【第3部 3度目の旅 1992.1〜5】
第3章 インド世界へのイントロ  カルカッタ、オリッサトライアングル
 


[驚異と感動の第一歩  カルカッタ(コルカタ)]

 「スマイルの国」タイで22日間も過ごし、冬物の衣類などをゲストハウスに預けて、1月30日夕方、カルカッタのダムダム空港に降り立った。ところが当日は銀行が休みとかで、空港付近にたむろする怪し気な両替屋とチェンジするしかなかった。案の定、こちらが知らないと見てかなりのレートをふっかけてきたので、いきなり口論になり、久しぶりに怒鳴り声を発しながら「ああ、インドへ来たんだ!」と実感した。
 以前はバスを使ったのだが、娘づれともなればタクシーで、いざカルカッタ市街へ。農村地帯を走ること10数キロ、目の前の道路に牛や水牛、山羊、豚などが次々に現れて、まるで映画のイントロのような興奮を盛り上げてゆく。娘たちの乗りもタイの比ではない。身をのり出し、目を見はって、憧れのインドのエキゾチズムに歓声を上げている。
 やがて市街地に入り、人間の数が増え、大群衆となり、車はしばしば立往生、その圧倒的な人間の数と多様さに度肝を抜かれた娘たちが、安宿街のサダルストリートで車を降り、ホテル探しに歩いていたところ、乞食の子供たちが「マネー マネー!」といって、腕にぶら下がってきたのにはびっくり仰天、日本にもタイにもこんなに人なつこくて図々しい子供はいなかった。
 宿を決めてからレストランで本場のインドカリーを食った後、ネオンの盛り場を散歩していたところ、プッシャーに声をかけられた。ガンジャの相場が分からないので1トーラ(約11グラム)だけ買ってみた。インドもついにWHO(世界保健機構)の定めるところにより、3年前の1989年より大麻を非合法化したため、公営ガンジャショップが廃止になり、闇でしか手に入らなくなった。そのため値は上がり、買う時の品定めができなくなった。「古き良きインド」は大きく損なわれてしまったのだ。
 翌日、近くのニューマーケットに行った。何でもありの迷路のような広大なマーケットを、うるさいポン引きたちを振り払って歩き廻った娘たちが、足を止めたのはサリー屋だった。まさか着付けの大変なサリーを買う気かと思ったが、気に入ったのはパンジャビードレスのようだった。膝下まである長いワンピースとモンペがセットになったパンジャブ地方の衣裳だ。
 色や模様は様々だが、宇摩は地味な薄茶色のものを、維摩は赤地に白の派手なものを選び、店のオヤジに案内されてカーテンの奥で着替えてきた。2人とも髪は腰まで、耳にはピアス、手製の腕輪や脚輪などの装身具をつけていたから、パンジャビードレスを着ると異国のお姫様のようだった。
 「オー ベリーグー ファンタスティック!」などと、店のオヤジが褒めまくるので、値段の交渉がうまくゆかず、だいぶボラれたようだ。しかしこれは不可避の通過儀礼だと悟った。
 パンジャブのお姫様方のお伴をして、チョウロンギ大通りからダウハルジー広場などの中心街を散歩した。驚いたことに、ほとんどの建物が老朽化し、中には古色蒼然たるものもあった。その大半はイギリス統治時代の産物である。いやビルだけではない。市電も2階建ての市バスも、公共機関のすべてが骨董品なのだ。
 かつての首都であり、当時もインド最大の都市であるカルカッタ(現在はムンバイが人口最多)には、それらを新調するだけのパワーがないのだろうかと初めは思った。しかし骨董品のような市電に乗ってカーリー寺院を訪れ、生贄の仔山羊の首が斬られて血を吹くのを見たり、インド博物館で莫大な歴史の遺品に接するうちに、カルカッタそのものが巨大な博物館のように思えてきた。それは「スクラップ&ビルド」という日本式の大量消費文明が生み出す都会の非芸術的で味気なさと鋭く対照的である。そしてパンジャビードレスはカルカッタによく似合うのだ。
 ところで驚くなかれ、地下鉄は完成したのだ。私が初めてカルカッタを訪れた20年前も工事中だったが、なにしろ土砂を頭上の器に入れて運ぶインド式の手仕事では、20世紀中の完成はムリだと思っていたのだ。この一事はビルだって何だって、失業対策の手仕事でやれば、いつかは完成することを証明している。最低賃金で働く人的資源はいくらでもあり、それが車優先社会の出現を阻止しているのだから。とはいえ、かつてチョウロンギ通りに寝そべっていた牛たちの姿は、さすがに見当たらなかった。
 いろんな乞食を見たが、博物館の近くで逆立ちしていた乞食には頭がなかった。近づいて見ると、彼は歩道のコンクリートブロックをはがし、その下の土と砂を入れ替え、その砂の中へ頭部を埋めて逆立ちしていたのだ。砂に埋まった顔面は布に覆われており、呼吸に支障はないようだ。体つきからして10代半ばの少年だろう。時々へこんだ腹を片手でさすって空腹を訴えていた。さすがにこの過激な乞食の周囲には何枚かのコインが散らばっていた。娘たちから促されたので、敬意を表して50パイサのバクシーシをした。
 しかし真に敬意を表すべきは、このような乞食の存在を黙認しているカルカッタのポリスや市民の寛大さである。カルカッタを好きになる人は、インド中どこへ行っても好きになるという。娘たちには祝福のカルカッタであった。


 [参拝者のいない仏舎利塔  ブバネシュワル]

 今回の旅は娘づれとあって、近代化のスピードのついた北インドでなく、まだ土着的で牧歌的といわれる南インドを中心に巡るつもりだった。
 ところがカルカッタのハウラー駅で、プリー行きの夜行列車に乗ったのだが、寝台券の予約を忘れただけでなく、列車を間違えて引き返したりして、結局プリーまで行けず、ブバネシュワルで2日も滞在してしまった。娘たちは案内人の頼りなさをしみじみ感じたはずだが、その分駅員や乗客など居合わせたインド人の人なつこさ、明るさ、親切さをたっぷり味わうことになった。
 特に名前を聞かれて「ウマ」と答えると「おお インデアンネーム!」といって大歓迎された。ウマとはシヴァ神の妻パールヴァティのことであり、女の子にはポピュラーな名である。「ユイマ」の方は『維摩経』という仏典に出てくる仏陀の友人で、ヴィマラキールティ(維摩居人)という爺さんだから、ヒンズー教徒で知る人はいないが、「ブッディスト」だというと納得した。
 オリッサ州の州都ブバネシュワルは紀元前3世紀に、アショカ王がカリンガ国を征服した際、その惨禍を悔いてアヒムサ(不殺生)の仏教に帰依し、インド全土に仏教を広めたという因縁の聖地である。寺院の数が多いわりには、あまり宗教臭くない都市だった。
 たまたま通りがかりのドラッグストアーに立寄り、和英辞典で調べた十二指腸潰瘍の薬を注文したところ、先方は理解したのかどうかは疑問だが、安物の錠剤をくれた。しかしそれは自己暗示的なホメオパシー効果にせよ、旅行中ずいぶん重宝した。
 ブバネシュワルからプリーまでのバスは、途中思いがけなくダウリの丘に立寄った。そこには目映いばかりの白亜の仏舎利塔が聳えていた。20年前、私がここを訪れた時は、日本山妙法寺の坊さんたちが現地の人夫を使って地盤工事をしていたのだ。
 その時に出会った酒迎上人とは16年後の87年2月、高松の「原発さらば記念日」のデモで再会した。日本山系の上人では、同年秋に福井の山寺で焼身供養された八木上人と共に、私にとっては忘れえぬ上人である。
 バスの乗客は仏舎利塔の隣に建立されたシヴァ寺院に参拝していたが、仏舎利塔前にも乞食がいたから、こちらを参拝する人もいるのだろう。ダウリの丘から眺望する広々とした緑野は、相変らず心のなごむ風景だった。


 [日本女性のもてる町  プリー]

 プリーの駅前から初めて人力ペダル式リクシャに乗ってみた。2人用の座席に3人が乗れるものかと心配だったが、若くて男前のリクシャワーラ(人力車夫)は苦もなく3人を乗せて走った。しかし狭い座席にリックを持った3人乗りは窮屈で不安定だった。それは娘たちの幼児期に、3人で一緒に五右衛門風呂に入ったことを思い出させた。しかし父親といえども男の肌に触ることを嫌悪する思春期の娘たちには、昔のように愉快なことではなかったはずだ。
 リクシャワーラに案内されたロッジは共同便所だったが、トリプル(3人用)ベッドの部屋があったので決めた。(普通トリプルの部屋は少なく、ダブルの部屋にベッドを1台加えたり、床にマットを敷いて私が寝た)
 ロッジの向いのレストランはオヤジも店員も愉快な連中だった。海に近いその1帯は昔からヒッピー相手のロッジやレストランが何軒かあった。レストランで出会った日本人の旅人から聞いた話によれば、プリーではダリット(不可蝕民)のリクシャワーラが、日本人の女性バックパッカーと結婚して、彼女の金でロッジの経営者に出世したことから、カースト的な差別意識のない日本女性は、男たちの憧れの的だとか。
 インドの旅で一番気を使う飲み水は、今回はどこへ行ってもミネラルウォーターがあって、ペットボトルのゴミ問題はあるにせよ、旅人には大助かりだった。ところがプリーの初日、私と維摩はレモンジュースが当たって(宇摩はレモンスカッシュなので当たらず)一夜猛烈な嘔吐と下痢をして、共同便所まで交替で往復した。そのため恐れていた脇腹の痛みが復活して、地獄の夜を味わった。もっとも肉体的な苦痛はともあれ、精神的にはバンコクの時のような不安感や落ち込みはなかった。それはインドに対する深い信頼感だった。
 朝方、宇摩に向いのレストランからミネラルウォーターとパンを買ってくるよう頼んだ。初めての英語の使いである。既にウマという名前まで知っている店員たちに歓迎されて、帰ってきた宇摩の顔は自信に輝いていた。まだインドへ来て数日というのに、娘たちはインドによほどの信頼感を持ったのだろう。
 「まるで奄美へ帰ったみたい」
 「ここならポンちゃんが死んでも、きっと誰かが助けてくれる」
 「インドが恐いなんてウソだ」
 そして維摩が感慨深げに言った。
 「インドが遅れているって言うけど、きっと別の進み方してるんだね」
 しばらく考えていた宇摩が言った。
 「本当は進むも遅れるもないんだよ」  

 翌朝、私の体調は回復したが、維摩はまだ具合悪かった。維摩一人を置いて外出するのは心配だったが、本人が納得したので、同じロッジの客人で、のり子さんという日本人バックパッカーと、宇摩との3人で聖地ジャガンナート寺院まで、リクシャの3人乗りで訪れた。
 ジャガンナート寺院はヒンズー教徒以外は立入禁止なので、異教徒は向いの図書館の階上展望台から覗くだけである。寺院の前の大通りの賑わいは楽しかった。帰路も同じ初老のリクシャワーラのリクシャを使った。そして相場の倍以上も料金をボラれた。その夜遅くまで、酔いどれリクシャワーラーのご機嫌な声が聞こえた。
 3日目には維摩も回復し、浜辺や漁村を散歩した。浜辺には日干しの丸木舟が並び、網を繕う漁師たち、沖には帆舟が数隻。漁村は土壁に茅ぶき屋根の民家と魚を干す庭、放し飼いのニワトリや豚を追いかける裸のガキ共。近代なんてまだ影も形もない太古のままの素朴な風景である。ただし干潮時の波打ち際は天然の大便所になるからご用心だ。
 プリーではガンジャは簡単に手に入った。レストランのオヤジがプッシャーを紹介してくれたのだ。オリッサ州はインドで唯一、大麻禁止令を撤廃した州である。1989年にインド全土でいっせいに大麻が非合法化されたため、闇のガンジャが流通したが、他州のガンジャがあまりにも粗悪なため、オリッサ州政府は地元特産のガンジャを解禁し、公営ガンジャショップを復活させたのである。そのためプッシャーの闇ガンジャも良質で安くなった。(オリッサ州の抵抗がいつまで続いたかは不明)


 [オリッシーダンスの夕べ  コナラク]

 オリッサ州の聖地トライアングルであるブバネシュワル、プリーと並ぶコナラクへは、のり子さんと一緒に行った。彼女は2ヵ月で南インドを一周する予定だというから、私たちより1ヵ月も短い予定だった。
 コナラクまでは田舎道をバスで約1時間。町外れの木麻黄の並木道にあるロッジに宿を定めた。2階の窓からはスーリヤ(太陽)寺院の塔の一部が見えていた。
 12個の車輪を持つ7頭立ての馬車(12ヵ月と1週間)に見立てたスーリヤ寺院は、熱帯の太陽が照りつける白日の下で、抱き合う男女のミトウナ像や天空の楽士や踊り子たち、ケモノたちの悦楽の歓声が聞こえるような巨大な石の塊である。これを見てタゴールが「ここでは人間の言葉は石の言葉に打ち負かされてしまう」と言ったとか、詩聖タゴールにそう言われたら、私など語る言葉もない。
 運良くのり子さんがガイドの若者から得た情報によれば、この日から3日間「オリッシーダンスの夕べ」というイベントが開催されるとのこと。インドの古典舞踊は神々との交流の手段と見なされ、地域によって様々な流派があるが、オリッサ地方のオリッシーダンスもそのひとつである。
 早速その晩から、のり子さんと娘たちと共に、町外れの会場まで歩いて通った。途中、のり子さんにイベントを報せたガイドのパーカス君が待ち構えていて、沢山の住民たちと一緒にワイワイガヤガヤと月夜の田舎道を、長蛇の列になって歩いた。
 森の中の野外ステージでは沢山の踊り子たちが、胴をくねらせる独特の舞踏で観衆を魅了した。それは優雅で神秘的で、まるでスーリヤ寺院の壁面に刻まれた石の踊り子たちが、時空を超えて甦ったようなマーヤー(幻影)に酔わせてくれた。
 ガイドのパーカス君とは昼間も近くのレストランで会った。田舎町の青年にしては英語が堪能で、話も面白かった。ガンジャを吸わないのが残念だったが、彼のおかげでコナラクの良さが実感できた。
 3日目の午前中、貸自転車を借りて3人でサイクリングをした。海からの風に誘われて海岸地方へ行ったところ、白い砂浜の丘の上に赤旗の翻る寺院があって、周囲に茅葺きの民家がひしめき、丘の両側には海が見え、帆舟が停泊していた。そして丘の上の民家から、頭に大きなカゴを掲げた女たちが、一列になって歩いて来た。海産物をバザールへ売りに行くのだろうか。それはなぜかこの世のものとは思えない風景だった。私はスケッチブックを広げて、このシュールな風景を描いた。
 その日は午後の昼寝の時間に、久しぶりに詩が生まれた。


    太陽の都 コナラク
 
 町はずれの一本道は 木麻黄の並木道 
 木麻黄の枯葉を集め 牛車に積んで
 どこかへ運ぶカーストがある 
 一枚のドーティ(腰巻)とターバン
 一丁の鉈とはだしの足
 木陰で休む二頭の白い雄牛
 何千年来、進歩も変化もない昼下がり
 スクーターやタクシーやバスなどの近代が
 時たま傍を通りぬけるが
 彼らの生活とは関係ない 
 向かいのホテルのロビーから
 どこかの国の旅人が のぞいていても 
 彼らの永遠は ちっとも損われない

 町はずれの一本道は 木麻黄の並木道
 頭上に大きな荷物をのせて 女たちが行く
 色とりどりのサリーと黒い肌 
 両脇に拡がる延々たる荒野
 ワイルダーネス さまようところ 
 太古の都の遺跡の上に 入道雲は踊り
 石の肌をした女たちが 歓声を漏らす 
 娘たちは旅に疲れて 安らかに眠り
 ガンジャは恵む 目覚めの時を
 これが求めていた幸福というものだ 
 これが天国 神々の時だ
 過去は過ぎ去り 未来は未だ来ない 
 永遠につづく いま いま いま……

 オリッシーダンスの3日目が感動のうちに幕を閉じ、ワイワイガヤガヤと観衆が家路につく途中、突然季節外れのどしゃ降りとなった。人々は三々五々に駆け出して、近くの民家の軒下で雨宿りをした。娘たちとは一緒だったが、のり子さんとははぐれてしまい、明朝コナラクを出発する打合わせができなかった。
 翌朝、バス停でバスを待つ間ものり子さんは現れなかった。やがてプリー行きのバスが来て、私たちが乗り込み、席を取り、バスの出発間際に、バス停でのり子さんとパーカス君が並んで手を振っているのが見えた。
 「バイ バイ!」と手を振り返しながら娘たちは言った。
 「もう 2ヵ月で帰るのはムリだね」
 「ムリムリ ぜんぜん!」(注)
 
(注)
 のり子さんはパーカス君と結婚、1男1女の母となり、現在コナラクにてホームステイを経営中。この間20年近く、私との折々の文通は続いている。時々実家の福岡へ帰郷しているが、残念ながら再会を果たしていない。

のり子(本名高木法子)さんの著書紹介
 『インド出産記』 発行 2005年9月 美研インターナショナル 1050円(税込)
 
のり子さんのホームステイ紹介
 NORIKO TAKAKI NAYAK
 KONARAK, PURI 752111
 ORISSA INDIA
 TEL 001-91-6758-236451(国際)
 TEL 06758-236451(インド国内)
※法子さん方にはパソコンがないので、手紙か電話で連絡して下さい。


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