日記88
私は、若いころに見た映画インディジョーンズで主人公の男性が・・・確かハリソンフォードだったと思う。 大学教授で若い生徒を相手に授業をしていたのを見て、心のどこかで大学生の体験がしてみたいと思っていた。でもそんな夢は誰にでもある非現実的な夢で、まさか自分がその体験を実行に移すとは思ってもいなかった。 何だ!記憶力の問題なのね!! ちょうど十代はじゅん&ネネが始まっていて、高校2年生で休学届けをだして、そのままだったので、私はまだ高校を卒業していないことを思い出して、もう一度女子高生になることを決心した。 そのときの気分はとても楽しかった。自分が44歳で女高生になると思うだけで、可笑しさがこみ上げてくる。 いつもそれまでの自分は、高校をちゃんと卒業できなかったことがなんとなく学歴社会の価値観から外れていて、残念に思えたことが多々あった。 特に八丈島の選挙に自然保護を訴えて立候補したときも、卒業は駒沢学園女子中等部で終わってしまうことに、引け目さえ感じていた私だった。 それが定時制に入れるのは高校卒業をしていない人に限っていると聞かされて、そのとき初めて、卒業してなくてよかった!!と変な優越感に浸ったのを覚えている。 周りの友人たちもうらやましがってくれたっけ。いいわねぇ女子高校生になれるなんて。と・・・・ そして八丈島の定時制に通って4年間、成績優秀な女高生ライフを満喫したわたしは卒業と同時に、センター試験も受けて、平均点75。 それならば留学っきゃないと思い、TOFULを受けて3回落ちてやっと4回目に合格点をとり、ハワイのカレッジへ留学。 48歳の夏に、新たな自己実現のカリキュラムが始まった。 お金は一銭もなかったので母から姉から留学費を借りての渡航だった。みんな私を不憫に思ったようだ。本人はまったく意に介してなかったけど。 もちろん離婚の慰謝料などは頂けない。彼がとても貧乏なのを知っていたから。 ある意味で新しい人生の可能性に満ちた門出だが、現実のほかの側面では・・私は別れた夫が恋しくて、大好きな八丈島の生活に別れを告げることが悲しくて、新たな人生の旅立ちのハワイ行きの飛行機の中で一晩中嗚咽が止まらなかった。 私の隣は新婚さんだったと思う。幸せムードなハワイ行き飛行機内で、こらえてもこらえても泣き声が漏れてしまうほどの悲しさの中での48歳の再出発だった。
1998年8月8日の11時30分に八丈島を飛び立って、時差の絶妙な配分のおかげで 1998年8月8日の11時30分にマウイ島のKahului空港に私は降り立った。 そのときから 10年間、カレッジライフだけではなく、ハワイという時空間のなかで、ほかの世界を見て体験して、学んで、自分で自立して好きなことをして生きてゆける人生を模索実現しきた。 その体験の多くは決して楽しいものではなく、ハワイで体験しているから、自殺も発狂もせずなんとか頑張っていられたのだろうと思う。ハワイの気候のよさ、人々の明るさ、そして海と空の美しさなどが、厳しいカリキュラムをこなす身には言葉で言い尽くせないほどの救いとなった。 ちょうど二番目の夫Sも外国人だったし。彼を通してほかの文化を持つ人との生活や、感覚の違い、など特別な体験もさせていただいた。これらのことに関してはほかの章を設けてちゃんと書かなくては、と思っている。 また、夫Sとともに贅沢三昧のハワイアンホームレスも体験できたことは貴重な学びだったとつくづく思う。一度体験してみたかった野外生活。それを最高の条件で体験できたことはすばらしかったと思う。 野宿やテントのような簡易な宿泊施設で日々生きることは、ヨガ行者のようにシンプルな毎日で、そこにあるのは夜明けの美しい海岸、森の中の静寂と神秘、瞬く星空など、極上の贅沢とも言えた。私は本当に野生児だと思う。人工的な生き方よりも素朴な大地のにおいとともに生きてゆく人生が私には向いている。 たった2年と2ヶ月の想像を絶するような結婚生活だったけど、フリーエネルギーに取り付かれたマッドサイエンティストの夫Sから学んだことは計り知れない。 こうして、私は新たなカリキュラムを通して、自分が体験したいことは体験できることを、自己実現が可能だということをますます、認識するようになった。 あの八丈島の町長選も、まったくの素人が、お金も無く、唯立候補しよう・・という決心があって、動き始めたら、道が開いてゆくという、不思議な体験だったが、既成のやり方などに固執しなければ、道は必ず開けると信じています。 写真はマウイでのワークショップのオーガニックディナー。
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