48. 妖精のような二人の老女(ビバ・フリークス第5話)

挿絵

 昔は日本にも乞食はいた。古代から中世、近世、そして近代と乞食のいない時代はなかった。戦後も闇市時代までは乞食を見かけたものだ。ところが経済成長後は食べ物がゴミ箱にあふれ、福祉制度が発達したので乞食がいなくなった。
 その結果、アメリカ並みにホームレスの存在は許されるが、乞食は犯罪者扱いされ、収監され、自由を剥奪されるという管理社会が実現したのである。そこで貧困者は例え餓死しても、乞食だけは出来ないという「自己責任」の孤独地獄に突き落とされるのだ。
 とはいえインドが乞食に優しいわけではない。例えば私が2度目にインドを訪れた1982年には、デリーでアジア大会が開催されたため、インド政府はデリーじゅうの乞食をダンプカーに積んで、タール砂漠へ捨てに行ったのである。
 しかし私がヒマチャルで秋を過ごし、2ヶ月ぶりにデリーへ戻ってみると、乞食たちは元の場所に帰り着いていたのである。要するに乞食は外国の客人に対して見苦しいから、しばらく遠ざけただけであり、彼らの存在そのものを否定したり、抹殺する気はないのだ。
 乞食だけではない。飼い主がいようといまいと、犬も牛も山羊も豚も猿も、生きとし生けるものが、人間の都合だけで処分されることは決してない。人間も動物もあるがままに自らの「分」を守って生きているのであり、それは自然の摂理に従うことなのである。
 貧しい者が富める者に食を乞うことは自然の摂理であり、それは乞食の「分」である。それは高所から低所へ水が流れるように、有る所から無い所へカネが流れるだけのこと、恥じることも、卑屈になることも、感謝することもない。だからインドの乞食はバクシーシーを受けても「ありがとう」とは言わない。
 むしろバクシーシーを施した方が、慈善という功徳を積んだことを感謝するのだ。聖地にはバクシーシー用の両替屋まである。
 このような自然の摂理観と、「輪廻転生」という生まれ変わりの死生観が、インドの底辺世界に根強く息づいてきたのである。そこでは全ては連なっていて、孤独など存在しない。貧しく虐げられた人々の不可視のネットワークが至るところに張りめぐらされ、常に何処かで誰かが見守っているのだ。
 旅人がその世界に触れることはめったにないが、たまたま盗難にあって文無しになった旅人たちは異句同音に言っている。「文無しになって、インドの無限の優しさを知った」と。あるいは「金のあるうちは、インドの本当の凄さを知りえないだろう」とも。
 私自身の体験といえば、ヒマチャル以来の病み上がりの身なのに、金が無いのでろくな物が食えず、空腹をしのぐため大麻を吸って、デリーの街を徘徊していた頃のことだ。ライ夫婦のキャッチボールを見たのもその頃だ。
 気分はともあれ、リックを担ぐ体力はまだ回復していなかった。ある日満員のバスからふり落され、危うく後輪の下敷きになるところだった。腰をさすって地面を這いながら「ついにインドの大地を這うまでになったか!」と苦笑した。南インドから四つ足で這いながら、ヒマラヤに向っている苦行者がいると聞いたからだ。
 やっぱりその頃のことだが、オールドデリーの街道を歩いていて、不思議な二人の老女と出会った。私は最初、彼女らを子供だと思ったのだが、近づくにつれて白髪まじりの小人の老女であることに気づいた。二人とも着古した白いサリーに裸足だった。彼女らは私の前まで来るとピタリと止まり、しげしげと私の顔をのぞき込み、一人はバナナを1本、もう一人は1パイサコインを私に差し出した。私が両手でそれを受けると、彼女らは恭々しく合掌して去って行った。
 私は何のことか分からず、ポカーンと二人の後ろ姿を見送った。二人は一度も振り返ることなく、雑踏の中へ消えていった。人間のようでもあり、妖精のようでもあった。その頃の私には死相でも出ていたのだろうか、それとも聖者のようにオーラでも発していたのだろうか。
 いや、そうではあるまい。あの時、死線を脱した私の前に、母なるインドはその真実の姿を顕現したのだ。「彼女」は乞食が乞食に施し、貧しい者同士が助け合い、敬い合う、人間が人間としてあるべき本然の姿を、底辺の底知れぬ暖かさと豊かさの中に示したのだ。まぎれもなく、そこは仏陀の慈悲の浄土だった。


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