72.  忌野清志郎追悼

 清志郎に1度会ったことがある。
88年10月30日、奄美の無我利道場が右翼暴力団に襲撃され、「家屋全壊、1名重傷」という事件が発生、新聞テレビのトップニュースとなった。
 折から昭和天皇の吐血下血が連日ニュースとなる中で、全国各地では無我利道場の支援集会が開催され、私は駆け廻っていた。
 89年が明けて早々、天皇ヒロヒトの死と自粛ムードの中で、ロックミュージシャン山口富士夫の企画で「無我利道場チャリティ・コンサート」の提案があった。無我利支援となれば、右翼を敵に回すことになり、有名スターならビビるだろうと思ったが、フジオは忌野清志郎を誘ってみるという。
 フジオ自身は既に84年、「東アジア反日武装戦線」の支援集会のトリに、私と天皇暗殺劇を共演しているから、腹はすわっていた。
 フジオに連れられて、都心の(場所は忘れたが)東芝スタジオに清志郎を訪ねた。想像してたより華奢(きゃしゃ)でスマートな男だった。とはいえ怪しいまでに魅力的な存在感があった。無我利道場の襲撃事件のことは良く知っていたし、支援運動にぜひ協力したいと言っていた。ただしRCサクセションのマネージャー次第ということなので、マネージャーと交渉したが、スケジュールがびっしりで実現は不可能だった。 
 ところで88年には、反原発の楽曲を含む「カバーズ」が発売中止になっていたが、この時清志郎は「いま大麻の歌を作っています」というので、「まさか発表はできないだろう?」というと、「いや、大丈夫です」と自信満々だった。
 「帰らなくちゃ 帰らなくちゃ タイマーが待っている」という、清志郎の歌声を聴いたのは、その年の夏ころだったか? 勿論、清志郎とも、RCサクセションとも名乗ってはいなかったが。
 これもフジオから聞いた話だが、暴力団との約束の電話を、ステージの上の清志郎はケータイで受けて、恫喝の声をマイクを使って会場のファンに聞かせたとか。
 しかしスーパースターはスーパーマンではなかった。58歳とは早すぎる。今から凄いものがみえるのだぞ。経済恐慌に重なるパンデミック(感染爆発)。更に重なる温暖化や気象異変……いよいよ全人類のロックンロールだ。だから急ぐことはなかった。
 帰らなくちゃ 帰らなくちゃ タイマーが待っている♪♪♪
                                 (5.7)


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