3.60年前の原体験

 小学校入学と同時に肺結核を患った私は、一年間休学し、翌1944年春、再入学したが、結核菌は体内に潜在したままだった。
 翌45年、2年生になった私は夏休みを前に、家族と共に飛騨高山から、おふくろの実家のある神岡に疎開した。高山にも空襲の予告ビラが投下されたからだ。
 「スーパーカミオカンデ」で有名になった鉱山の町で、地元の悪ガキ共に誘われて、病弱な私は蝉捕りや魚釣りに夢中になった。
 8月15日は朝から実家のラジオが故障し大騒ぎになった。大人たちはその原因を私のせいにして、さんざん文句を言った。私の抗議に対して、おふくろは同情的だったが、おやじも親戚一同も聞く耳を持たず、味方になってくれたはずの叔父は、靖国の英霊になっていた。
 正午の玉音放送の直前にラジオの故障が直り、近所の人たちも集まった。濡れ衣を着せられ、しらけ切った私は片隅から一体何事が始まるのかと観察していた。やがて天皇のか細い声を聞いていた大人たちの顔色が青ざめ「日本は負けた!」「何もかもお終いじゃ!」と言って、泣き出したのには驚いた。
 私はすっかり嬉しくなり、心の中で「ザマアミロ!」と叫んで、カーッと照りつける表へとび出した。そして蝉しぐれの広場にいた数人の悪ガキ共に向って叫んだ。
 「オーイ 日本が戦争に負けたぞー!」
 すると友達になったばかりの悪ガキ共が、いっせいに白目をむき出し、「ええかげんなこと言うな!」「日本が負けるはずないぞ!」などと食ってかかり、上級生のガキ大将から「おまえは非国民や!」と脅かされ、仲間はずれにされた。その時初めて、私はT孤独Uというものを知った。
 疎開地から帰ると、小学校のグランドは青々としたサツマ芋畑になっていた。2学期が始まって間もなく、高山へもジープに乗ったアメリカ兵がやって来て、チューインガムをばらまいた。脱脂粉乳の学校給食が始まり、墨塗りされた教科書で民主主義を教えられ、先生が「テンノーヘーカ」と言っても「気をつけ」をする必要がなくなった。
 コーンパイプを持った将軍マッカーサーが登場し、平和憲法をくれたことは憶えているが、ついでに大麻取締法を押しつけられたことは知らなかった。なぜならそれが制定化された3年後には、私は結核性脊椎カリエスの大病で死線を彷徨っていたので、隣の爺さんが麻の栽培を止めたことなど気づくはずもなかった。
 2年半の闘病生活を経て、6年生の2学期から学校へ復帰したが、美少年だった私の上半身は奇怪に歪みTせむしUというフリークになっていた。
 この肉体的、外見的な変貌は、玉音放送の日に疎開地で、マッチョなガキ大将からT非国民Uと呼ばれ、悪ガキ集団から差別、排斥された孤独の原体験を実体化し、私をして異端Tフリーク意識Uに目覚めさせたのである。
 このフリーク意識は長じて大麻と出会うことによって拡大深化を遂げ、フリークの対極にあるTマッチョUこそが、自由と民主主義を蹂躙し、平和憲法を侵害する元凶であることを看破したのである。
 マッチョイズムは粗野で傲慢で独善的な全体主義によって、個人の多様性を否定し、男尊女卑で人種差別、民族差別の天皇制国家主義によって、暴力と死を讃美し、戦争を肯定する。
 マッチョはさも男らしく勇敢に見えるが、自分の欠点、障害、挫折、過失、道徳的な罪責などを直視することを避け、反省や謝罪など決してすることなく、ひたすら自己を美化し、誇示する卑怯な憶病者なのだ。そのためわが国が犯した植民地支配や武力侵略の歴史を自己批判することを「自虐史観」と呼んで拒絶し、ある者らは「南京虐殺はなかった」とか「従軍慰安婦は本人の意志だ」などと真実を隠蔽し、歴史を改竄、捏造し、「日本は天皇を中心とする神の国だ」などというウソとペテンの皇国史観によって、亡国を招くのだ。
 敗戦60年目の夏、典型的な悪ガキマッチョの首相や都知事どもが、靖国神社で亡国セレモニーを執行するのを憂い、異端フリークの私は怒りをこめて詩を述べる。

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   靖国の仕組み
 
 わたしの叔父は 20代半で召集され
 敗戦の前年 南方戦線で玉砕したので
 遺骨もなく 靖国の英霊にされた

 敗戦後 200万人もの兵士を犬死させた
 戦争仕掛人たちも 死ねばお釈迦だと
 仏を神に仕立てて 靖国に祀られた

 「靖国ファンクラブ」の祈願と策謀は
 犬死した兵士たちを「万歳」させた
 現人神の子や孫を 靖国に参拝さすこと

 60回目の敗戦記念日は 靖国で
 アジアにあがる「反日」の声など何処吹く風
 マッチョ首相が亡霊たちに 願をかける

 「太平洋戦争の過ちは2度とくり返しません
 だから鬼畜米英と手を組んで 再び
 大東亜戦争を続行させ給え!」

          05、8、8 


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