【第3部 3度目の旅 1992.1〜5】
第8章   行きはヨイヨイ 帰りはコワイ  パトナー、カルカッタ、バンコク、成田
   

〔インドのサーカス  パトナー〕

 革命前夜を想わす松明デモを眼の当たりにした翌日、私たちはカトマンズを後にした。夜行バスは明け方、国境の町ビールガンジに到着、歩いてボーダーを越え、インドのラクソウルから再びバスで灼熱のビハール平原へ。かつてはフェリーで渡ったガンガーを、バスは新設された長い長い橋を渡って首都パトナーに到着 した。
 バス停で降りると、すぐ近くに元フェリー乗り場があったので立ち寄ってみた。岸辺には懐かしいオフィスビルがあったが、内部は空っぽで人影はない。そこで屋上まで登ってガンガーを眺める。パトナーまで来るとガンガーの水量は圧倒的だ。バラナシの痩せ細ったガンガーが嘘のようだ。川幅は広く、対岸はほとんど霞んでいる。
 「つい最近まで、ここから外輪つきのフェリーでガンガーを渡って、カトマンズへ行ってたんだよ」と話すと、娘たちは「来るのが遅すぎた」と悔しがる。
 パトナーの前身は紀元前5世紀、マガダ国の首都パータリプトラ。そのころビハール州では仏教とジャイナ教が誕生した。前3世紀マガダ国のアショカ王は初めて全インドを統治したが、仏教に回心して戦争を放棄し、仏教を全インドに広げた。古代から中世にかけて「ビハールの栄光を語らずして、インドの歴史は語れない」といわれている。
 そして現代のビハールは、インドで最も貧しい州である。その貧しさの中から1919年、マハマト・ガンジーの「イギリス商品ボイコット運動」が開始され、インド独立への口火が切られたのである。
 さて、ホテルを決めて涼を取ろうと、リュックを担いで市街地へ踏み込んだところが、そこは奇妙な一画で、街路樹の繁る道路の両側の家並みが、半分地下に潜り込んでいて、屋根は大人の肩くらいしかなかった。
 そこの住民が小人族というわけではないが、なぜか人々はしゃがんで戸口をくぐり、地下室のような部屋で生活していた。不思議に思ったが、理由を糺す気もしないので、そのままリクシャを拾って駅前の安宿街へ行き、ロッジを決めてシャワーを浴びた。途中の公園でサーカスのテントを見かけたので、明日行こうと決 めた。
 サーカスのテント風景というのは懐かしく、胸を躍らすものがある。「ナタラージャ・サーカス」というインドサーカスのテントの内部は、親子の観客で満員だった。中央のステージでは、5.6歳から15.6歳までの子役が挨拶する。日本のサーカスには子役がいないから娘たちは大喜び。動物もゾウ、ライオン、トラ、ウマ、オームなど。
 無芸と思われたカバは、大きな口をあんぐり開けて場内を一周、最後は顎が疲れたのか口を閉じて一目散に退場。大爆笑と歓声。
 何といっても手に汗を握ったのは空中ブランコ。宙を飛ぶのは可憐で華奢な少女だと思っていたら、何と三段腹のデブオバサン。宙を飛んだのを受け止めた瞬間、相棒はブランコごとググーッと沈んだ。「キャーッ!」という悲鳴と大歓声。
 娘の維摩はこの後日本に帰ったら、すぐスペインの「ベンポスタ子供共和国」へ、弟の阿満(10歳)と入国が決まっている。ベンポスタではサーカスを学校の教課にしていて、共和国の運営はサーカス公演で賄われている。維摩の志願は空中ブランコだ。宇摩は高所恐怖症なのに、姉妹でもずいぶん異なるものだ。空中 ブランコを見物するのは楽しいが、自分の娘が飛ぶのを見るのは只事ではなさそうだ。
 この日5月7日は、海外旅行に出て丁度4ヶ月目だ。娘たちはこの間一日も休まず旅日記をつけている。毎晩1時間か、それ以上も。
 ところで、パトナーからカルカッタへ直行するか、それともガヤで途中下車して、ブッダガヤへ立ち寄るか、これには大いに迷った。他の仏跡はともあれ、仏教最高の聖地ブッダガヤだけは巡礼しておくべきだと思ったが、同時に前2回のブッダガヤの悪い印象が二の足を踏ませた。アジア各国の慎ましい仏教徒の前で演じられる、金満日本の坊主と檀家信徒の傍若無人、それに群がるインド商人たちの欲の突っぱり。そんなものを2度と見たくないという気もあって、結局暑さを理由にガヤでの途中下車を止めてしまった。
 しかしブッダガヤには素敵なチベット人もいるし、スジャータの村もある。娘たちの日記帳にブッダガヤの名が記されなかったことが、私の心に悔いを残している。

〔ポン引きのアクタル  カルカッタ〕

昼過ぎにカルカッタに到着し、サダルストリートのホテル・マリアに荷を降ろし、早速チョーリンギー通りの旅行代理店で、バンコク行きの格安チケットを予約した。 
 かくて滞在期間あと4日と決まった。やれやれ、脇腹の痛みを騙しだまし無事インドの旅を終えたという感じだ。娘たちはへたばるどころか、一日でも旅を長引かせたいようだ。
 マリアには日本人は少なかったが、隣のパラゴン・ロッジには、インドの旅を終えた日本人の旅人がいっぱい。現「THE FAMLY」のビンとサユリ夫婦は6歳の息子と幼児づれ。プーナで会ったゲタは金もパスポートも盗られ、「眼が覚めて良かった」とか。「シバ・ハリケーン」のヒカルに初めて会ったのもこの時だったか。同ロッジに宿泊中の若者が盲腸炎で入院したとかで、旅人たちは交替で面倒を見ていた。
 カルカッタまで来ると、突然日本が近づいたような感じだ。そういえば10前、このニューマーケット界隈だけで、日本語を話せるポン引きが200人くらいいると聞いた。そんな話をしてくれたポン引きのアクタルとばったり出会った。
 先方から「やあ ポン!」と声をかけられた時はピンとこなかった。「一緒にダクシネスワルへ行ったアクタルだよ」といわれて、悪ガキ風のチンピラをすっかり禿げ頭の中年男に変えてしまった10年の歳月を感じた。
 36歳になったが未婚「しかしインドでは遅くない」という。娘たちを紹介ると、シークの茶屋に案内してラッシーを奢ってくれた。ついでに極上のチャラスを相場の3分の1くらいの値で売ってくれた。
 彼は8歳の時に田舎からカルカッタに出てきて、乞食以外のあらゆる仕事を転々としながら英語と日本語を覚え、ニューマーケット界隈でポン引きやプッシャーをしてきた男だ。住まいは路地裏の屋根の下に木箱を並べたホームレス、だが、通信の窓口になっているというクリーニング屋を紹介された。
 アクタルの夢と希望はポカラのラムと同じように、日本に出稼ぎに行って金を貯めて、それを元手に一仕事したいという。
 「日本という国はアジアの人たちには、金を稼ぐところにしか見えないのかな?」
 「なんだか悲しいね」と娘たち。
 アクタルとは毎日付き合った。何しろニューマーケット界隈を一日中徘徊しているのが彼の仕事なのだ。娘たちが映画を観ようというと、アクタルが勧めたのはインド古代史の英雄悲劇だった。言葉は分からないが、観客の反応から感動は伝わってくる。アクタルを見ると大粒の涙を流していた。しかしライトがついた時は何食わぬ顔をしていた。やっぱり泣くのは照れ臭いのだろう。
 インドを去る前日には過去2回ともダクシネスワルのカーリー寺院を訪れていた。「第2の仏陀」といわれるラーマクリシュナのそこは「第2のブッダガヤ」である。
 前回つき合ったアクタルは今回もつき合うという。彼はムスリムなのだが、何処だってつき合うのだ。カーリー寺院の周辺には沢山のバザールが出て、善男善女で賑わっていた。ハヌマーン猿も群れていた。カーリー神殿に礼拝した後、ガートへ出てフーグリ河の涼を味わった。ラーマクリシュナの没後107年、その聖地には今もシャンティのバイブレーションが充満し、人々を魅きつけている。そしてこの「第2のブッダガヤ」には、破廉恥な日本人も、それに群がるインド商人もいない。
 その晩は10年前と同じように、ムスリムの店で、アクタルと一緒にカバブー料理を食べた。そして前回と同じように、カリー粉やビリーなどの買い物をアクタルに頼んだ。「ミスター・カルカッタ」との別れは名残惜しかった。「又必ず来るよ!」と約束して別れた。

〔異常事態宣言の時  バンコク〕

 5月14日、朝方雨が降ったとかで、さほど暑くはなかった。「ただいま!」と帰ったTICゲストハウスは笑顔で迎えられ、久し振りにタイ料理を食べた。
 TICは部屋も料理も申し分なかったが、旅人が集うサロンがなかった。その点姉妹店のVSゲストハウスは2階にバンヤン樹の繁るベランダがあって、そこで旅人たちはボング(竹製の水煙管)を回しているのだ。ビッグマザーの話では、VSの開業は12年前、カオサンでは3軒目、カオサン通りに現在のような旅人の店が並んでから、まだ2,3年だという。
 拙著『アイ・アム・ヒッピー』の発行が2年前の90年4月、それを読んだタカシはインドへ行くつもりでVSに立ち寄り、ビックママの娘と結婚し、子供まで儲けた。そこでヨチヨチ歩きの空ちゃんの似顔絵を描いてやった。勿論タカシは度々インドへ行く。だからVSのパールバティは本物である。
 ベランダでは昨夏 六ヶ所村 の夏祭りで会った尺八の耕介と再会した。作務衣の似合う生粋のガンジャ吸いだ。
 そして何と10年ぶりでキクに再会したのだ。奄美の焼内湾が実力阻止闘争の頃、無我利道場にいた脱・全共闘武闘派である。最近の噂ではヒマチャルはパールパティ渓谷の寒村に住みつき、爆弾に替わってチャラス作りに転向、物づくりの腕は今や名人の噂まである。
 今回はヒマチャルではなく、アムステルダムへ行くつもりだという。チャラスからハイブリッドへ。キクの志向は、ガンジャ吸い全体の方向性を示唆していたようだ。通常タバコと混ぜて吸うチャラスの強烈さは、喉や肺を疲れさせ、優しくて効きの良いハイブリッドへとガンジャ吸いをシフトさせつつあった。
 VSからTICへの帰路、パレス広場に通じるラチャダムノン大通りで、デモの群衆に出会った。小旗を振るだけの静かな学生デモだった。ところが翌18日朝、TICのテレビを見ると炎上する車や乱闘する学生などが写っていた。
 朝食後、VSへ行く途中のラチャダムノン大通りは学生があふれていて交通規制、銀行や商店もシャッターを閉じたままだ。タカシに会って聞いたところ、反政府デモで抗議断食をしていた学生たちに軍隊が発砲、死者が出たようだという。
 その日の夕食後、パレス広場で学生たちのコンサートがあるというので、娘たちとTICを出たところ、パレスへの通りは人でいっぱい。そのうち悲鳴とともに逃げてきた群衆に押しもどされ、そのままゲストハウスへ帰った。屋上から見るとパレス方面の夜空に真赤な弾道が走り、銃声か爆竹の音で騒然としていた。
 12時ごろいったん騒ぎが治まったので寝床に入ったが、夜明け前に一斉射撃の銃声が聞こえ、隣室の娘たちもとび起きてきた。この時軍隊の水平撃ちが行われ、何百人かが銃殺されたのだった。
 この朝はTICのテレビの前に近所の人など数人が集まって興奮していた。またあちこちの街角には住民が集結して、深刻な顔で話し合っていた。昼頃娘たちとカオサン通りへ行ってみた。至るところに軍隊がバリケードを築き、鉄砲を持ったアミーが木陰で休息していた。何台かの車が黒焦げになって横転し、ビルディングのガラスは割れ、かなり破損していた。商店も銀行もオフィスもバスも全てが休業。非常事態宣言が出ていた。
 夕食後TICを訪れたキクに誘われたので娘たちと一緒に外出し、カオサンの裏通りにあるキクのゲストハウスを訪れて雑談、9時頃人影まばらな非常事態の街を、二人の娘をつれて歩いた。街灯の下で銃を構えている迷彩服のアミーに、道を尋ねたりして恐るおそる静かな路地を歩いた。ゲストハウスへ帰ると、心配していた姉妹から文句を言われた。案の定10分後、すぐ近くで銃声が鳴った。そしてその夜も夜半から銃声が響いた。
 20日、もう大丈夫だろうとバスでラマ4世通りの旅行代理店へ行き、26日の予約を取った。ぶらぶら歩いてホァロンポン駅まで行き、そこからバスで帰るつもりだったがバスがないため、ツゥクツゥク(オート3輪)に乗って帰る途中、チャイナタウンの一角から銃声が聞こえ、群衆が逃げてきたためツゥクツゥクは迂回し、アミーの脇をすりぬけて猛スピードでTICの裏通りに到着した時には、目の前でアミーの一軍団と群衆が対峙していた。TICに飛び込んで間もなく、銃声が聞こえた。
 その翌日、国王が調停に乗り出し、とたんに双方痛み分けとなり、丸く治まったのには唖然とした。ネパール王国と異なって、タイ国王の地位は当分揺らぎもしないだろう。なにしろ政府デモでも、必ず国王の肖像写真とタイ国旗を掲げているのだから。 
 今回の暴動もタイでは時々勃発する「カナ」という門閥間の権力抗争だから革命ではない。物質的な豊かさのため、タイは自由で民主的な国のような錯覚を受けるが、今回の暴動はタイが軍事政権の支配下にあることをまざまざと感じさせた。と同時に、未だ管理されきっていないアジア民衆のパワーをもまざまざと見せつけられた。日本では不可能なことがアジアでは起こりうるだろう。
 しかし政治的次元よりも、もっと深刻な事態が進行しているようだ。娘たちがズバリ指摘しているように「バンコクの人は日本人に似てきた」のだ。それは他人への無関心。物質文明は人間の人間に対する興味と好奇心を疎外するのだ。インドが健在なのはそのへんだろう。
 タイで最後の2日間はアユタヤですごした。河に囲まれた仏塔遺跡のある静かな田舎町で、バンコクの騒音を忘れ、旅の疲れを癒した。アクタルやキクやタカシからもらったチャラスが吸いきれないほどあった。

〔ポンちゃん 格好良い!  成田〕

 「魔の成田」と運び屋たちは言う。成田税関の薬物チェックの厳しさは国際的に有名だった。だから私も自分自身は一切所持しないつもりだった。ところが税関の係官は待ち構えていたかのように、リュックのポケットの底を引っ掻いて綿毛のようなゴミを取り出し、それを試験管の中へ入れ、コップに入った透明な液体を見せると、「今からこれを注ぎますが、もし赤くなったら大麻の陽性反応ですからね」という。
 「え!?そこまでやるの?」と思わず叫んだ。10年近く使っていた古リュックにどんなゴミが入っていても不思議はなかった。案の定、試験管に注いだ液体はたちまち赤くなった。何だかトリック臭かったが、これが精密検査の理由になって別室に連れていかれた。私だけではない、娘2人も各々別室で検査だった。
 私は裸にされ、尻の穴まで調べられ、Gパンのポケットからも少量の大麻粉が発見された。しかしその程度なら起訴される量ではない。ところが間もなく隣室から「娘さんの菓子袋から大麻樹脂が出てきました」と係官から報告があった。チョコレートの包装紙にくるんだ約40グラムのチャラスが発見されたのである。
 前回の500グラムは慎重な計画で成功したが、今回はたった40グラムだったので、杜撰な思いつきが失敗したのだ。手錠をかけられ拘置所へ連れていかれる時、娘たちの検査室が開いていたので「やられたよ!」と手錠をかけられた両腕をかざすと、宇摩が「ポンちゃん 格好良い!」と言った。
 今回の旅で初めて言われた「格好良い」というセリフが旅の最後の言葉だった。維摩の方も特に驚いた表情はなく「やっぱり!」という感じだった。
 翌日からの取調べは警察官と税関役人が相手だった。この2人は取調べよりも、父親の手錠姿を見た娘たちが泣き出すどころか「ポンちゃん 格好良い!」と言ったことに興味を持ち「いったいどんな教育をしたのか?」「学校は行かない方が良いのか?」などと質問し、検討し、ついには「わしの娘もあんな娘に育てたい」などと言い出した。お上に一度も逆らったことのない国家公務員たちが。
 娘たちは空港の施設で一泊し、翌日奄美から迎えにきた母親に引き取られて帰った。しかし娘たちのパスポートはいつ返却されるのか分からないという。そこで友人の丸井英弘弁護士に面会を頼み、パスポートを取り返してもらった。裁判については、今回は足場が悪いから争うことなく、執行猶予は確実だから国選弁護士で十分とのこと。釈放は一ヶ月くらい遅れるが、旅が長引いたと思えとのこと。
 取調べが終わったものの千葉拘置所が満員のため成田拘置所での拘留が長引く中、7月はじめに維摩と阿満が成田空港からスペインへ飛んで行った。同じ成田にいながら出発を見送れなかったのは悔しかった。
 8月のお盆休み直前の公判で、懲役2年、執行猶予4年の判決を受けて千葉拘置所を釈放された。ほら貝のヒロが出迎えにきてくれた。その頃宇摩は和太鼓をやりたいといって奄美を巣立ち、東京日野に住む姉の万葉のもとに身を寄せていた。
 インドの旅の終わり頃、私は娘たちに質問してみた。「インドで一番感動したのは何か?」と。娘たちの答えは意外だった。それは路傍で貧しい女たちが舗装道路用に金槌と鏨(たがね)で石を砕いている姿であり、あるいは工事現場に並ぶ女たちがレンガや砂の皿を頭上に乗せて運ぶ姿だと。底辺社会を必死に生きる貧しい女たちの低賃金で単純で汚れた苦役。たくましい女たち、母たち。それらは今まさに巣立ちを前にして、娘たちが見た人生の赤裸々な真実だった。
 「生きるって 厳しいんだな!」という。
 しかし一方で、私はしばしば彼女たちが歌うのを聞いた。
 「夢を見ていたいな、いつまでも・・・・♪」

(第3部 完)


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