28. 「六ヶ所村ラプソディー」前史
 映画「六ヶ所村ラプソディー」の秩父上映会に際して、娘から「前売券が売れてなくて心配」と聞き、私も県内の知人たちにチラシを配った。人口5万人の田舎町、近くに原発もない秩父で核燃問題に果してどの程度のリアリティがあるのだろうか。
 主催者の池田文さんは、奄美のコミューン時代の仲間が経営するパン屋「くろうさぎ」の従業員で、イベントの主催は初仕事とか。何とか赤字にならないようにと祈るような気持で8月5日、会場に行って驚いた。約200人の座席は満員、2回制で400人近い観客を集めたのだ。その上50人近い若いスタッフのてきぱきした対応は目をみはるばかり。
 上映後と鎌仲ひとみ監督のトークには、会場からの拍手がしばし鳴り止まなかった。それは地震による原発事故が相次ぎ、市民の反核意識の高まりを物語ると同時に、すでに再処理工場が完成し、試運転中の六ヶ所村の混沌たる現実を、生活レベルで鋭く、美しく映像表現した鎌仲ひとみさんに対する賞賛と共感の拍手であった。
 映画の冒頭、広々としたチューリップ畑の彼方に風車のある北欧風の美しい風景には、これが六ヶ所村かと驚かされた。花とハーブの里を経営する菊川慶子さんは反対運動歴16年、彼女が主催するチューリップ祭は12回目とか。彼女と面識のない私は91年の「いのちの祭」以来、六ヶ所村と疎遠になっていたのだ。今や1万2千人の村人の中で、反対運動をするのはほんの数人になったとか。
 鎌仲監督は反対派と賛成派の対立構図を超えて、核燃工場を押しつけられ、放射能の脅威に生きる村人の現実を、インタビュー形式で探ってゆく。美しい風景も愛すべき人々も、やがては放射能に総汚染される運命にあることを、観る者すべてが予感し、悲しみ、憤り、いわば「使用前世界」をまぶたの裏に焼付けておくのだ。
 さて、私にとって映画史上の最高傑作である「六ヶ所村ラプソディー」を観たのを機に、その前史ともいえる核燃との因縁を語っておきたい。核燃料再処理工場なるものが住民運動レベルで噂に上ったのは、76年9月、奄美大島の石油基地反対斗争の現地が初めてだろう。当時私はコミューンを営み、反対派漁民と網漁をしながら、外部支援の窓口を勤めていた。再処理工場の噂が入ったのは、奇しくも私の娘が自宅分娩で誕生した翌日だった。まさに生と死の強烈なコントラストである。
 核燃の予定地は奄美大島の隣にある徳之島で、北海道や長崎の離島を押さえて断然本命と見なされていた。80年代に入り、石油基地計画を撤退に追いつめたのに、徳之島では大手ゼネコン数社が基盤工事らしきことを始めた。放っておくわけにはいかず、私たちは全国に呼びかけてキビ刈り援農隊を組んで、徳之島に反対運動の地盤固めに入った。六ヶ所村が対抗馬として浮上したのはこの頃だ。そして84年春、再処理工場用地は六ヶ所村に決定、徳之島は陽動作戦のダミーだったことが判明した。
 86年、奄美での使命を終えたものと判断した私は、コミューン無我利道場を出て、飛騨高山へUターンし、反核運動のイベントなどを仕掛けた。88年正月、信州の内田ボブ達とキャラバンを組んで、下北半島むつ市に放出倫君を訪ね、10日間ほど世話になって六ヶ所の人々をはじめ、核燃に反対する多くの人々と連帯した。当時はまだ核燃予定地は荒地だったが、建設されたばかりの巨大な石油タンクが立ち並んでいた。それは10年に及ぶ奄美の住民運動に敗退した東亜燃料KKが、国家備蓄基地の下請をして建設したもの。奄美から追い払った石油基地に次いで、核燃工場までが六ヶ所村に拠点を決めたことに、後ろめたい思いさえしたものだ。
 88年は反原発ブームの年だった。4月は銀座を2万人のデモで埋め、8月には八ヶ岳で「いのちの祭」を開催し、1万人近い仲間が「ヒッピー村」を作った。このパワーを六ヶ所村に向けようと、91年夏、いのちの祭を六ヶ所村で開催した頃には、もはや「ノーニュークス・ワンラヴ」の看板を出せないほど、反対運動は封じ込められていた。それでも泊の漁師坂井留吉さんが駆けつけて、反核燃のアピールをして下さったことが救いだった。「ラプソディー」の中で、坂井さんの元気な姿を見て嬉しかった。
 なお「ラプソディー」の中には86年6月、機動隊と海上保安庁を相手に坂井さんなど泊漁民による海域調査実力阻止斗争のドキュメントフィルム(放出倫監督「泊は負けてねえ!」)が挿入されている。漁民たちの必死の抵抗にもかかわらず調査は強行され、泊漁協は金と権力によって潰されてしまった。「ラプソディー」の中で坂井さんの奥さんは語る。「おかあさんたちいっしょうけんめいだったんだよ。反対、反対って。そのころもっと県外の方から解ってもらって応援に来てもらえたらなおさら、はははは。こういう風にひろがらなかったべな、って今はそう思う。(略)なんだかんだいっても、力不足だったよなって思うのよね」
 旅役者の一座からドロップアウトして下北核燃半島に住みつき、外部支援の窓口となった巨漢放出倫君は、持病の心臓病が悪化し、91年のいのちの祭の頃は弘前で療養中だった。(98年、45歳で逝去)放出君がいなくなったこともあって、私の六ヶ所村への支援活動は遠のき、ついに菊川さんの「チューリップ祭」も知らないままに終った。
 92年、大麻取締法でパクられた私は、翌年信州の桂川直文君らと「麻の復権をめざす会」を立ち上げ、本名を名乗って大麻のことを文章に書くことになったため、反核などあらゆる市民運動との直接的なかかわりを断つことにした。大麻解放運動一本に賭けたのだ。
 さて、今年6月には正木高志さんが提唱した「ウォーク・9」が、六ヶ所村の花とハーブの里を訪れ、また「アースディ六ヶ所」が開催されるなど、再処理工場の本格操業を前に、新しい反核燃の波が盛り上がっている。この新しい波には「六ヶ所村ラプソディー」の影響が大きいだろう。自主上映が始まってまだ1年半、今後とも各地で上映会が催され、鎌仲ひとみさんのトークが若者たちを鼓舞するだろう。秩父上映会で大成功を収めた池田文さんとスタッフ一同のような輝かしい「新人」たちが続々とデビューするに違いない。
 例えば今回の上映会で全員に無料配布された『30秒で世界を変えちゃう新聞』がある。これはテンツクマンという若者が、カンパだけで実に3000万部を制作し、全国に無料配布したのだ。
 危機の崖っぷちにあって、旧来の運動家には考えられないような運動が出現しつつある。必要なのはカリスマ性でなく、コミューン性である。若者は決して絶望しない。そして私もまた。
                           07.8.15  ポン


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