【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[大麻天国の最後の栄光   カトマンズ]

挿絵

 バスは喘ぐように幾つかの峠を越え、高度を上げてゆく。真青な秋空のかなたには、時々ヒマラヤの真白な峰々が姿を顕わす。やがてバスは坂道を下ってカトマンズ盆地に入り、農村風景から市街風景をバックに、山の民の世界が幕を開く。
 インド世界の騒音と自己主張に馴れた感性には、そこは何という静かで慎ましい世界だろう。乗用車はほとんど見かけなかった。(王宮などに3台あるだけと聞いた)古い街並みを歩いていると、まだ馬車や牛車しか無かった幼児期の故郷へ、タイムスリップするような郷愁に見舞われた。
 日本人の旅行者には、ネパールに郷愁を感じる人が多いようだが、山また山の飛騨高山を故郷に持つ私には、ひとしおであった。盆地という山の民が群れ集う場には、飛騨高山が標高600メートル、人口数万人に対して、カトマンズが標高1400メートル、人口百万人という相違はあっても、高い山々に包まれた母胎の温もりのようなやすらぎがあって、カトマンズにいる私は一種の母胎回帰をしているのだった。
 だがカトマンズには郷愁だけではなく、もうひとつの情動があふれていた。ヒッピーブームである。インドのゴア、アフガンのカブール、ネパールのカトマンズは「ヒッピーの3大聖地」と言われ、世界中からヒッピーが集まっていた。
 ヒッピーの恋物語をテーマにして、68年にカトマンズで撮影されたフランス映画「カトマンズの恋人」(監督アンドレ・カイアット)が世界的にヒットして、カトマンズの名はヒッピーのメッカとして知れ渡った。カトマンズの中央部ダルバール広場に通じるレストランやホテルなどのあるジェッチェン通りは、ヒッピー(当時ヒッピーは「フリーク」を自称していた)で賑わうことから「フリーク・ストリート」という名がついた。
 ネパールは1951年に開国するまで、約100年間も鎖国状態だった。従って中世から近世抜きで、いきなり欧米近代の前衛ファッションを迎えたヒマラヤの王国では、水牛までが英語を話すと言われるような、未曾有のマンガ的状況が現象していた。
 カトマンズ市街のレストランや茶屋では、どこでも終日ロックが鳴り響き、白人フリークスがチロムやジョイントを回していた。花のカトマンズに遊ぶとあって、それぞれがエスニックでサイケデリックなおしゃれをしていた。テンションが上がりすぎてうるさい奴もいたが、病んではいなかった。恋に破れた奴はいても、ラヴ&ピースのフリークスはヒッピー、ハッピーそのものだった。少しだが日本人のフリークスにも出会った。
 季節はまさにハーベスト・シーズン。私たちが宿泊したホテルは、ダルバール広場に面した3階建てで、1階にガンジャ・ショップがあった。ガラスケースの中には、収穫したばかりのガンジャやチャラスが、生産地ごとに展示されており、またガンジャ・クッキーやハシシー・オイルなども並べてあった。当時は「ロイヤル・ネパール」というチャラスの絶品もあった。もちろん買う前に味見は自由。香りから効きまで、お好み次第だ。
 ホテルのオーナーの指摘するところによれば、壁に掲示してある額の中味は、国王の推薦状だという。「この店のガンジャやチャラスは最高である」とでも、書いてあるのだろうか。
 当時の国王は1955年に即位したマヘンドラ国王で、彼は国連に加盟すると同時に、総選挙によって誕生した内閣と議会を解散させ、クーデターによって民主化を弾圧し、国王親政を敷いた。そして60年代後半からのヒッピーブームは「大麻天国」を出現させ、カトマンズを潤し、ネパール王国の安泰をもたらした。
 大麻は国王の奨励する産業であり、阿片の規制もなく、LSDを取締る法律もないから、何でもありのフリードラッグだった。20世紀後半に、こんな国が地上に出現したこと自体が奇蹟としか思えない。
 ホテルの2階にはホールがあって、毎日のようにフリークスが集まり、パーティを開き、ロックが鳴り響き、時には全裸になってボディ・ペインティングをやり、多分セックスもやっていたのだろう。私たちが宿泊していた3階に通じる階段からはホールが丸見えで、何度か誘われたこともあるが、連れのAは全然その気がなかった。
 彼女は体調を崩し、食餌療法をするためケロシンコンロを買い、毎朝ダルバール広場の朝市で、牛乳やブルーチーズやカリフラワーなどを仕入れて、自炊を始めた。気分は沈みがちで寡黙な日々が続いた。インドへ上陸して以来、セックスは断絶していた。聖地を巡り、アシュラマや道場に宿泊し、霊的・観念的なテンションが上がり、肉欲次元の交わりを敬遠したとも言えるが、もちろん彼女が求めれば応じたはずだった。ところが体調不良もあってか、Aには全くその気が無かった。
 その上、彼女はガンジャもチャラスもほとんど吸わなくなった。私がチェーン・スモーカーになり、インド世界にのめり込んでゆく分だけ、彼女をないがしろにする結果になったのだ。
 それでも西の丘の上にあるスワヤンブ寺院や、東の丘にあるパシュパティ神殿から、目玉の仏塔があるボダナートへ通じる田舎道を、一緒に散歩している時などは、自然に手をつなぎマントラをくちずさむような、童心に帰ることもあった。彼女もまた「母なるもの」であった。
 「あらゆる女の内に『母』を見よ」と、ラーマクリシュナは言った。女体というマーヤー(幻力)でなく、母胎という神聖な真理を崇めよ、と。この超観念的な母神崇拝論は、カトマンズ盆地特有の母胎回帰ムードによって、私の幼児退行ムードを助長した。
 ある日の夕方、スワヤンブナートからの帰り道、暮れなずむ路傍に白いタマゴ大の球体が浮いているのを見た。近づけば近づくほどそれは幻覚と見まがう程、不思議な物体だったが、茎があることから花だと分かった。私はその美しく優雅で得体の知れない白い花を摘んで、Aに捧げた。それは初めて見た綿の花だった。
 さて、気さくな遊び人風のホテルのオーナーは、私と同年輩だったが、ドラッグについては先輩らしく、阿片は未体験だという私に「一度オピウムを試してみな!」と言って、小指大の黒いスティック状の塊をくれた。香りも質感もチャラスとは別物だった。
 インドのガンジャ・ショップでもオピウムを売っていて、下痢止めの民間薬として重宝がられていた。阿片は精製以前のオピウム(生阿片)の状態で摂取する限り、毒と抗毒の微量要素が混在し、調和を保っているので依存症(中毒)にはならないと言われている。
 午後はまだ明るかったが、カーテンを閉ざし、オピウムを半分に分けて、彼女と水で呑み込んだ。パイプで吸っても良いと言われたが、Aが煙を吸うのを嫌がったからだ。ダブルベッドに横になって目を閉じた。下の階からロックが聞こえてきたが、しだいに時間の感覚が薄らぎ、乳飲み子が母親の胸で夢見るような生温かい愛に包まれていた。幼児退行から嬰児退行まで行っていたのだ。
 ふと、Aのことが気になって薄目を開けてみると、彼女は隣のベッドで背を向けて横たわっていた。それは生命や意識のある存在とは思えず、遠い遠い異次元の存在のようだった。性欲はもとより、愛情すら感じなかった。
 外界を閉ざし、再び薄明の中を浮遊しているうちに、私は自分が胎児退行していることに気づいた。腕と脚は折りたたんだ格好で縮こまり、目を閉じていた。それは自我の溶解するような甘美な陶酔であり、愛する者と愛される者の相対性が消え、絶対一元の愛の中に溶け合っていた。
 しかし時間はこの平安と快楽を長くは許さなかった。胎児は内部に生じた異常に気づく。その小さな違和感はしだいにストレスとなって、尿意が正体を顕わした。おしっこなど羊水の中へすれば良いはずなのに「便所へ行かねばならない」という分別が働いた。しかし胎児退行している神経系統に、行動器官を操作させることは容易なことではなかった。
 起き上がるためには、先ず左足を動かさねばならない。左足の神経系統に意識を集中し、いろいろボタンを押してみるが、絶望的なほど作動しない。が、そのうちピクッと左足が反応し、それを頼りに左足全体を動かす。右足もまた同じような順序を踏み、念力を使わねばならない。まして上半身を起こすという大技から、2本足で立つという連続技を実践する頃には、小便をこらえるのが相当苦痛になっていた。
 ドアを開け、階段の手すりにつかまって、便所のある1階まで、ほとんど目をつむって降りた。「次は右!」「次は左!」と1段づつ自分に命令しないと、自分が何をしているのかを忘れ、苦痛に耐えながら立往生していることがたびたびあった。
 やっと便所にたどり着いて、小便をした時の気持の良さは最高だった。あまりの快感に脳味噌が溶けるような没我状態にあったが、彫像の小便小僧のようにおしっこは出っぱなしだった。その時、便所の小窓からオリオンの三つ星が、くっきり見えたのが印象的だった。胎児から更に退行したら、あそこへ行くのだとでも思ったのだろうか。
 かくて私は花のカトマンズ盆地で幼児退行を体験し、オピウムを採って嬰児退行から胎児退行までを体験したことによって、阿片の本質を身をもって知った。
 阿片は感覚を鈍化し、意識を退行させて、その甘美な陶酔の中で、自らの肉体を含む外界に対する関心を奪い、リアリティを喪失させる。阿片吸飲者が目の前で火事や戦争が起きてもビクともしないのは、リアリティを喪失しているからだ。勿論、小便をこらえられないように、火傷や被弾による苦痛というリアリティはあるだろうが、感覚を鈍化させる阿片の麻酔力は抜群である。阿片の精製物であるモルヒネが、沢山の病人の苦痛を救ってきたように。
 これに対して大麻やLSDなどのサイケデリック系のドラッグは、感覚を純化し、意識を進化させて、想像力を働かせ、未来を予見し、現実の矛盾を見破り、小さきものの中に神を見せる。
 意識の退化と進化、感覚の鈍化と純化、自我の過去と未来。オピウムとガンジャ、芥子と麻。「私」を求めて、昼の旅、夜の旅。
 カトマンズに滞在したのは20日間くらいだったか。彼女の体調はいまひとつだったが、行きたいところがいっぱいあった。だからトレッキングもしないで、山の都に別れを告げた。そして古き良きカトマンズは、これが見納めだった。
 
 翌72年、ピレンドラ国王が即位し、ポカラへのバス道路が開通した。インドブームはヒッピーのみならず金持ち観光客を動員することになるのだが、その中に「大麻天国」の破壊工作員も潜んでいた。CIAである。そして間もなく、大麻は非合法化され、国王一族の名義で、スイス銀行に大金が貯蓄されているという噂が流れた。
 噂の真相は知りえないが、ただその頃から、アメリカン・ヒッピーの姿がカトマンズから、ゴアから、インド亜大陸から、忽然と消えてしまったのは事実である。それはベトナム戦争で敗北したアメリカ軍が、ベトナムの大地から一掃されたのと、ほぼ時を同じくしていた。
 それ以来30余年、アメリカの若者が大挙して海外へ旅立ち、他国の若者と交歓し、自国を客体化して見ることは2度と無かった。「世界の警察官」を自称してきたアメリカの独善性と傲慢さを支えているのは、この「田舎っぺ根性」なのである。
 今年08年、ネパールは王制を廃止し、新しい憲法を制定して、共和制民主主義国家としてスタートする。この間なにがあったのか。私は82年に再度、92年に3度目と、10年毎にカトマンズの変化を見て来た。大麻天国の無残な崩壊のありさまは、時を追って語るとしよう。 


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