47. 「プレカリアート」の反撃

 今年のゴールデン・ウイークには「プロレタリアート」という正規労働者のメーデーに加えて、「プレカリアート」という非正規労働者や失業者など、いわゆるフリーターやニートが企画したインディーズ(独立)系のメーデーが、各地で開かれた。
 就職氷河期の「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれている20代後半から30代半ばの若者たちにとって、「正規」から外れたら、バイトも派遣も名ばかりの管理職も、細切れ低賃金労働や過労死寸前の長時間労働の果ての使い捨て雇用である。
 そんな彼らが期待した小泉元首相に裏切られ、政府と企業に騙されてきたことに目覚め、『蟹工船』を読んだり、労働組合を結成したり、訴訟という手段で対抗したりして全国的に連なり、ついに「自由」と「生存」を訴えるサウンドデモで反撃を開始したのである。
 私がこの運動のリーダー格の雨宮処凛の著書『戦場へ行こう』を読んだのは2年ほど前のこと。彼女はパンクバンドを組み、右翼団体に入って歌っていたが、突然イラクへ飛んでフセイン大統領の息子ウダイに会見したり、北朝鮮に渡って「よど号」ジュニアたちに出会い、帰国の世話をするなど、その型破りな行動力に感服させられた。最近になって『週刊金曜日』の編集委員に加わり、超硬派の雑誌を通して、ロス・ジェネ世代の声を伝えてくれている。
 彼らは私たちビート・ヒッピー世代の子供たちの世代である。親たちの青春は60年代後半から70年代半ばにかけて、わが国が高度経済成長のピークに達する頃だから、例え「住所不定、無職」でも、世の中は生き易かったし、心のゆとりもあった。働く気ならバイトはいくらでもあったから、低賃金や長時間の労働などする必要がなかった。
 正規雇用を拒否してドロップアウトしたからには、社会的な成功や出世の夢はなかったが、パラダイムの転換によるもうひとつの社会、別の文明を創造する夢があった。結果的にコミューン運動は挫折し、カウンター・カルチュアなるものは商業主義に呑み込まれ、メイン・カルチュアとして毒抜き大量生産され、消費文明のゴミとなったのだが、若さは無限の可能性だった。
 ところがロス・ジェネ世代は、夢も可能性も予め封じ込められ、「自己責任」という呪文がかけられ、各人がバラバラに分断されて、生存のぎりぎりまで追いつめられているのだ。この格差と貧困の中で彼らは気づいたのだ。自分たち若者だけが苦しいのではないことを。外国人労働者や老人や病者などの社会的弱者が虐げられ、生存を脅かされていることを。更に海外でも同じような問題が起きていることを。
 ネオリベ(新自由主義)とグローバリズム(市場原理)による格差と貧困の問題は、アメリカやヨーロッパでも深刻化しており、フランスでは若者を中心に左翼的社会運動が高まっているとか。今の状況はグローバルに広がる新たな階級闘争の始まりなのだと見る人もいる。
 ソ連崩壊で共産主義は敗退したが、ネオリベとグローバリズムの横暴が、再び左翼志向を生み出し、プレカリアートにもマルクス『資本論』が読まれているとか。
 しかしプロレタリアートを革命主体とする既成の左翼理論では、資本主義の末期症状である金融資本主義というモンスターを倒すことはできない。なぜなら今や搾取される最大の労働力はプロレタリアートではなく、使い捨てのプレカリアートなのだから。
 従ってメーデーのデモにしても、警察が警戒するのは赤旗一色で統一されたスローガンのプロレタリアートのデモでなく、多種多様なプラカードが林立し、好き勝手なファッションで歌って踊るプレカリアートのサウンドデモなのだ。
 そう、これは80年代の反原発デモ以来、アナーキィな市民運動と、ヒッピー系のカウンター・カルチュア運動がドッキングして生み出した新たな伝統なのだ。もちろん源流は60年代ヒッピームーヴメントの『ラヴ&ピース』に発するのだが。
 言うまでもなくプレカリアートは、「ヘンプ・ブーム」の波をもろに被った世代である。大麻が麻薬だなどという偏見から解放された連中である。雨宮処凛の『戦場へ行こう』の文中、まるでビールでも飲むみたいに「そこでハッパを回した」なんてサラリと書いてある。何とも頼もしい限りである。
 プレカリアート運動が新たな階級闘争や革命にまで発展するかどうかはともかく、彼らは大麻に偏見がなく、インターネットという私たちの時代にはなかったメディアを持っている。夢と可能性がいっぱいである、大いに期待し、応援しよう!
                                 (5.20)


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