30. 山水人(やまうと)に参加して

  今年で3回目の山水人は9月1日から17日間の長丁場だったが、私は8、9、10日の3日間だけ参加した。
 8日朝8時、例によってカツと下口コンビの車にサワも便乗し、台風一過の洪水のため4時間も渋滞した中央高速を経て、琵琶湖の水源地朽木村に到着したのは夜12時近く。 疲れは相当だったし、会場のぬかるみ道も閉口したが、幸い本部の奥に蚊帳付きの特別室が用意されており、ポン用世話人として金沢のローラとマチャミが臨時スタッフに付くなど、VIP並みの待遇で何とか体調のバランスを保った。
 主催者の租牛が不在で残念だったが、本部スタッフのいっぽん、緑郎、たかちゃん、山崎君などとは10年ぶりの感動の再会だった。
 9日は晴れてぬかるみも少し乾いた。深い山合いの森に囲まれた会場には、沢山のティッピーやテントが建ち、どこかで会ったような顔がうようよ。40年来のなかまアキの「カフェ・マヤ」に座って、ナナオやイサムなどの先輩に挨拶。午後はメイン・ステージから「麻の伝導師」などの詩を朗読した。「麻の伝導師」とは縄文エネルギー研究所の中山康直君から頂いた「肩書き」で、自称したのは先月の高山のイベントが初めてだ。夕方、久しぶりにサヨコの声を聴いたが、チナ・キャッツの夜は雨が降ったので宿舎で過ごした。
 10日は特大ティッピーで「山水人フリートーク」。午前中は丸井弁護士が質疑応答の形で「合法的組織暴力団=警察」との対応について講演。「黙秘権をもっと活用しよう」との注告もあった。また丸井さんの報告によれば、先日「オープン・ヘンプ・フェスタ」を開催した宮古島(沖縄)では、農薬汚染から地下水を守るために、水源地一帯に大麻を栽培し、地下水を汲み上げるため島民がNPOを立ち上げ、栽培許可を申請する計画であり、早ければ年内にも許可が出るかもとか。一地域丸ごと栽培許可を得ることは、信州などでも計画されているようだが、未だ前例がない。従って宮古島が一点突破すれば全面展開もありうるだろう。ひょっとしたら信州のバイオエタノールの研究よりも、島民の生命が賭かった宮古島の方が先手かも。やがて政権も交替する。最悪の官庁である厚生労働省をぶっ潰すべし!  午後のフリートークのプログラムでは、パネラーは丸井英弘(63)、ヨシダミノル(71)、沢村浩行(65)、ポン(70)の4名だったが、ナナオ(84)、イサム(73)が加わり、成り行き上ポンが司会を勤めた。今回の山水人には他にトラオ、アキ、ジャン、ジャンシーなどの60代が参加しており、更にナミさんや田歌なども参加するはず。還暦過ぎの長老たちがこんなに揃う祭も珍しいが、しかし老女たちはなぜ姿を見せないのだろう。かつてのヒッピーガールの輝きを異装のもとに見せてほしいものだ。
 カウンター・カルチュア系の祭(イベント)が今年も各地で催されているが、運動である以上そこには歴史があり、元はと言えばヒッピームーブメントが爆発した1967年夏、宮崎の一つ葉海岸での部族フェスティバルが発端だった。(翌68年は桜島)ナナオをはじめ参加者数10人のぶっ飛び祭だった。
 それから40年、時代の節目になるような画期的なビッグイベントや祭が、10年周期で開催されてきた。即ち、77年は原爆33回忌の平和行進と似島(広島)での追善供養。87年はしらびそ高原(信州)での隠魂(おに)祭、位山サンダンス、沖縄うるま祭。97年はチェンマイいのちの祭、位山と天河の霊舞、バウルのライヴツアーなど。
 これが自然の理とやら。新しい仲間の参加と新陳代謝によって、運動の活力は維持され10年周期のビッグイベントに向けて、新たな運動主体(スタッフ)を形成してゆくのだ。今年の「てのひらまつり」でも「山水人」でも、主要スタッフは「97年組」と呼ばれる不可視のネットワークが担っているのだ。
 だから今年の祭に参加した若者の中から、やがて10年後のビッグイベントを担うような運動主体が形成されてゆくだろう。その頃は原発や再処理工場が止まり、温暖化にブレーキがかかり、孫たちはスクスク育っているだろうか? それとも、原発震災により祭などできず、温暖化は修復不能の破局に向かっているだろうか? 後者ならば、大麻が自由化されても後の祭だ。「ボン シャンカール」を唱えても、ポンはいないだろう。  (07.9.15)


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