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なまえのある家「Rupa」

第七回 奈良に吹く海風

 奈良には海がありません。しかし、沖縄に10年間住んでいた亘は、時折、天理でも海が近くにあるような風が吹く、と言います。四方を山に囲まれているのに、なぜかたなびくような開放感がふりそそぐ奈良盆地。その盆地の東側の山々のふもとに、「山の辺の道」という日本最古といわれる道が残っています。大神神社の御神体で知られる三輪山を南端に、北に向かって、巻向山、龍王山、高円山、春日山、若草山と連なる山裾を、田畑や古民家、古墳や神社の間を縫うようにして通っている小道です。夕暮れ時、ここから、盆地西方の生駒山から金剛山まで連なる山々を眺めていると、下方に広がる大和の里一帯が、一瞬、穏やかな海のように見えることがあります。しかし、古い歴史を調べると、それも単なるファンタジーではないようです。

 太古、奈良盆地は海でした。地質時代は海の湾内で、約六千年前に地殻が隆起してからは湖沼となったといわれています。現在の奈良盆地の東側山間部には、縄文早期頃から人が住んでいたようで、天理でも数々の縄文遺跡が発見されています。縄文から弥生時代を経て、ようやく水面が五十メートルほどまで低下し、生活の場が山裾に広がりましたが、当時は「水の辺の道」に近い状況だったのかもしれません。「倭は国のまほろば 青垣 山隠れる…」と日本武尊命が詠んだ弥生中期になって、ようやく大地が乾燥し、盆地一帯に人が住めるようになったのでしょう。それでも、川は今よりずっと水量が多く、最も重宝した交通手段は船でした。河内から大和川を上って、平地に達した辺りに位置する磯城郡。「敷島の奈良の都の…」と親しまれてきた「敷島」が語源ですが、「シキ」は琉球語で船を着ける意味、「シマ」は場所、村、集落などの意味。天理の町名や字名にも「海知町」や「大海」という言葉が残っています。仏教養護派の蘇我氏に滅ぼされ、各地に離散したという物部氏が信仰していたという「石上(いそのかみ)神宮」の名も、「磯の神」を連想してしまうのは私だけでしょうか。

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 天理の人々の記憶に、まだ生々しく残っている海のイメージもあります。我が家の最寄り駅である「長柄駅」。現在、「新泉(にいずみ)」という町名ですが、古くは穂積(ほづみ)と呼ばれ、神武天皇の東征の際、天皇に反抗して滅ぼされた「猪祝(いのはふり)」という土着系人物の伝承が残っている地でもあります。その新泉町星山に建つ「大和(おおやまと)神社」。実在した最初の天皇と言われている崇神天皇(古墳は天理市柳本町)の時代に疫病や飢饉が起こり、神の祭り方に誤りがあったのではないかと思われ、皇居内に国社と共に祭っていた天照大御神を、皇居の外に出すことにしました。そして国社としての日本大国魂大神(大地主神)を山の辺の道沿いに祭ったのが大和神社の始まりです。生命の生育発展、海外航海の安全を司る氏神様として、遣唐使の出発の際には必ず海上安全を祈ったと、万葉集にも詠われています。
 相次ぐ火災で新泉に移されたのは、千年ほど前のこと。以来、近隣の有名神社に比し目立たない存在として、静かな時を過ごしていた大和神社が一時注目されたのは、太平洋戦争時、戦艦「大和」に分御霊を祀ったことがきっかけでした。長柄の西側一帯の田畑や墓地を掘り起こし、大和海軍航空隊の飛行場が建設され、鎮守の森には格納庫として戦闘機が隠されました。波動砲やワープ装置もあるアニメの「宇宙戦艦大和」が地球を救うために旅立ったのとは対照的に、戦艦大和は「一億総特攻の先駆け」として片道分の燃料を積み、沖縄特攻へと船出したのです。本殿の手前北側にひっそりと建つ、徳之島西方に撃沈された「大和」と運命を共にした人々の霊を祀る祖霊社。その海と大和をつなぐ、まだ新しい記憶です。

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 戦艦大和が辿り着けなかった沖縄には、古くからニライカナイ信仰があります。海の彼方にあり、祖霊がそこから訪れ豊饒や幸をもたらす明るい理想郷であるニライカナイ。沖縄本島では海上のイメージが強いようですが、八重山地方にいくと、海底がクローズアップされます。海底の竜宮城でしょうか、ニライとは、海を含む大地であるという考えもあるようです。私が沖縄の御嶽(ウタキ)で感じるのは、母なる地球と直に対話できる場という印象です。大地の奥深く、地球の中心にまでつながっているかのような強烈な地場。ウガン(御願)する女性の内なる魂と、地球の内なる魂。そこには、言葉では到底表現しえない、人と神の根源的な交流があります。
 山に囲まれた大和で湧き起こる海のイメージ。海に囲まれた琉球で湧き起こる大地のイメージ。そこに感じられるのは、太古からなされてきた人々の大いなる旅路の記憶です。静かな大和の内海に辿り着いて、旅の休息をとる太古の人々。彼らを迎える山の辺の民。琉球語と古倭語の共通祖語を辿る研究もあるそうですが、そんな長閑な光景で交わされた言葉は、どのようなものだったのでしょうか。

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 列島の西北にあるユーラシア大陸から、文化的にも宗教的にも日本は多くの影響を受けてきました。しかし最近では、東南に広がる太平洋からの影響についても言及されるようになっています。奈良にいながらにして感じられる、目には見えない強力な海のエネルギー。「東海道本線」は奈良を通っていませんが(便利になると開発が進むので、これ以上便利にならないで欲しいと願っている私達…)、国土地理院の活断層図を見ると、山の辺の道の真下には活断層が通っているのです。さらに話を大きく膨らませましょう。山の辺の道をさらに下ると、そこは修験道で有名な吉野と熊野。さらに南下すると、黒潮の流れを生み出す太平洋の広大な海底。そこは、環太平洋造山地帯でもあります。大和には、海から生まれた山があったのです。

■参考文献

天理市史編さん委員会「天理市史」/倉塚華子「巫女の文化」平凡社/吉田甦子「奈良謎とき散歩」廣済堂出版/由良哲次「古琉球語で解明する邪馬台国と大和」学生社

(イラスト=金子亘)


名前のない新聞No.111=2002年3・4月号に掲載