42. ライ夫婦のキャッチボール(ビバ・フリークス第4話)

 乞食を見たことのない日本人旅行者にとって、インドで最初のカルチュア・ショックは、路上で、プラットホームで、公園で、寺院で「バクシーシー!」と叫びながら、目の前に突き出される汚れた手の平だ。
 歴史と神話の闇の彼方から、祖先代々の新陳代謝を経て、差し出されてきた手の平のリァリティを前にして、「先進国」からの旅人は戸惑いおののく。まして、その汚れた手の平に、指の無い、まるでシャモジのような手の平を発見した時の驚き。ギョッとして顔を見ると、鼻がつぶれ、目尻や唇の皮膚がただれ、眉毛がない。ライ病(ハンセン病)患者との初対面はショックそのものだ。
 70年代当時の私は、ライ病がそれほど強い伝染病ではないことを知っていたが、日本ではまだ「ライ予防法」のもとに隔離政策がとられており、一般市民がライ患者に出会う機会など皆無に近かった。だからインドのライ患者が、健常者の乞食たちと混在しているのを見て、乞食というのはこれ以上分別できないゴミのような存在と見なされていることを知った。
 日本ではライを文明国の恥と考え、ライ患者を蔑視し、ライ撲滅を計った。明治30年代には30万人いたライ患者に対して、40年に「癪予防法」を制定し、全国に癪療養所を設けて以来、全患者を強制的に入所させる隔離政策がとられた。警察権力をバックにした過酷な差別政策によって、ライ患者は家族から引き離された上、家系からも抹消された。牢獄つきの劣悪な療養所では非人、犯罪者扱いされ、ライは遺伝しないのに男性は断種、女性は堕胎、中絶されるなど、圧迫され、蹂躙され、悲惨な人生を送ってきたのである。
 ライ病は体質によって、まれにライ菌に対して免疫機能が働かない人に発生する免疫異常をともなう感染症である。70年代当時の日本では、ライ菌はすでに衰退期にあり、新発患者は年間数十人、感染源たりうる患者は全国の療養所にいる約2000人だけとなり、もはや伝染病ではなくなっていた。にも関わらず、「ライ予防法」が廃止されたのは、それから20年余を経た1996年のことだった。
 それに対してインドでは、70年代のライ患者350万人、全国民の2%近い。インド政府のライ対策について調べたことはないが、アウト・カーストの乞食の世界を見る限り、ライ患者と健常者との間には差別も排除もなかった。カースト・ヒンドゥからは「見るな、触るな」の非人、賎民、ゴミ扱いされている人たちなのに、なぜか彼らの世界は明るくて屈託がなかった。

 あれは最初の旅から10年後、80年代初めにインドを旅した時のことだ。晩秋のヒマラヤ高地から久々に下界に降りた病み上がりで文無しの私は、産地で仕入れてきたチャラス(大麻樹脂)を決めて、オールドデリーの大通りを漂っていた。
 突然、けたたましい赤ん坊の笑い声と、大人たちの爆笑と歓声、そして拍手が沸き上がった。それは歩道の一角にたむろする乞食の一団だった。彼らがあまりにも楽しそうなので近づいてみると、中央に裸の赤ん坊を抱く母親が坐っていて、父親らしき男と向き合っており、その周りを数名の男女が囲んでいた。
 笑いの興奮が治まったところで、母親は父親らしき男に向けた赤ん坊を両手で高々と差し上げた。大きく目を開き、固唾を呑む赤ん坊。一瞬「ヤッ!」というかけ声と共に、赤ん坊は母親の手を離れ、空中に飛んだ。
 その時、私は彼女の手の平に指が無いのを見た。そして赤ん坊を受け止めるために差し出された父親の手の平にも、やっぱり指が無かった。そのため赤ん坊は手の平からすり抜けて、あわや地上へ真逆様というところで、父親は両腕でこの落下物に抱きついて、地表すれすれで抱き止めたのである。その途端、あの空気を引き裂くようなけたたましい赤ん坊の笑い声と、大人たちのドーッという爆笑と歓声と拍手が沸き上がったのである。
 指のない手の平で、勢いよく飛んでくる赤ん坊をキャッチすることは、容易な技ではなかった。しかし元気な男の赤ん坊に催促されて、ライ夫婦のキャッチボールはなおも続いた。一回一回が危機一髪だったが、ライ夫婦は必死で生命の宝を受け止めて、一同の爆笑と歓声を買った。通行人のカースト・ヒンドゥたちも足を止めて、この笑いに浴し、拍手を惜しまぬ者もいた。
 大都会の吹きだまりのような路上の一角で、朝日を浴びて笑い戯れる貧者の群。それはまぶしいほど美しい風景だった。生まれてきた者への祝福と、子を持つ親の喜び、そこには人間の原初的で、根源的な幸福の姿があった。
 この幸福の原風景を天下の街頭で、惜し気もなく見せてくれたインドのライ者たちと、そのような幸福を夢見ることすら許されなかった日本のライ者たち。大陸と島国の「人間観」に対するこの恐るべき相違。はたして日本は「先進国」たりうるのか?


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