ポンの近況

桂川救援運動とアナナイ詩

《 1 一審判決までのあらまし 04.4 》



 桂川直文君は1951年、長野県北安曇郡池田町で、3人兄弟の次男として出生した。
高卒後は父親が経営する印刷屋と若干の田畑を手伝いながら、大麻やキノコの世界を知った。我々の出会いは、私が飛騨にUターンした87年、デットヘッズのキヨシ(吉井清)の紹介だった。飛騨と信州安曇野という、北アルプスを跨いだ隣同士とあって、「縄文大麻文化圏」のヴィジョンを共有し、イベントやミニコミ作りなど様々な面で協力し合った。

 大麻取締法で92年に私が、93年に桂川君がパクられ、執行猶予中の94年に「ミヤケン裁判」を支援する形で、桂川君が発起人となって「麻の復権をめざす会」を結成、95年には中央大学学園祭でマリファナ・シンポジウムを開催するに至ったが、翌96年のNHK訴訟問題で分裂、解体してしまった。
 96年アムスの「カンナビスカップ」に参加した桂川君は、わが国の後進性を痛感し、厚生省麻薬課に直接掛け合って大麻の研究免許を申請するが、条件付で栽培免許を得た。
 大麻の茎を採るための栽培免許では、葉と花は焼却処分せねばならないが、この処分を研究に回しても宜しいというお達しである。そこで桂川くんは研究の輪を拡げ、医療大麻を求める患者達を研究の対象にしたり、品評会を目的にパーティを催して焼却処分にするなど、研究を重ねて来たが、根が真っ正直な彼は、オカミのお達しとはいえ栽培用の免許で研究することに納得できないものがあった。そこで02年、長野県に田中知事が誕生したのを機に、年に一回の大麻栽培免許申請に際して、「研究用」ととして申請したのだ。
 要するに茎だけではなく、葉や花も研究させてくれということなのだが、田中知事からは何の連絡もなく、夏頃出した催促状にも返事はなかった。そこで桂川君は「黙認」されたものと解釈し、03年春には申請も出さなかった。これについて私は「形だけでも再度申請すべきだ」と主張したのだが、彼は自信があったらしく無免許で栽培に踏み切り、7月14日、近畿厚生労働省麻薬取締部によって逮捕された。
 押収された大麻は3.5キロ、栽培94本と、特別に量が多いわけではない。しかし覚醒剤、MDMA,きのこなどが各1グラム前後あったことと、故、中島らも、佐藤明(マッハ25)などの有名人が、10万円程度のカンパをしていることなどから、表は大麻解放運動のリーダーを装いながら、裏では営利目的の麻薬組織の首謀者であると見なされ、というより当局は前もって予断と偏見に基いた虚像を作り上げ、それに対して重刑をかけて来たのだ。従って裁判は事実行為を裁くという枠をこえて、被告の思想信条に対して弾圧を行って来たのである。そのため審議らしい審議はほとんど行われず、被告に発言の機会もないまま、「大麻の有害性は公知の事実である」という理由で、5年の懲役刑を下したのだ。 
 桂川君は信州人らしい反骨精神と、郷土に対する深い愛着と造詣をもつ社会人である。多少の旅行はしたにせよ、安曇野地方から外へ出て生活したことのない土着ネイティヴだ。私のようにデラシネ(根無し草)的なガンジャ・フリークとは別種の“麻の民”である 私の内なる神秘主義的傾向を刺激して来た桂川情報とは、『日月神示』や『霊界物語』であり、UFOであり、ラヒ・バトラであり、レイヴであった。「レインボー2000」は彼に誘われて行った。しかしなんといっても信頼と尊敬に値するのは彼の嗅覚だ。無類の美食家としての味覚も相当なものだが、大麻を嗅ぎ分ける嗅覚の鋭さたるや、彼の右に出る者はいない。私の出会った内外のガンジャ吸いの中でもトップクラスの鼻の持ち主なのだ。だから、「国産ハイブリット」を作れるのは、あの鼻をおいて無い。


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