうか。
 日本人は自分の権利を求めて戦おうとしない。優れた霊性の文化と資質を持っていながら、自分の中にある霊性に気づこうとしない。
 人として、神の子としての自立のために戦おうとしていない。
 だから優しいが、臆病でもあるのだ。いつまで、そのような形で生きていくことが許されるのだろう。

 今年は“日本礼賛”イベントが目白押しだ。伊勢志摩サミットでは、「テロ対策」「おもてなし」の協力をしましょう。参議院選挙では国家のために力を尽くす人を選びましょう。リオ五輪では、もちろん日本人選手を応援しましょう―。
 この“日本”なるものは、「日本教」ともいうべき宗教に等しい。
 メディアをはじめ、過激な一部の有識者、ネトウヨから、何となく共鳴している一般の人々に至るまで、この国ではそれが空気のようなマジョリティの勢力を形成している。そして、その最高権威、象徴として、様々な国事やイベントで国民の前に臨むのが「天皇・皇后両陛下」である。

 しかし、この「日本」は、明治以前には存在していなかった。
 全国の一般庶民は、時の天皇の名も知らず、その権威は国家の祭祀を司る範囲だけのもので、一般庶民は天皇を崇拝したり、その権威に従っているわけではなかった。明治憲法で、政府によって天皇が国家元首であると共に“現人神”とされ、国家神道として「天皇教」ともいうべき皇国民教育が先の戦争まで続いていた。
 300 年近く続いた江戸時代では、時の政権―徳川幕府は一度も庶民に大して天子様―天皇を崇拝せよと公布したことはなかった。
 この「日本」は、明治政府を作った日本人―薩摩、長州閥を中心とした人々が勝手に作った日本だろう。それに続く明治以降の近代日本人も、それを促進した。彼らの言う「伝統」や「日本」とは、せいぜい過去150 年のものなのだ。

 こんな大きな「日本」「ニッポン」の国家的雰囲気に、自由と平和を求める我々庶民、何より私自身はどうやって逆らい、関わらずにいることができるか。2016年、自称「愛国」者たちは、私たちのすぐ側にいる。ネット空間には、そんな輩の呟きや喚きで溢れている。彼らの多くは名も素性も隠し、高みから神にでもなったつもりのように他国や外国人、日本政府に批判的な人々を差別、攻撃することに血道を上げている。匿名で安全地帯からモノを言う卑怯。
 それが愛国者なのだという。思想、信条の如何以前に、その醜悪で下劣な言動自体が見るに堪えない。彼らは言葉というものを汚し、冒涜している。言論の名に値しない、論理も理性も通じない言動とはまともな議論もできない。

 そんなネットに巣食う連中が大好きな安倍首相は、今夏に予定されている参院選で明文改憲を公約に掲げることを表明した。自民党、安倍政権が改憲の最初に目論んでいるのが「緊急事態条項」の新設だ。同条項は、外部からの武力攻撃や内乱、自然災害が起きた際に、総理が「緊急事態宣言」を発動できるようにするもの。何をもって「緊急事態」とするかは政府の意思次第。すると、内閣は法律と同等の効力を有する政令を、国会の承認なしに制定できるようになる。
 さらに同条項には全ての国民は「国、その他公の機関の指示に従わなければならない」と明記されている。
 ひとたび緊急事態が宣言されれば、国民の基本権は停止させられ、公権力が際限なく全権を振るえるようになる。
 立憲主義のたがが完全に外れた、これほど強大な国家緊急権は他の国でも例がない。

 自民党の改憲草案における緊急事態条項は、いわばジョーカーのような万能の切り札となる。安倍政権は、これさえ手に入れてしまえば、憲法9条を改正する必要もない。
 護憲派は「9条を守れ」と言っているだけでは完全に足元をすくわれる。一般には、この「緊急事態条項」自体がまだよく知られていないし、メディアも知識人も事の重大性に気づいていないのか、見ぬふりをしているのか、積極的に周知しようともしていない。
 油断のうちに参院選後に、この改憲発議を通してしまっては取り返しのつかないことになる。この先、くれぐれも注意は怠れない。

 安保法案のゴリ押し成立や原発再稼働、賄賂スキャンダルを抱えた大臣と、何をやっても支持率50%程度を保っているという不思議な政権に拮抗する政治勢力は未だなく、野党は力不足の上にまとまらずと、このままだと参院選後も安倍一強の悪夢がさらに続くという状況になりかねない。しかし、これが考えられる最悪のラインだとすると、この最低値よりは悪くなりようがないと、捉えることもできる。それだけが一縷の希望と思えるところが、空恐ろしい。

 安倍首相は国会の答弁では、批判されると逆上してわめき散らす。本題からズレたはぐらかし答弁で嫌味ったらしく野党をののしる。感情のコントロールができないガキそのものだ。世襲のボンボンだから耐性がないとはいえ、これが60を過ぎたいい大人だというのだから呆れ果てる。私の半生の記憶でも、こんな幼稚で傲慢な内閣総理大臣を見たことはかつてなかった。
 思想・信条以前に人間としての品位が酷すぎる。こんな男が今もこの国の首相として収まり、権力を握っていることに、日本人は、恥辱を感じないのだろうか。メディアも国民も、平然、当然という顔をしていることが、私にはむしろ不思議でならない。

 安倍政権は元々清廉さや品格、知性を期待されていない分、ちょっとやそっとのスキャンダルは平気の平佐。安倍政権に親和性と安心感を感じているらしい多くの日本人。それに異議申立てをしても、もはや始まらない。私はそう考えている。
 悪政がはびこると、人々はそれに麻痺し、自ら望んで支配されるようになる原理がある。一種の思考停止状態に陥るのだ。
 それは臆病の名にも値しない、鈍感にあぐらをかいた悪徳。
 人々は、隷従するやいなや、自由をあまりにもあっけなく、甚だしく忘却してしまう。そうなってからでは、再び目覚めて、それを取り戻すことは不可能に近い。今の日本社会に蔓延しているのは、この卑しくも鈍感な自発的隷従ではないのか。

 どんなに生活が苦しくても、政権が何をやっても、自分でモノを考えず、「全てはお上―国の思し召し」と、言われることに従っている方が楽だというムードがある。国民は暴政を暴政とも思わなくなり、唯々諾々と安倍政権に従っている。人々はリーダーシップと独裁の区別もつかず、人権意識などというものは希薄になって、民主主義の手続きを蔑ろにされても、怒りを感じなくなる。今、ニッポンは、じわじわと空気が広がるようにそんな過程のさ中にあるのではないか。
 今の日本人は、長年のDV夫の暴力に耐えているうち、DV夫に慣れて依存症になったDV妻のようなもの。両者は共依存の関係にある。しかし、そこにけっして愛はない。

 私自身は、耐えるDV妻、あるいは半ば眠っていられる茹で蛙でいるより、鎖から放たれた寒さに耐える野の獣でありたい。
 自分でモノを考えなくなり、心の自由を一度失ってしまえば、隷従を隷従とも思わない一端末でしかないロボット人間となってしまう。

 安倍一強の現状に、実は自民党議員が驚愕している。党内からも「そんな器か」と首を傾げられているトップに高支持率を与え、長期政権を望む国民の倒錯。これは悲劇というより、笑えない無様な喜劇だろうか。
 この奇妙な安泰と、停滞に対して、吹けよ風、呼べよ嵐と私は呪い続けている。そして大地の力よ、この舞台を根こそぎ揺らせよ、首相官邸を直撃せよと。

 日本人が安倍政権というDV夫に依存し、スマホを見て現実を忘れた気分でいられる時間は、もうあまり残されていない。自ら変わろうという気がないのなら、外からの力―外国か宇宙からか、何らかの外圧が、否応なく人々が変わることを求める時が来るだろう。「世界に誇る日本の精神」を自称するなら、日本人自身が行動をもって、それを実証しなければならない。悪しき停滞は宇宙の法則からして、これ以上は許されず、凝固は解かれなければならない。
 これは予言ではない。私の心底からの呪言である―。

 




 

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