22. 春爛漫のポンコツ整備

 今春はある種の肉体的試練を受けたので、70歳になった私の健康状態について報告しておこう。
 心理的プレッシャーはあったものの今冬は暖冬に恵まれ、風邪も引かず快調そのものだったが、春先になって寒気が戻るや体調が崩れ、1年ぶりの入院となった。その晩は久しぶりに静岡から娘の維摩が2児をつれて来訪、姉の宇摩母子と共に家族6人、和気あいあいと夕食。しかし私は気分がすぐれず早く寝床に入った。 その夜が「最後の晩餐」にならずに済んだのは、夜半すぎに娘たちが父親の呼吸の異常に気づき、救急車を呼んで県立病院へ運んだからだ。
 患者は血中の酸欠と炭酸ガス過剰のため猛烈な眠気に襲われ、ナースに起こされても夢の中、あのまま呼吸が止まったら苦しみもなく天国へ直行だった。この場合、事前に本人や家族の希望があれば、咽を切開して直接肺に酸素を送る延命療法がある。そこで今回、主治医と娘の前で、延命治療を拒否し、尊厳死を希望する ことを宣言しておいた。
 呼吸器の方は1週間で退院となったが、同時に左の耳が聴こえないことに気づいた。まるで器を被っているような違和感。電話は金属音、マントラを唱えれば他人の声のごとし。近くの市立病院耳鼻科へ行ったところ、「突然性難聴」と診断された。血液の循環とストレスによるとされるが原因不明の難病。治るかどうかは 不明だが唯一の可能性として、毎日通院して「ステロイド・ホルモン」という強力な注射を打った。そして1週間で聴力は回復した。検査表を見ながら若くて美しい主治医は「あらっ、完全に治っているじゃないですか!」と感嘆していた。ネット情報によれば「突然性難聴はステロイドによる治療も3分の1は改善せず、3分の1 は後遺症が残り、完治するものは3分の1にすぎない」とか。何という幸運! あるいは奇跡!?
 さて、その翌日は前から気になっていた「かすみ眼」を検査するため眼科病院へ。結果は僅かだが白内障と緑内障が入っているとか。緑内障の方は近日中に視野検査を受けねばならない。緑内障について『マリファナ・ブック』(オークラ出版98年刊)によれば、「緑内障は不治の眼病であり、眼圧が抑制を受けずに上昇 することによって網膜や視神経が回復不能な損傷を受け、最終的には失明にいたる。大麻は眼圧を引き下げ、耐性を築くこともないことが確認された」
 胃ガンのためアメリカで客死した山田竜宝和尚が、緑内障のため還暦の頃にはほとんど失明状態だったのを知っていたが、私の緑内障についての知識は上記『マリファナ・ブック』程度のものしかなかった。
 ところが医学の進歩はめざましく、ネット情報によれば、緑内障の治療は眼圧を下げるための点眼薬、内服薬の他に、レーザー手術、外科手術が開発され、必ずしも不治の眼病ではなくなったようだ。これも幸運と奇跡を祈るしかあるまい。
 この際、やれるだけやっておこうと、耳と眼に次いで歯だ。入れ歯を替えるために、歯ぐきに残っている旧い数本の虫歯を抜かねばならないのだ。週1本の割だから手間がかかる。しかし可能な限りこの肉体のポンコツ化に抵抗し、整備し、十分に使いきって返納するのが、この生命を与えられたものの義務だろう。
 幸い、私の医療費や酸素吸入器のリース代などは、「重度医療保護」の福祉政策によって全額免除である。福祉切り捨て政策によって医療費が払えず、ろくな手当ても受けられないで苦しんでいる老人たちの存在を思えば、私が身障者になったのも幸運であった。
 経済的には障害基礎年金にわずかだが厚生年金を加えて約8万円の収入。家賃を払った半分では生活できず、娘の負担になっている。彼女が嫁いだ民謡道場まで車で10分。津軽三味線や尺八を教えながら道場を仕切り、1歳児の子育てと同時に父親の世話である。このパワーフルな娘にシヴァのシャクティ(妻、根源力)である「ウマ」と命名したことが、幸運の微笑むところとなった。
 回復期は快いものだ。桜が散り、ナノハナやツツジへと野辺の花々は移ろう。そよ風吹く散歩道を、酸素吸入器を曳きながら、のんびり歩く。衰弱した躰に、満潮のようにヒタヒタと押し寄せる生命の活力。いのちの歓びが心を満たすときである。
ここに在ることの 幸運!! 奇跡!! 神秘!!

(07.4.16)


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