ビアンチェンマイ掲載の原稿

Vol.41


岡山の高校を卒業してスグの、まだヒゲも生えぬ十八歳の時、一九六九年の春、僕は神戸から大型貨客船に乗ってインドのボンベイに上陸した。今から三十三年も昔の話だけど、当時の日本には僕の「はまり処」はなくって「自分の道」のようなモノを求めて日本脱出したのだと思う。
 そして、一昨年の暮れ、四十九歳も終わる頃、日本での「はまり処」を失った中年の僕は再び「原点」に戻りゆくかのように「自分の道」を求めて日本脱出したのだ。この十八歳と四十九歳の「日本脱出」は年令を超えてゆく「命がけ」なる必然性という点で共通していて、十八歳の旅は二年間で地球一周という「移動型」だったけど、四十九歳のはインドのベナレスに半年いて、その半年の間に二回耳にしたタイの「PAI」という街に帰国途中チョット立ち寄ってみたらスッカリ気に入ってしまい十ヶ月滞在してしまっているという「滞在型」なのだ。半年のたびの予定だったのに今では「PAIに定住しよう!!」と強く本気で想ったりしている自分の人生の強い「成りゆき」に驚いたりしている始末だ。
 「PAI」はタイ北西山岳部の人口三千人弱の山の町で、チェンマイからオレンジ色のバスで四時間の処。さらに四時間山に向かってバスに乗ると「メーホンソン」だ。二つの大きな学校と警察署、役場、病院が大きなコンクリートの建物で、あとは昔ながらの木造建築に混ざって「二十一世紀のPAI」の「いのち」がふくらみ拡がろうとしている。この町に初めて旅人が来始めたのは五年前とも八年前とも聞くが、この一〜ニ年は特に「PAIブーム」を感じさせられる旅人の動きが著しくって、こんなにも世間知らずの僕の耳にさえ届いてくるものだから。
 季節次第で夜になると無数に光放つホタル達。天候次第で生きモノのようにふくらみ沈みゆくイノチ命した可愛いじゃじゃ馬「パイ川」、アチコチの山中の点在するウォーターフォールと山岳民族の家々、雨季になると「こんなに出現していいのか」と心配してしますほどの美しくも七色の虹達、優しい山並み風景とそれに溶けゆくかのような優しい町の人々の笑顔、そんな優しさと穏やかさの渦に巻き込まれゆくように、タイの心あるアーティストや「新天地」で何かを生み出そうとする男女(ひと)達が集まり始め、その流れに呼応するかのように「何か」を求め続ける嗅覚にたけた旅人達も「PAI」を目指して集まり始める今日この頃。
 月二千バーツの借家に住む僕の日常生活はまだ夜が明けぬ市場から始まりゆく。市場の前に屋台のコーヒー屋さんが在って「ウドン」という五十四歳の男が面白くって、そこで毎朝コーヒーとお茶を飲むというが僕の大切な「儀式(セレモニー)」なのだ。その三時から開いている早朝の市場でモヤシや豆腐やキノコを買って一日が始まる。
 ここ「PAI」にやってきたかというもの、今までにない「意欲」や「試み」「アイデア」が湧き起きて「イノチ命いのち」している。これは僕がこの町の人達やこの町に魅かれてやってきた男女(ひと)達に出会ってゆく中で生まれ出てきたモノで「PAI」にはそういう「緑が起きて緑起がいいなあ」と言わせる人の「いのち」の気が満ちていて「成りゆきエネルギー」が渦巻きゆく「聖地」であって、僕にとってはやっと出会えた「はまり処」なのだから。「変わり目」を感じる旅人にオススメの町。
                             「PAI」人とろんより。


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