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なまえのある家「Rupa」

礼から始まるもの

 この冬は、まだ灯油を買っていない。我が家の主な暖房は、薪ストーヴ。木から生じる火は、何とも言えない温もりを与えてくれる。それは、木を育ててくれた広大な自然や、木を分けてくださった人々の温もりでもある。朝起きてから夜寝るまで、恩恵に感謝して暖をとる日々だ。
 そして、その木の大半は、広島の山奥で育った。広島に暮らす私の両親が、柳生の我が家に来てくれる際、有り難いことにわざわざ木を運んでくれたのだ。それは、杉だけでなく、栗、松、桜、樫、楠、桐、木蓮など、実に多様な樹種が含まれる。亡き祖父がせっせと蓄えた薪もあれば、大工だった祖父の祖父が建てた納屋の解体時にでた古材もある。長い歳月と様々な人の手を経て、柳生にきてくれた木。そんな個性的で表情豊かな薪も、ストーヴにくべれば数時間で灰と煙と化してしまう。何とか、形に残せないものだろうか。
 ついに、亘が手を動かし始めた。彼は何かあると、頭や口ではなく、まず手を使う。薪を小さく割って、ノミで削り始めた。テレビのない静かな我が家。夜、ストーヴのそばで黙々と木を削る。手から放れた木は、蛇やサンショウウオやツチノコのように不思議な形に生まれ変わっていた。思わず手に持ち、撫でてみたくなるような…、木の匙だった。

 今年は、多くのものが目に見える形になっていく年なのだろうか。柳生二蓋笠会の皆様とのご縁で、柳生新陰流(江戸形)に関連する企画が、いよいよ形になり始めた。1月は、講師の池之側浩さんと小説家の多田容子さん、そして柳生二蓋笠会の皆様のご協力によって、レクチャーと演武見学、新陰流体験という内容のセミナー。Rupaでレクチャーの後、正木坂道場に移動。夜は、「やまんと」の自然農メンバーの差し入れも加わった、賑やかな鍋・交流会。関係者の皆様、そして目には見えない多くの存在に、感謝せずにはいられない。

 形あるものは、目に見えない多くのものに支えられている。形の奥に秘められた、その心を見る目。知識も経験もない、まったくの素人ながら、古武術関係者の皆様とお話をするにつけ、その心の目の大切さを痛感する。
 例えば、池之側さんのレジメによると、礼で大切なのは、形ではなく心であり、それは逆説的なことに、スローガンではなく技術論へとつながっているという。二蓋笠会会長の畑峰三郎先生曰く「相手の隙をうかがったり、睨みながら頭を下げるのは礼ではない。『どうぞ首をお切りください』という気持ちで頭を下げるのが礼」。
 つまり、自分の生命を差し出しているのだ。そこでは、自分の生命を守りつつ、相手に攻め込むという武道の一般的なイメージが反転する。自己を手放した素の状態。ゼロ、0、レイの境地。0に還ること、即ち無の境地こそが、礼の心なのだろうか。自分を無にすることで生ずる礼の形。そこには、自己を超えた、大いなる生命がかかわっているのかもしれない。

 最近、感銘を受けた本に、南島に暮らす古老たちの聞き書きがある。彼ら先人たちの習慣は、まさに古武術的だ。畑仕事の前には、「畑の神様、いつもありがとうございます。今日は草取りをさせてください。煙を出しますが、お許しください。無事終わりますように、どうかお守りください」と祈る。仕事が終われば、「神様、今日はありがとうございました。お騒がせしました。お陰様で無事、草取りもさせていただきました。欲ではありますが、作物が育つようにお守りください」と祈る。きこり仕事で山に野宿する前には、弁当を取り分けた飯などを大地に置き、「今宵一夜の宿を貸してください」と柏手を打って許しを請う。翌朝は、感謝の祈り。
 大自然との調和、目には見えない存在との真摯な交流。日常生活のなかで折々に礼を尽くす姿は、喩えようもないほどに豊かで、美しい。その心こそが、自然環境を守り、地域社会を育んできたに違いない。古来から、多くの民俗祭祀や神事が、旧暦1日、つまり月齢がゼロになる新月に行われてきた。日月のリズムに合わせてゼロに戻ることによってなされる、次元を超えた宇宙的な何かとの交流が、その真意だったのかもしれない。
 礼に始まり礼に終わる古武術。自己を手放すことで与えられる、大いなる力。それは神や祖霊との一体化と呼んでもいい。その先にあるのは、決して戦いではない。むしろそれは、究極の平和なのではないだろうか。
 
 礼という形が表出することで、自我が退き、場が切り替わる。それは大袈裟な儀式だけに限らない。大切な料理の前にエプロンをつける、食事の前に「いただきます」と言う。そんな小さな形だけで、何かが変わってくる。より良い何かが、招かれるのだ。イギリスのパワースポットは、「レイ」がつく地名が多いという。私の場合、聖地で降りてくる唄は、レとラの5度、レイとラーの響きが多い。 
 また、我々の先祖は、古来から器を生み出すことに情熱を傾けてきた。力強い模様が刻印された縄文土器。弥生時代には、祭祀のために特別の土を用いたカワラケが焼かれ、死者の魂を乗せる馬型埴輪が誕生した。目には見えない何かを内に招き入れるための、やむにやまれぬ心遣い。良き器は良き中身を招き、良き中身は良き器を招く。太古、きっと人は自らが最高の器となるために、たゆまぬ精進を積んだにちがいない。古武術の形に、南島の古老の生活に、その精神はとぎれることなく流れていた。
 その流れを、私たちの代で止めてはならない。流れをすくうことができるのだろうか。ワタルの手から生まれた、個性豊かな木の匙。卵から生まれたばかりの水性動物のように動きださんばかり、波のようにくねる柄。匙を投げている場合ではない。もう一度、0へ還ろう。そこからこそ、より豊かな今が、始まるのだから。

●ブログにイベント情報を掲載してますので、是非、ご覧ください。
http://rupa.exblog.jp/(アジア食堂Rupa)


アジア食堂 Rupaからのお知らせ

 奈良盆地の東、奈良、三重、京都に広がる山間部は奥大和・元大和であり、巨石に関連する聖地や縄文遺跡が数多く存在しています。このエリアにご縁を感じる方には、お話をお伺いして、関連すると感じられる地へご案内します。宿泊も可能です。お気軽に遊びに来てください。  rupa@kcn.jp 0742-94-0804


名前のない新聞 No.141=2007年3・4月号 に掲載