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第4章 昭和元禄のサイケブーム 1968

 

  [神秘の島のアシッド・パーティ]

 意識革命の最強にして神聖なる武器であるLSD(アシッド)を、日本に持ち込んだゲイリー・スナイダーは、「部族」のメンバーをテストし、パーティのガイドを任せられる人物を何人か選んだ。
 LSD教祖ティモシー・リアリーから日本用に預かった“LSD 25”は、ホフマン博士伝来のオーガニックな半合成で、緑色の粉末だった。ゲイリーはそれを薬剤用カプセルに詰め分けた。京都のゲイリー宅でその作業を手伝った私は、満タンのものから微量のものまで、相当量のカプセルを貰い、そのLSDを使ってコミューンの仲間たちと、数多くのアシッド・パーティを催した。
 アシッド・トリップには「セットとセッティング」が重要視される。セットとは精神状態であり、セッティングとは場所、環境、状況など、内的、外的条件をいう。特に留意すべきは外部からの来訪者のないことだ。と同時に、トリップ中に自己表現が存分に許されること、歌いたい、踊りたい、笑いたい、泣きたい、叫びたい、などの衝動を抑圧することなく、自由に表現できること。そのような条件を満たす絶好の場所として、“奥の院”諏訪之瀬島のコミューンはあった。
 バンヤン・アシュラマでのアシッド・パーティは夜の帳が降りる頃、私はゲイリーのようにメンバーを特定せず、私自身をも含めてコミューンにいる全員、数名から時には10数名が、一種のイニシエーション(通過儀礼)に臨む気分で参加した。
 身を浄め、晴着をまとって、瞑想センターで車座に坐る仲間たちに、私は順番にカプセルを配って歩いた。一同には平等に配ったふりをしたが、各人のセットを推察して分量を決めた。
 カプセルを飲み込んだ後、しばらく沈黙と瞑想。その間、静寂と暗闇を通して伝わる天然自然のオーケストラ。竹林を渡る風の音、岸辺に砕ける波の音、天空にこだまする噴火の音、床下や草むらに潜む虫の音などに耳をすます。世の音を観るから「観世音菩薩」とか。サイケデリックスはすべからく音を観ることから始まるのだ。
 かくて外界の音の流れに内なるリズムが呼応し、明確なリズムを打ち始めるとき、自我は羽ばたき、離陸体制につく。未知なるコズミック・トリップへの緊張と不安に駆られる魂のパイロットたち。そしていつものように突然どこからか「キャー!」とか「ウワー!」という悲鳴が上がる。
 とたんに堰を切ったように、恐怖とも、驚嘆とも、混迷ともつかない声がぶつかり合い、調和は乱れ、バランスが崩れ、全員が沈没しかねない状況になる。そこでガイド役の私は一つの母音を発する。「アー」でも「オー」でも、呼吸の糸をくり出して音声を引き延ばせば、自然にリズムがつき、メロディが生まれ、フリーソングになるのだ。
 そのフリーソングは個別に叫び、悲鳴を発していた誰かの音声とピタリ共鳴する。そのハモリが救命ボートとなり、そのパイロットをフリーソングの流れに巻き込む。こうしてフリーソングのハモリで歌い手たちを次々と増やし、ナナオの野太い声がフリーソングに活力をつける。
 やがてフリーソングの大合唱は、中央の虚無の祭壇で絡み合い、ねじくれ合いながら銀色の竜巻となって天と地を結び、宇宙が荘厳なる幕を開くのである。
 ところでこの恍惚のパーティにどうしても乗れない魂がある。頑固なエゴが溶けず、全体のリズムにチューニングできないのだ。この自分の音声とリズムが全体の調和に対して不協和音だと意識する状態、それがバッド・トリップだ。
 どんなにセッティングの良いパーティでもほぼ半分はバッド・トリップに墜ちた。それを見て飛ぶ方は鼓舞され、悲鳴や嘆息を絶好のバックコーラスとして、極彩色のマンダラ宇宙を、フリーソングに乗って巨大な龍のように飛び回るのだ。それは残酷なまでに対照的な光景だった。天国に舞う者たちは一つに溶け合っているのに、地獄に堕ちた者たちは孤独に打ちのめされていた。どんな救いの手が差しのべられよう。原因は当人の内部以外のどこにもないのだから。
 やがて小鳥たちが騒ぎ出し、夜の白む頃、パーティは終わる。最後まで席に残るのは僅かだが、私がガイドしたパーティでは、幸いフリークアウトして狂ったり、自殺した者はいなかった。

[サイケブームと桜島フェスティバル]

 1968年は明治100年、戦争に明け暮れた日本が、戦後23年間も泰平の時代を過ごし、ケチケチ倹約の時代から、使い捨て消費文明の時代を迎え、「イザナギ景気」に浮かれ、「昭和元禄」と命名し、その象徴として「サイケ調」がブームになった。
 LSDのサイケデリック(略してサイケ)は、日本語で「霊性の開発」「魂の覚醒」「精神の顕在」などと訳された。意識革命をめざすカウンター・カルチュア運動にとって、LSDは聖なる革命の武器だった。
 しかし大衆の魂を眠らせ、支配するメイン・カルチュアにとっては、LSDとは眩惑的なイメージで金を儲けるための武器だった。ディスコの極彩色の装飾や明滅する照明、TVのCMや若者のファッション、そして街頭の風俗にも「サイケ調」が目立った。情報産業の電通や博報堂などが、大量のLSDをデザイナーに与えて、サイケ調を演出していたことを後で知った。「LSDの脱イデオロギー化」などと言われたものだ。
 この夏「部族」は前年の宮崎に次いで、鹿児島でフェスティバルを催した。諏訪之瀬の大自然の中でサイケデリックを体験した私たちは、サイケ調の鹿児島市街を歩いた。諏訪之瀬島の後衛陣地という位置にあり、仲間も沢山いたので、鹿児島はムーヴメントにとって重要な拠点だった。
 フェスティバルの前半は市内でのフラワーパレードや詩の朗読会などを予定していたのだが、当日は八坂神社の祇園祭のため中止するよう警察から要請されたので、あっさり中止した。その代わり仲間たちは「部族」新聞やフェスティバルのポスターを街頭で売って、祭りの資金を稼いだ。
 ヒッピーブームはピークだったから、我々を見る市民の眼は好奇心そのもの。『週刊朝日』や地元新聞などマスコミも取材にきた。そこで私たちは、桜島でのキャンプインの取材ボイコットを条件に、取材に応じた。
 「宇宙20億光年記念 部族(新石器)40000年記念 第4回ハリジャン夏の祭典」と銘打った黒白のポスターは、私が描いたのだが1枚も残っていないので、記憶を頼りに今号のイラストに描いてみた。
 「ハリジャン」というのは、ビートニック時代に「バム」を名乗った私たちが、「部族」を立ち上げた時に自称した名前だ。この言葉はマハトマ・ガンジーが不可蝕民を神の子=ハリジャンと呼んだことに由来するが、当の不可蝕民たちは彼らのリーダーであるアンベトカルの「我々は神の子ではない。抑圧された人間=ダリットである」の言葉通り、「ダリット」を自称したため、ハリジャンは死語になっていた。それを知ってハリジャンの自称を止めた頃、代って「フリーク」という世界共通語が伝来した。(これについては後述)
 さて、夏の祭典のキャンプインは盛んに噴煙を噴き上げる桜島を見上げながら、木造定期船で黒神部落へ渡って催した。大正3年の大噴火によって、桜島は陸とつながり、8分通り灰に埋まってしまった黒神神社の鳥居が爆発の名残りをとどめていた。
 キャンプインといっても、まだ各人がテントを持参できる時代ではなく、宿泊は神社の社務所を借りて、数10人がごろ寝した。食事は鹿児島の市場から仕入れてきたネタを炊き出した。真夏の太陽がいっぱいの溶岩台地では、ドラムカンを叩いてフリーソングやマントラを歌い、裸になって踊った。
 マスコミを拒否したので部外者はいなかったが、鹿児島から数人の女子高生がやってきて、ヒッピーについて盛んに問いかけてきた。その中のリーダー格だったエーコは、その後ドロップアウトして仲間に加わった。
 大阪からヒッチハイクで参加した高校生のモクは、ポスターを持って大阪まで宣伝に行ってきた。血を吐いて広島の病院に入院していたアキは、松葉杖をついてやってきた。ナナオ、キャップ、サト、サタン、グ、ラダ、マヤ、ミッキー、ム、クロ、そしてメイビン……みんな若くてカッコ良かった。

 [脱走米兵とベ平連]

 鹿児島での祭りの後、私は再び諏訪之瀬島へ戻ったが、ベトナム戦争から脱出した3人の米兵が一緒だった。
 ベトナム戦争は泥沼と化し、アメリカ国内ではヒッピーのフラワーパワーが爆発、日本でも「ベ平連」が組織され、積極的な平和運動を展開していた。しかし「部族」をはじめ、わが国のヒッピーたちは「ベ平連」のデモには参加せず、政治的次元での運動を極力避けて、文化的ラディカルを追求していた。
 「部族」と「ベ平連」との関係は、ゲイリー・スナイダーと鶴見俊輔氏との個人的友情によるもので、脱出米兵を諏訪之瀬島に匿う件も、いわば「義理と人情」次元での協力だった。
 当時ベ平連はベトナム帰休米兵に脱出を呼びかけ、ソ連経由でヨーロッパ中立国へ脱出させる活動をしていた。例え脱出米兵を匿ったことがバレても、日本人は罪にならなかったが、あくまでも当局の目を隠れた地下活動であり、その組織を「ジャティック」と呼んだ。
 積極的な反戦運動はしなかったが、私たちにも殺戮を拒否して脱出した米兵に対する敬意はあった。ところが匿った3人は反戦思想など持ち合わせがなく、上官暴行でやむなく脱出したゴロツキだった。だから腹がへれば台所をうろつき、肉が食いたくなれば包丁を持ってニワトリを追いかけ回した。ひどい連中だった。
 こんなガキ共のために日本中の活動家たちが、身ゼニを切って救援活動しているのかと思うと、心底あほらしくなった。彼らに同伴したベ平連の活動家阿奈井文彦氏も同意していた。もちろん我々の所へ来た3人が最悪で、中には良い連中も沢山いたようだが。
 イザナギ景気とか、3C時代(カー、クーラー、カラーテレビ)とか、高度経済成長がピークに向かう頃、70年安保斗争に向けて、反体制運動もまた猛然と燃え上がっていた。
 10. 21国際反戦デーの新宿では、市民や学生のデモに警察がガス弾と棍棒で襲いかかり、内乱状態になった。いわゆる「新宿騒乱事件」である。これを期に新宿から自由の息吹は消えた。クリーン作戦は成功し、サラリーマン用の都市管理システムが完成したのである。
 新宿騒乱のニュースを聞いて諏訪之瀬を出た私は、信州へ行く途中、京都のゲイリー宅に立寄り、初めて鶴見俊輔さんに会い、同志社大学の「ベ平連集会」に誘われた。あまり気は向かなかったが、「何でも一度はやってみよう」という主義なので、参加を約束した。
 大学の講堂は満員だった。私は学生という人種が苦手だ。特に日本のような制服の世界には、本能的にファシズムを感じてしまうのだ。画一化、均質化、規格化されたものは、欲望から思想まで信用できなかった。
 壇上には小田実氏をはじめ、ベ平連の幹部たちがズラリと並んでいたが、鶴見俊輔と書かれた席だけが空席になっていた。当の鶴見さんは観客の側にあって、私に代役をやれと盛んにけしかけていた。学生の前で演説するなんてことは生涯2度とないだろうと思うと、1度はやってみようという気になった。
 壇上に登り、鶴見さんの席に坐った。私は坐高が低いから“大の男”の小田実氏の半分くらいの“小の男”である。なめられてはつまらんと思ったので、スピーチする時は立ち上がった。
 「ベトナム戦争を本気で止めたいなら、ベトナム戦争の軍需景気で大儲けしている日本の体制をドロップアウトすべきだ。大学なんてやめて、ヒッピーになれ!」
 なにしろ後ろに鶴見御大がついているから遠慮はいらないと思って言いたいことを言った。しゃべり終っても、さすがに拍手はなかった。だが1人の学生が立上がって、
 「ヒッピーさんに散髪代をカンパします!」と言って、500円くれた。
 私は「ありがとう!」と礼を言って、壇上でそれを受取った後、「もらった以上は散髪しようと酒を飲もうと、こっちのもんだ」と言ったら、皆がドッと笑った。
 つき合いは良い方だから、ついでにデモ行進までつき合ったが、さすがに退屈したのでマントラを歌って歩いた。

 [ヒッピー差別]

 今でこそヒッピーという言葉から「差別」のニュアンスは完全に払拭された感じだが、ヒッピーブームの頃の「ヒッピー差別」のもの凄さは、現代の若者には想像もつかないだろう。
 「ヒッピーとは怠け者、無精者、根なし草、世捨て人、無責任、マリファナ常習者、フリーセックス、反社会的変質者、精神的浮浪者、非国民、変人、奇人」などというマスコミ印のイメージは、プチブル市民社会にスキャンダラスな衝撃を与え、親たちをして息子や娘たちに「例え殺人、放火の罪を犯しても、ヒッピーにだけはなってくれるな!」とまで言わせ、権力者たちも一時的にヒステリックになった。 
 しかし一方で、ヒッピーを全く差別しない人種がいた。その最たるものは「街道の雲助」を自認する、長距離トラックの運ちゃんたちだ。彼らはヒッチハイカーを運んでくれただけではなく、飯を奢り、時には路銀まで恵んでくれた。彼らは我々の良き理解者であり、例え一時でも生命を分かち合った友達だった。
 京都のベ平連デモの後、ヒッチハイクで久々に信州の「雷赤鴉族」に戻った私は、八ヶ岳を望む高原の秋を満喫した。ヒッピームーヴメントも2年目ともなると、相当型破りな若者たちが登場してきた。彼らのほとんどが中卒か高校中退のハイティーンだったから、社会の通念や常識に侵されていない分だけ、私たちの世代には思いもつかないことを平気でやってのけた。
 文明、美明、無明の3人組は食料が無くなると、サイケ調の女装をして、ヒッチハイクで新宿へ行き、オカマを売って歩いたが買い手がなかった。結核を克服した松葉杖のアキは、諏訪の飲み屋街を「乞食ですが酒を飲ませて下さい」と一廻りして、ベロンベロンになって帰ってきた。何度うるさいと注意しても、一日中ギターを弾いていたボブは16歳の少年だった。一方ナゴヤは一日中何もしゃべらないで虫の研究をしていた。各人が時代の異端児であり、社会的不適応者であり、無鉄砲で気まぐれで、温かい心をもった天才であり、ヒッピー差別が彼らをドブネズミのようにたくましく鍛えていた。
 東京からヒッチハイクで半日という雷赤鴉には、土日には「サンデーヒッピー」という人種も現れた。ワッコンなど女子美系の華やかな女たちがやって来たのもその頃だった。
 その年の暮、ゲイリー・スナイダーは10年の日本滞在を終えて、アメリカへ帰国した。神戸から客船で出発したゲイリーファミリーを横浜で迎えて、チャイナタウンで部族の仲間約20人と送別会を催した。ビートニックからヒッピーへ、日本のカウンター・カルチュア運動に多大な影響を与えたメッセンジャーとして、ゲイリーの業績は比類がなかった。


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