日記59
一般の方にはあまり知られていないけど、草の根の運動家や、ミュージシャン、芸術家にはとても有名な詩人のナナオサカキ氏が23日亡くなったと言う。 その前からお名前だけは聞いていたので一体どんな方なのか、と思っていたけど、会ってみると本当に自然体の、彼の体から風が流れるようなまるで妖精のような老人青年でした。存在感の軽さと深さがにじみ出ている人でした。 私も年取ったらあんな風な雰囲気を出したいなと、思ったのを覚えています。 今までも伝説の人だったけど、肉体を脱いでますます伝説の人となってゆきそうです。 前日まで元気で、その次の朝、なくなるなんて本当に達人的な死に方、良い生き方をしてきた結果だと心から思います。 きっとまっすぐ天上界のふるさとに帰られたような・・・・。 私もそんな死に方ができるように精進したいと思います。 実は今日は、私の母のことを書こうと思っていました。 私の母も11月13日に肉体を去りました。86歳でした。そしてナナオさんが亡くなった12月23日に49日の法事を行いました。 母が昏睡状態になった11月2日から、私と3名の姉たちが病院に泊まりこみで、彼女の最期を見守っていました。私は6日のマウイへの飛行機の予約を、ぎりぎりの11日まで引き伸ばし、彼女との最後の時間を持ちましたが、11日にワークショップの約束があり、意を決してマウイ島へ出発しました。 マウイ島でワークショップの始まりの日、宿泊先で、午前2時ころ、ベッドの中で眠りにはいる直前に、誰かが私の左腕にそっと触れたような気がしました。そのあと私はとても安らかな気分で眠りに入ったのですが、そのとき彼女が息を引き取ったことをあとで姉のメールで知らされました。とてもリアリティのある感触で、彼女が肉体を離れて、まず最初に来てくれたのが私のところだったのだと思います。 母は世田谷区、用賀の洋品店の長女として生まれたこともあり、子供のころから新しい洋服を着せられていたということでした。そのせいで着道楽なところがあり一時はそれが行き過ぎて子供たちから顰蹙を買ったこともあります。子供たちが巣立ったあとの広い自由が丘のマンションが、彼女の服であふれかえって足の踏み場もないくらいになっていましたから。それも非日常的な洋服ばっかりで、だれも着ることができません。この介護マンションに引越しするときに、ファッション帽子が100個近く出てきたときには絶句しました。私が一番文句を言っていたように思います。だってかたずけ役を買って出てしまったので、・・まだ使える衣類を捨てるのは、とても苦しい作業でした。もちろん色んなところにもらってもらいましたが・・それでも出てくるわ・・出てくるわ。洗濯機で洗えないような高いものばっかり。うんざりでした。 でもそのおかげで、八丈島での質素な生活から、マウイ島へトランクひとつでわたり、夏の衣類しかもっていなかった(ということはタンクトップとジーンズだけ)私は日本に帰ってきて彼女が持っていた服を着る羽目になりました。今でも彼女の洋服を私は来ています。特に冬のコートはウールで今の自分が買おうとしたらとても高くて手が出ないようなものを着ています。 靴もバックもおしゃれなものはすべて彼女のものであることにいまさらながら驚いています。 冬の季節に私がちょっと良いものを着ていたら、それは間違いなく母の形見だと思ってくださっていいと思います。 芸能界の仕事をしている私なので派手なものはOKだと姉たちも思っているので、 「NENE、あなた着ない?」と持ちかけられます。私は「いや〜ちょっと毛皮は・・」 愛するお母様・・・・しかしあなたは派手だった。 そんな次第で、いつも年賀状を送ってくださる皆様。来年はお返事を控えさせていただきます。ご了承くださいませ。
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