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なまえのある家「Rupa」

第二回 Rupaの看板アーティスト

 4月8日は、ドイツ製、サスマンのチェンバロを持ち込んでのチェンバロコンサート。演奏者は、10年来の友人である川井博之君。ピアノの先祖とも言うべきチェンバロが活躍していた時代には、コンサートホールで音楽を聴く習慣はなく、普通の家で和気あいあいとした音楽の集いを催すのが一般的でした。非常に繊細な楽器なので、現代の大ホールでは、音の純粋な表情をほとんど聴きとることはできません。しかし、不思議なご縁で今まで何度もライヴを開催してきたRupaですが、クラシカルな音楽は今回が初めて。素朴で神秘的な中世・ルネサンス音楽が大好きな私も、チェンバロは非常に静かな場所でしか聴いたことがありません。Rupa独特のざわめきとチェンバロの繊細な音がどこまでしっくりするのか予想がつかず、今回は実験的な試みでもありました。
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 コンサートが始まってしばらくは、演奏者と聴衆の緊張感のからか、私自身の心がざわついていたためか、チェンバロの音が自分の中にストレートに入ってくれません。しかし、曲目が進むにつれて、部屋全体になんとも言えない一体感が生まれ始めたのです。聴衆は各々のスタイルでリラックスして寝転がり始め、楽器の下で寝そべって聴く人達もいました。子供達の声、人々が部屋を行き交う足音、畳の上で寝返りを打つ音。それらが渾然一体と調和して、ひとつの心地よい響きになっているような感じ。私も、演奏者の真後ろに寝転がって聴いていたのですが、演奏している川井君の足の間から、楽器の下に潜り込んで丸まっている小学生のY君の表情も観察できて、なんとも不思議な印象。川井君の演奏が興に乗り始めたのがダイレクトに伝わって、周囲の音はまったく気にならなくなり、心が静かになってくるのが感じられます。「ゴロ寝して聴けるってええなあ」。曲間に聞こえてきたつぶやきに、思わずうなづく私。しばし、恍惚のひととき…。
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 デザイン的にも機能的にも充実した大ホールが数多く建設されている日本。若手から大御所まで、看板ミュージシャンを主役としたライヴやイベントが毎日どこかのスペースで開催されています。しかし、その場に集まった聴衆の主体性が話題になることは、さほど多くはありません。Rupaでつくづく感じるのは、聴くという行為自体がクリエイティブであるということ。見たり聴いたりするすること、何かを受け入れることが、即ち創造につながっているのです。
 「みんな、楽しみ方が上手だなあ」。これは、初めてRupaの集いに参加する人がよく言ってくれる言葉。ミュージシャンの音楽もさることながら、聴衆のオープンで素直な態度に感動されるようです。音は沈黙の中にこそ、響きます。しかしその沈黙はあくまでも内的なもの。先入観や偏見から解き放たれた自由な心。どこまでも広がるくつろいだ意識。どのような環境にいようと、そのような内的沈黙があれば創造的に生きることができるのかもしれません。現実を呼び寄せる沈黙の力。私の大好きなルネサンス時代のイギリスの作曲家、ウイリアム・バードはインスピレーションが訪れる状態について、次のように表現しています。「瞑想する者の心が目覚めて求めている時には、それ以上ふさわしいものがないほどの旋律が、まるで自分の方からいそいそとやって来る」。
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 コンサートの投げ銭タイムが終わった後も、豊さんの詩集出版記念パーティで盛り上がります。いそいそとRupaにやって来る多くの出来事。それらを呼び寄せた友人達のくったくのない笑顔。チェンバロ・コントラバス・ハープによる即興をBGMに、詩の朗読が始まりました。本当に、Rupaでは一人一人が看板アーティストです!
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★コンサート翌日に届いた川井博之氏からのメール:
 昨日はよい体験をしました。集まった方々が心を開いていてくださったのが、なかなか仕事の上でめぐり合えないことなので感動しました。寝転がってもらえたおかげか、これまでで一番よく聴いてもらえたという気がしています。これからも未熟ながらも演奏を続ける上でずっと力になってくれるコンサートだったと思います。ありがとう。(略)ああいう音楽を、音楽が精神的な現実であることを知っている人々の前で演奏できるというのは、恵まれたことです。そういう機会が与えられるよう努力したいと思っています。

(イラスト=金子亘)