【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[霊的波動の充満   バラナシ]

 バラナシ(ヴァーラナスィー)を訪れる前から、私にはバラナシに対する先入観があった。私より約百年前、バラナシを訪れたベンガルの聖者ラーマクリシュナは、その印象を『福音』の中で次のように語っていた。
 「沢山の人たちの祈りが捧げられた聖地には、霊的な波動が充満している」
 
 パトナを発った夜行列車は、日の出前から乗客がざわめき出したので目が覚めた。そろそろバラナシかと思ったが、誰も降りる気配はなかった。ほぼ満員の乗客は言葉も服装もさまざまだったが、あちこちから「ガンガー」という共通語が聞こえた。
 ガンガーとはガンジス河とその女神のこと。神話によれば、ガンガー女神は天上界から直接地上界へ降下しては、大地が破壊してしまうため、シヴァ神のドレッド・ヘアーの上へいったん降下し、もじゃもじゃ髪で勢いを弱めてから、地上界へ降下したという。ガンガー女神は最高神シヴァの妻である。
 日の出が近づくに従って、車内は異様な興奮に包まれ、あちこちから「ガンガーキージャイ!」(ガンガー万歳)の声が聞こえた。そして暁の女神ウシャスの柔かい光が、視界を色づかせるころ、列車はガンガーの鉄橋の上にさしかかった。
 「ガンガーキージャイ ガンガーキージャイ!!」
 興奮と熱狂はピークに達し、車窓からはガンガーに賽銭が投げられ、感動に涙する人たちもいた。遥か対岸にヒンズー教の最高聖都バラナシが、朝日のスポットを真正面から浴びて、燦然と輝いていた。
 私はヒンズー教徒の河に対する信仰と、聖地崇拝の熱烈さに度肝を抜かれながら、シヴァの黄金の都へすべり込んでいった。
 満員列車から吐き出されて、聖地の土を踏み、駅から一歩出たとたんに「ウワーッ!」と目を見張った。そこにチロムの山があったからだ。荒縄で荷造りされたチロムが、陶器屋の店頭に屋根までうず高く積まれていた。
 チロムというのは陶土を焼いた筒型の喫煙具で、ガンジャ吸いにとっては、パイプ煙草吸いのパイプのように、常に掃除して磨きをかけ、小袋に入れて携帯する愛玩具である。ところがそのチロムは普通サイズの半分くらいしかない素焼の安物なのだ。しかし半端な数ではなかった。これほど大量のチロムを消費する都市とは、いったいどんなところなのかと、またまた度肝を抜かれながら、朝の礼拝に間に合うように、ガンガーめざして歩いた。
 駅から徒歩30分くらいと聞いたが、歩いても歩いても河は見えなかった。市街地からガンガーへ出るためには、河岸のガートという階段状の沐浴場に沿って、帯状に形成された巨大迷路を突破せねばならない。暗くて曲りくねった狭い路地を、人間だけでなく牛や山羊や水牛などとすれ違いながら、2時間近くも歩いただろうか。連れのAには相当きつかったはずだ。
 朝の礼拝がラッシュを過ぎた頃、私たちは寺院の内庭に迷いこみ、閉ざされた門の前で立往生してしまった。門の扉は錆びついており、私の力ではビクともしなかった。迂回して別の道を探そうと彼女は言ったが、私はこの門こそ私に定められた道だと思った。扉の向こうにガンガーがあることは直観できた。
 そこで私は寺院を訪れ、2人の寺男に「遠い日本から、母なるガンガーに会いに来たのだ。あの門を開けてくれ!」と懇願し、一歩も退かなかった。寺男たちはうんざりしたのか、感心したのか、それとも同情したのか、2人がかりで「ギギーッ!」と扉を開けてくれた。
 「ルック アト ユア マザー!」と言われて、門の外へ一歩踏み出し、目の前に展開するガンガーの大パノラマを見た瞬間、私は失神するような懐かしさに包まれた。それは「ついに帰って来た!」という既視感だった。

    ガンガーの歌
 
 おお ガンガー ナマステー!
 明るい無心の光よ
 横たわる悦びの光よ
 母の平和の光よ
 ただ 知覚だけ あるいは観念の渦
 光の音楽 プージャ(礼拝)の鉦と鈴の音
 
 ジャイ ラーム とハヌマーン 猿の群れ
 ジャイ ラーム と鳥たちは低く高く歌い
 ジャイ ラーム と洗濯夫たちのかけ声
 土手に繋がれた彼らのロバは夢の中で叫ぶ

 ああ 船漕ぐ音のラーマの歌
 震える波のラーマのきらめき
 ラーマの光の子供たち
 水牛を追う少年の懐かしい呼び声よ
 ラーマの名を唱えてチロムを吸うサドゥたち
 静かに 華やかに ガンガーは歌う

 おお 母なる女神 マーヤー(幻力)の主よ!
 この美の中に 罠を仕掛けることなく
 あなたの光に 心ゆくまで酔わせて下さい
 この光を求めて 遠くから私はやって来た
 暗い森 荒々しい原野 汚れた街々を経て
 今 あなたの永遠の伴侶である
 主神シヴァの黄金の聖都バラナシで
 あなたの水に浸り あなたの水を呑んだ  

 おお不滅のガンガーよ!
 あなたに出会ってから
 私の目に不思議な変化が現れた
 あなたはどんな細工をしたのでしょうか?
 ガートにひしめく虫ケラのような群衆が
 あなたの水に浄められ きらめく宝石と化し
 ラーマの光の大合唱をくりかえす
 
 おお 私のラーマをあのように讃える人々に
 私はまるでグルバイ(きょうだい弟子)に
 抱くような愛を感じる
 限りなく愛しいもの 人よ 人の群れよ 
 あの中へ 私は入って行こう
 あの心たちと共に ラーマの名を唱えつつ
 世界をラーマの閃光で
 焼き尽くしてしまいたい
 
 シュリ ラーム ジャイ ラーム ジャイ ジャイ ラーム

 この頃はラーマの祭りだったのか、メインガートの近くにある音楽堂からは、終日マイクを通して「ジャイ ラーム」(ラーマ万歳)のマントラが流れていた。
 ラーマは神話『ラーマーヤナ』の主人公で、ヴィシュヌ神の7番目の化身である。ラーマ王子は魔王ラーバナのランカー城から、王妃シーターを奪回する戦いを前に、シヴァに戦勝を祈った。
 一方、大麻の守護神であるシヴァは、ガンジャを吸って酔っぱらうと、ラーマの名を唱えながら、ナタラージャ(舞踏王)の舞いを舞うという。ヴィシュヌとシヴァがお互いに祈り合うのだから、ヴィシュヌ派とシヴァ派が対立し、喧嘩する理由はない。多神教の神話はうまく出来ている。
 ラーマが光であるのに対して、8番目の化身であるクリシュナは黒(闇)である。ヴィシュヌの神聖を意味する「ハリ、又はハレ」(シヴァはハラ)を冠したマントラ「ハリラーマ ハリクリシュナ」は、ヒッピームーヴメントの波に乗って大流行した。
 60年代後半、アメリカへ渡った「国際クリシュナ意識協会」のバクティヴェーダーンタは、15世紀ベンガルの聖者チャイタニヤのクリシュナ信仰に基づくバクティ運動を開始し、ビートルズのジョージ・ハリスンのサポートなどもあって、ロックコンサートでも「ハリラーマ ハリクリシュナ」のマントラが歌われ、沢山のヒッピーがオレンジ色の衣をまとい、ポニーテールを残して剃髪し、信者になった。
 この時代ヒンズー教は、ビートルズが師事して有名になった「TM瞑想法」のマハリシ・マヘーシュ・ヨーギなど多くのグルが、またグル・マハラージという10代の少年聖者を立てた「デヴァインライト・ミッション」などのカルト教団がアメリカへ渡り、信者、支持者、スポンサーを獲得していった。
 ヒンズー教はカースト制度という社会基盤の上に成立し、存続してきた宗教だが、カウンター・カルチュア運動はカースト制度の基盤から離脱したヒンズー教を歓迎し、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、日本などに「アウトカースト」のヒンズー教徒を生み出した。アルコールを飲み、牛肉を食うヒンズー教徒を。
 私たちが日本の仏教に魅力を感じず、仏教の「無」や「空」という概念の前で立往生していたとき、ヒンズー教は「ハリラーマ ハリクリシュナ」と歌い、ラーマクリシュナは「神を求めて泣きなさい。神は見ることができるのだ」と言った。
 「霊とは有る無いの相対性を超えたもの、即ち『空』である」と仏教は言う。
 「汝はそれ、アートマンである」
 「アートマン(個人霊)とは、即ちブラフマン(宇宙霊)である」と、ヒンズー教は言う。
 仏教が「無」というとき、ヒンズー教は「有」という。コインの表裏である仏教とヒンズー教であるが、無や空の探求よりは、有の方が断然面白そうだった。逆説的に言えば、ヒンズー教を通じて仏教を理解するのだ。
 ヒンズー教にはキリスト教、イスラム教、仏教などの世界宗教と違い、開祖がいない。ヒンズー教は数千年にわたり、インドに生まれたすべての宗教や文化を吸収、同化しつつしだいに発展してきた。従ってキリスト教の『聖書』やイスラム教の『コーラン』のような絶対唯一の権威ある聖典は存在しない。『ヴェーダ』『ウパニシャッド』『バガヴァッド・ギーター』『ラーマヤーナ』『マハバーラタ』『プラーナ』などの聖典はあるが絶対的なものではない。
 ヒンズー教の前身であるバラモン教の『ヴェーダ』というアーリヤ系の教典には、バクティについての記載がほとんどない。バクティ思想はドラヴィダ系の非ヴェーダ文化が、ヒンズー教を発展さす中で生まれた。
 例えばシヴァ神は『ヴェーダ』では、暴風神ルドラと結びつく程度の存在だが、非ヴェーダ文化では、破壊神として創造神ブラフマー、保持神ヴィシュヌとトリムルティ(三位一体)を成し、最高神シャンカラと呼ばれ、ヨガの完成者ヨゲシュヴァラ、舞踏王ナタラージャ、獣や妖怪、幽霊などの主パシュパティなどとも呼ばれ、男根崇拝と結びついてシヴァ・リンガムとして祀られ、また最高実在の力の両面と示す男神シヴァと妃神シャクティを一対とするタントラ密教のデヴィ女神信仰がある。
 シャクティは土着の女神をシヴァの妃にするため多くの名があるが、ヒマラヤの女神ウマ・パールヴァティ、死と破壊の黒き母神カーリー、河の女神ガンガー、ヤムナー、戦いの女神ドゥルガーなど、変幻自在のマーヤー(幻力)である。
 数千年にわたるインドの知的、宗教的な活動の中心がバラナシだった。仏陀は菩提樹下の大悟のあと、バラナシまでやって来て、郊外のサルナート(鹿野苑)での最初の説法「初転法輪」により最初の弟子5人を得た。
 前2世紀には『ヨガ・スートラ』のパタンジャリ、後8世紀にはヴェーダーンタ「不二一元論」の最大の哲学者シャンカラチャーリア、11世紀にはヴィシュヌ信仰の「限定非二元論」の創始者ラーマヌジャ、16世紀には『ラーマヤーナ』の詩人トゥルシダースなど、バラナシでは宗教的、文化的偉人たちの多くが活動してきた。現在でも「バナーラス・ヒンズー大学があり、知的リーダーシップを握っている。

 さて、ヒマラヤを源流としてインド大陸を横断し、ベンガル湾に注ぐガンガーは、バラナシでは南から北へ向かって大きくカーブしている。そのためバラナシでは東岸の砂丘の彼方の大平原から昇る朝日を、西岸のガートから礼拝できるのだ。日の出の頃には、延々2キロにも及ぶガートには、上流から下流まで市民や巡礼者が賑わい、特にメインのダシャーシュワメード・ガートは祭りのような盛況である。
 プージャの鉦やほら貝が鳴り、マントラが唱えられ、人々は太陽に向かって聖なる水を捧げ、沐浴して心身を浄め、壷に汲んだガンガーの水を各家庭の祭壇に持ち帰るのだ。
 私たちは河沿いにふたつある火葬場のうち、上流の火葬場より少し上流のガートの上段に自分たちのスポットを定め、一日のうち何時間かを、そこからガンガーを眺めて過ごした。
 カトマンズから持参したチャラスを吸いながら、時にはピーナツ売りの少年を呼んで、塩つきピーナツを買った。
 目の前のガートに沐浴者は少なかったが、常連の親子とは顔見知りになった。毎日2、30頭の水牛の群れが、少年に率いられて水浴びに来た。下流には洗濯屋が数人、膝まで水につかって洗濯物を石の台に打ちつけており、その向こうに火葬場の煙が見えた。岸には数隻のボートが対岸(彼岸、あの世)に渡る客を待っていた。
 何百年も、何千年も、永遠の秩序と調和に満ちたシャンティ世界である。だが一日に一回だけ、この調和は破られ「近代」が凶暴な姿を現わす。エンジンの音を轟かせて、ギャバメントの巡視船が往復するのだ。とたんにガンガーは波立ち、繋がれた船はぶつかり合い、水中で祈っている人たちは揺り動かされる。そこで私の「古代トリップ」は中断するのだ。
 食事はメインガートから大通りへ出る途中にある何軒かの店を試食した。食事中、店頭に風格万点のサドゥが無言で立っていることがあった。店員が食物を捧げれば黙って受け、何も与えなければ黙って去った。同じ物乞いとはいえ、サドゥと乞食では一目で分かるほど品格に差があった。
 当時はフリークなサドゥがいっぱいいた。立ちっぱなしで坐らないという苦行のため、両脚が下の方ほど太い象の脚のようなサドゥがいた。太陽を直視続けて両眼が溶けて失明したサドゥもいた。
 私たちはバラナシの宿を、最もガンガーに近いところ、即ちガンガーに浮かぶ「ハウスボート」にとった。それはメインガートの少し上流に繋留した廃船で、屋根はあったが船室はベッドなしのドミトリー、1泊1ルピーの格安だったから、ヒッピー専用という感じだった。便所は船尾にあって、ガンガーへ直接ボットンである。赤ん坊の死体がハウスボートの周辺に2、3日漂流していたこともあった。礼拝者はこの水で沐浴し、口をすすぎ、「信仰は細菌より強し」と、その水を飲む者もいる。
 印パ戦争は開戦も直近かで、夜になるとパキスタン軍の空襲を警戒して、灯火管制が敷かれた。ハウスボートから見る岸辺の建物の窓には明かりが見えず、音も聞こえず、太古の闇に還った聖都を、こうこうたる満月が照らしていた。
 私たちはハウスボートの甲板で車座になってチロムを回した。ドイツ人などヨーロッパ勢が4、5人、アメリカンが1人、話はやっぱり宗教談義になり、私も拙い英語で質問に答えたりした。フリークスは日本の仏教は禅と真言密教についてはそれなりの知識はあったが、南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏については皆目知らなかった。そのうち私に「ハート・スートラ」のリクエストがあった。「般若心経」のことである。
 そこで私は暗誦している唯一の経典「般若心経」を、大声で唱えた。月夜のガンガーを観自在菩薩の色即是空が、陶々と流れていった。

 ギャーティ ギャーティ ハラ ギャーティ ハラソー ギャーティ ボジソワカ!

 往くものよ 往くものよ 全き往くものよ 永遠に往くものよ 幸あれ


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