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なまえのある家「Rupa」

  月陰に照らされて 

  日出ずる処は、月出ずる処です。しかし、東という方角がもつイメージは、何よりもまず、日の出。さほど月の出と言挙げされないところが、これまた月の性格をよく表しているのでしょう。大きな日の周りを大きくめぐる地、地の周りを小さくめぐる小さな月。しかし地から見れば、同じ大きさの日月。宇宙の原理などはわからなくても、この地球にただ生きているだけで、世界が絶妙な陰陽バランスの元に成り立っていることが感じられます。
 バランスをとるという観点からみれば、陽が強調されればされるほど、陰も強調されることになります。今は日の印象も薄れてきた日本ですが、本来、国名に日を入れることによって、暗に月、陰のエネルギーを強める意図があったのかもしれません。天皇の地位につくことがなかった聖徳太子も、陰の役割に徹していたのですから。
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 陰である盆地や平野には陽が流れ、陽である山には陰が流れる―。現在、私が住んでいる柳生は、奈良の都の東北。その昔、東山中と呼ばれていた奈良盆地の東、大和高原に位置します。さほど険しい山間部ではありませんが、ここは陰のエネルギーに満ち満ちています。強烈とまでは言えないところが、あくまでも陰の趣。
 しかし、太古の自然がもっと残っていた、例えば江戸時代ぐらいまでは強烈と言ってもいいほどの陰のエネルギーだったのではないでしょうか。江戸末期に隆盛を極めた伊勢への「お陰参り」の激しい陽のエネルギーを陰で支えたのも、この東山中だったのかもしれません。「お陰をいただくため」、東へ向かった西国の民衆。明和8年4月26日からの19日間に大和を通った宿泊者、その数159万人近いという記録もあ
るほど。彼らはアマテラスへの参拝そのものよりも、お陰踊りを舞いながらの道中の方を楽しんだようです。明治元年にお陰踊りの禁止令が出て以来、すでに140年近く経つ現在。驚くべきことに、ここ東山中の田原地区や山添村では奇跡的に古老から古老へと伝えられ、今なお踊られているのです。時空を超えた陰なる存在とつながれば聞こえる、山中の木霊。「お陰でエエじゃないか!」。その心は、まさにお陰様。
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 数百にも及ぶ剣法が生み出された江戸時代。その源流を辿れば、多くが愛洲移香斎久忠が創出した陰流に行き着くと言われています。新陰流創始者の上泉伊勢守信綱は彼の弟子。その伊勢守は、弟子の柳生石舟斎宗厳に徹底して陰の大切さを説きました。曰く、「そこもとは、陽(技)を知って、陰(心)を知らない。人を切ることのみを考え、自分の心に切りこむことを忘れている」。新陰流に傾倒した石舟斎は柳生の戸岩谷で修行に邁進し、伊勢守が到達できなかった極技を会得することになります。ここに、かの有名な柳生新陰流が生まれたのです。
 陰の剣法の究極の技。それは剣を捨てることでした。素手になった低い姿勢で相手の武器をとる「無刀取り」。戦国時代に敢えて武器を捨てた剣聖は、陰陽一体となった、平らかに和する境地にまで至ったのでしょうか。もう、そこに剣の姿は見えません。江戸時代、徳川家御指南というかたちで日の目を見てしまった柳生新陰流は、最も本質的な陰の部分を目に見えぬ処に封印してしまったようです。そして、その処は…。
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 柳生に籠もって著した『月の抄』で、柳生新陰流の口伝二百三十余録を解いた柳生十兵衛。それによると、新陰流では自ら構えるのでなく、相手の心の動きに対応するようにして構えるといいます。構えのないところを構えとする心こそが、人を本当に活かす剣、いわゆる活人剣。戸口だろうが、柱だろうが、思うことですべてを盾とすること。陰とは、すべての盾を用いる、無刀の心。それによって人を生かし、自分も生きる心のことだったのです。ここで陰は、心から放たれる光に転じます。その陰極まりし処に出ずる陽こそが、生命の循環を誘うのです。
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 石舟斎が亡くなって、来年で四百年。現在、柳生で新陰流は受け継がれていないことになっています。しかし、石舟斎が修行した戸岩谷の奥、天岩立神社の巨大な磐座「天の岩戸」には今も陰陽のエネルギーが満ち、「一刀石」には月のエネルギーが眠っています。そして声なき声が立ち上ります、「見えないものを見よ。心の岩戸を開けよ。我らの奥義を伝えたい」と。月出ずる道では、杖は要らない。月出ずる処まで来たら、剣も要らない。その心を生んだ月が、今日も密やかに巨石を照らしています。

  尋行道のあるじや よるの杖
   つくこそいらぬ 月のいづれば
(『月の抄』より)

・参考
中世古祥道『増補愛洲移香斎久忠傳考』南勢町教育委員会
田原地区伝統芸能保存会の方々のお話

版画;deigo by wataru


アジア食堂 Rupaからのお知らせ

 奈良盆地の東、奈良、三重、京都に広がる山間部は奥大和・元大和であり、巨石に関連する聖地や縄文遺跡が数多く存在しています。このエリアにご縁を感じる方には、お話をお伺いして、関連すると感じられる地へご案内します。宿泊も可能です。お気軽に遊びに来てください。  rupa@kcn.jp  0742-94-0804


名前のない新聞 No.133=2005年11・12月号 に掲載