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第八回 「国ゆずり」から「国つなぎ」神話へ


 古事記の「国ゆずり」神話をご存知でしょうか。先に国を治めていた国つ神が、高天原に住む天照大御神を筆頭とする天つ神に統治権を譲る話です。天照大御神に使わされたタケミカヅチ達が出雲国に降り立ち、国つ神の大国主に迫ったのです。古事記では、国つ神が退いたことによって天つ神との闘争は避けられたということですが、真偽のほどはどうだったのでしょう。
 今も昔も、人間は多くの対立項を創り、争いを続けてきました。世界のどこかで常に起こっている宗教戦争。歴史は、日本でも宗教権力を巡って悲惨な戦いが起こったことを教えてくれます。飛鳥時代の五八七年、崇神派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子の対立は、数万の人々を巻き込み河内一円を血で染めました。物部氏は滅ぼされ、子孫は各地に離散。16歳で戦いに参加した聖徳太子は、和の精神を伝えるため戦場跡に太子堂を建立し、守屋の位牌も安置しました。
 それから約千三百年後、明治政府が打ち立てた神仏分離政策は、今度は廃仏毀釈の嵐を巻き起こしました。神社と同じ敷地に建つ仏堂の多くは廃され、少なからぬ僧侶が帰俗しました。興福寺五重塔が25円で売却され、金具をとるために焼却されかかったという話もあります。政府の掲げた「純粋神道」運動は、半世紀あまり後、さらなる悲劇を展開することになるのです。

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 権力者がどのような理念を掲げようとも、庶民の日常生活の中では、神仏習合が失われることはありませんでした。長い時を経て日本の自然の中で既存の文化とバランスをとりながら和合していく異なる文化。新しい風によって、自らを見つめ直す機会を与えられたかのように。お伊勢詣り、寺社巡礼、修験道など、宗教の衣を着つつも、実のところは諸国の風土に身を置く自然回帰の旅は、いつの世も人々の夢でした。芭蕉の遊行もまた然り。各地をつなげるラインの途上で詠んだ句は、自然を愛で、自然から学んだ賜物です。宗教というよりも、自然が育んだアニミズムに近いかもしれません。どんな名目を被せられようと、太古から続く自然のエネルギーは常に存在していたのです。時には海を越えるほどの長大なラインをつなぐ巡礼は、全体性を思い出させてくれる強力な手段だったのでしょう。

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 天理市丹波市町は、奈良時代以前からあるという古道、上つ道(地元の呼称は上街道、旧街道)が通る古い町です。その中央に建つ市座神社には古の時代に丹波国より鎮座されたという妙見大菩薩が祭られています。昔、丹波から移住した人々がいたのか、または為政者同士の取引があったのか、とにかく彼の地とのつながりがあったのでしょう。大和を舞台にした時代小説などにもよく登場する丹波市。うだつの上がった古い屋敷群が、商売で栄えた往時を偲ばせます。自然に根ざした戦前までの文明が姿を消しつつある現在、このような街並みと身近に接することができるのは幸いなことです。しかし建物の中には、外から眺めるだけではわからない生活があります。
 市座神社にお参りしてから、北隣の百年以上前に建てられた古めかしい店に入ってみましょう。その昔、神社境内の寺子屋に墨や筆、紙を販売していた堀文具店です。天理教の教祖、中山みきが生存中に自動書記で啓示「お筆先」を著した筆記用具も、この店が御用達。「お筆先」を製本する際には、店主が井戸水で禊ぎをしてから取りかかったそうです。今からちょうど百年前、この堀家から海を越えてインドへ亘った志高き若者がいました。

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 時は明治。藤原鎌足の菩提寺の役割を果たしていた談山神社にも廃仏毀釈の嵐は押し寄せていました。多武峯談山神社戒光院より帰俗した堀結城が、知人の縁故で丹波市の屋敷に移り住んだのは明治7年のこと。2年後に生まれた長男の至徳は、幼い頃から仏教の勉学に励み、仏教復興運動を興した室生寺住職丸山貫長に師事。衰退した日本仏教に疑念を抱く日々が続き、明治34年5月には藤原鎌足公を祭り、「洋行せんと念おこる」と日記に記しています。丸山貫長との縁で知り合った岡倉天心(東京美術学校校長)も、西洋文明一辺倒の政府政策を憂いて、日本美術の源流を探るべく渡印を望んでいました。天心と共にインド行きを画策した至徳は、その年の晩秋に横浜港から出航。翌年1月インドに到着、天心が東洋宗教会議の計画に奔走する一方、至徳はアジアで初のノーベル文学賞を受賞した詩人、タゴールの家に滞在し、超然とサンスクリット研究に専念します。天心の帰国後もインドに留まった至徳は、翌年、インド各地へ遺跡巡礼に旅立ちます。その途上、現パキスタン領ラホールで破傷風を発病し、11月24日、27歳の若さで世を去ったのでした。
 今年は日印国交樹立50周年記念。ビシュバ・バーラティ大学(前タゴール学園)では数々の記念イベントが企画されています。しかし、百年前、大学初の外国人留学生になった堀至徳の名を知る人は、地元、天理市でもほとんどいません。至徳の死の翌年、チベット研究家河口慧海によって生家に届けられた遺品は、至徳の甥である堀廣良さんによって大切に保管されてきました。稀に歴史研究家が訪れる時以外は、尊敬する伯父の話をほとんど口外することがなかった廣良さん。しかし87歳になった現在、貴重な資料をどのように後世につなげていくかという問題に直面されています。

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 自己と異なるものとの出会いは、自己自身の成長を促進します。他者を受け入れ、つながることによって新たに誕生する、より深みのある自己。そして、波乱を経てもなお、すべてを調和へと導いてくれる自然。太古の人々、神を奉じた国つ民と天つ民、仏をもたらした人々…、古来から多くの人々を受け入れてきたこの大和を思い、苦難を超えてここから各地に巡礼した人々を思う時、私はひとつのつながり、和を感じざるを得ません。しかし現代に至って私達は、和を断って自然や人々を支配し、世界規模で「国ゆずり」を強制し続けています。母なる地球は、現代の混乱もスムーズに調和へと導いてくれるのでしょうか。私は、次代の行く先は「神の国ゆずり」ならぬ「人の国つなぎ」にかかっていると痛切に感じています。その第一歩は、まず一人一人が、今いる地とつながることから始まるのでしょう。今はすべての時に通じ、ここはすべての大地とつながっているのですから。
 「今度、インドから友人達が来たら、絶対、こちらにご紹介させてください」。お声がけすると、上品な廣良さんの表情が、ぱっと明るくなりました。日本とインドのつながりを育むことによって、若くして亡くなった至徳の人生を輝かせたい、言葉の端々から廣良さんの思いが伝わってきます。荘重な中にも清浄さが感じられる、至徳が勉学や瞑想に励んだ部屋。「つなげていかんと念おこる」、そんな声が聞こえてきそうな空気です。耳を澄まし目を開ければ見えてくる「国つなぎ」神話。私はどんなラインをつなげることになるのでしょう、大いなる和の地、ここ大和から。

【参考文献】
『遡河97年8』より吾妻絅子「日本とシャンテイニケトン」/春日井真也『インド』同朋舎/貴重な資料を貸して下さった堀廣良氏とその機会を与えて下さった天理市宮城医院の清水郁子事務長に心より御礼申し上げます。

(イラスト=金子亘)


名前のない新聞No.113=2002年7・8月号に掲載