【第3部 3度目の旅 1992.1〜5】
第1章 それから8年9ヶ月  奄美・東京・飛騨高山

 MATプランとの対決を覚悟して、まんまと500グラムのチャラスを密輸した私だが、敵はとんでもない方向から撃ってきた。

 [核再処理工場計画  83〜84年]

 4月中旬の帰国間もなく、日本原燃サービスKKは用地決定を1年後に延期すると発表。翌84年4月、用地は下北半島六ヶ所村に決定した。本命と噂された徳之島のMATプランは、完全にダミーだったのである。

 [無我利道場にガサ入れ  83年7月]

 4月末、バクトリ(爆発物取締法)で指名手配中の女性が逮捕され、彼女の自供により、無我利道場が5年前に数ヶ月間、彼女を匿ったこと、そこから藤村さんが連れ出したことがばれてしまった。
 7月になってバクトリ九条違反(隠避、蔵匿)の容疑で、全国10数ヵ所が同時ガサ、無我利道場にも10数人のデカが来た。

 [逮捕、取調べ  83年9〜10月]

 9月末、新宿で催された「反バクトリ弾圧集会」に出席した私は、活動家たちとの帰路、待伏せていた10数人のデカに襲われ、仲間とデカに両腕を引っぱられるというドラマチックな逮捕劇を演じた。
 麹町署での23日間の取調べは、デカ4人相手に1日10時間。取調べ終了後「これは本件とは関係ありませんから、答えなくてもよろしいですが」と、検事は断って「山口健二さんとインドから密輸するつもりだったのは、ケシ系ですか、アサ系ですか?」ときた。
 「想像にお任せします」とだけ答えた。

 [獄中生活と裁判  83〜84年]

 小菅の東京拘置所では独房の5ヶ月間、初めて獄中生活を味わった。パクられる前に面会をしていた“東アジア反日武装戦線”の死刑囚たちとの文通は、拘留生活を充実させ、過激な情念で私を煽った。
 4月、東京地裁の論告公判で、求刑1年を食らった私は、最終意見陳述を詩で訴えた。
 「浜の真砂は尽きるとも、世に爆弾の種は尽きまじ。日本など爆破しちまえ ボム ボン ポン!」
 弁護士が「死刑になっても知らんぞ」と言ったが、3年の執行猶予がついた。

 [獄中者支援・救援運動  84年]

 出所後、私はミチという女性に拾われ、国分寺で同棲することになったので「反日支援連」と「爆取救援会」に加入して、秋には両方のイベントの開催に協力した。

 「FREE TOKYO5」

 10月、東京勤労福祉会館にて“東アジア反日武装戦線の死刑重刑攻撃とたたかう支援連絡会議”主催。この集会のトリ30分間に、私は「反日武装戦士列伝」という寸劇を、フリーク仲間の協力を得て自作自演。
 警察と右翼に包囲された会場に、左翼とアナーキストの観客約300名を集め、出番前の楽屋のひと時をスタッフとキャスト約30名で、パールヴァティを吸いまくった。
 いざ本番では役者たちの暴走が相次ぎ、火災報知器がジャンジャンと伴奏を入れ、菊の紋章のパネルに血糊が飛び、山口富士夫のギターの狂奏に、天皇役の私は心臓が止まるほど踊り狂って、吐血下血の死を予告した。 

 「爆裂弾伝説」

 11月、千駄ヶ谷区民会館にて“爆取救援会”主催。奇しくもこの年は天下の悪法バクトリ制定百周年(秩父困民党決起百周年)だった。(ポスターはHPポンの絵 No.12

 [反日劇画と漫画家の自殺  85〜86年]

 85年春、ミチの家を1年足らずで追い出されたっっvが、休む間もなくズニという女性に拾われ、もう1年東京は日野ですごしたが、救援活動の方は疎遠になった。
 そこで反日思想を劇画化することを思いつき、ストーリィを古代天皇制時代に設定して練った。劇画の方はかつて売れっ子だったが、ヒッピーになって挫折したエーコーという漫画家と組むことにした。
 86年春、チェルノブイリ事故の頃、ズニと別れて奄美へ帰り、久々に畑をしながらシナリオを書き上げ、エーコーに送った。
 9月、大阪の「反日野次馬集会」に、2人の娘と参加した日、東京からの電話でエーコーの首吊り自殺を知った。

 [ビッグマウンテンと飛騨位山  86年]

 エーコーの死が縁で、「ホピの予言」の監督宮田雪やスタッフの北山耕平、伊藤詳の諸君に再会した私は、彼らがアメリカ先住民の聖地ビッグマウンテンと霊脈を結ぶべき日本列島のビッグマウンテンを探しており、先日は飛騨位山へ登頂して霊感に打たれたという話を聞いた。
 位山は地元では“祟り山”と畏怖され、私はまだ登ったことがなかった。そこで秋には久しぶりに帰郷し、幼なじみに案内されて位山々頂に登り、自らのカルマを予見した。

 [「ホピの予言」とコミューン離脱  87年]

 4.26チェルノブイリ事故1周忌に、鹿児島での「ホピの予言」上映会に参加した私は、その後宮田雪と共に徳之島と奄美大島で上映会を催し、無我利道場からの離脱を告げた。といっても83年のアジアの旅以来、私はほとんど留守にしていたのだが。子供たちのことなど一抹の不安はあったが、奄美における私のカルマは果たし終えたと思った。

 [飛騨高山へUターン  87年4月]

 捨てたはずの故郷へ、30年ぶりにUターンするとは思いもよらなかった。なにしろ私が巣立った後、尾羽打ち枯らした山田家は故郷を捨てたので、高山には土地も家も親戚もなく、墓があるだけ。
 その時私はジャスト50歳だった。アル中上がりの元同級生の家に居候して、1ヶ月後に「故郷にボロを飾る報告会」という集会を催し、数10人の聴衆に30年の旅を語り、「ホピの予言」を上映した。宮田雪と山尾三省が応援に来てくれた。

 [隠魂(おに)祭  87年8月]

 大鹿村のアキとボブが主催した南信しらびそ高原の“隠魂祭”は、参加400人余、久々にフリークスの渇望を満たした。ロックやレゲエのミュージシャンが勢ぞろい、アイヌモシリから山道康子さんも特別出演して全員を踊らせ、ここに“お祭りバブル”が堰を切ったのである。

 [母なる大地に祈る 位山集会  87年8月]

 隠魂祭の一週間後、飛騨山脈を越えて、ヤポネシア列島のビッグマウンテンに比定される位山に、ナバホ族のメッセンジャー、バヒ・キャダニーを迎えて、アイヌ、白光、日本山妙法寺の代表と共に、祈りのセレモニーが執行され、大地の霊脈が結ばれた。

 [うるま祭と海邦国体  87年9月]

 「ホピの予言」をうるま祭で上映するため、宮田雪に代って私が沖縄を訪れたのは、折から海邦国体に皇族が来訪する日だったので、私には空港から祭会場まで、更に各地の上映会場まで5日間、毎日尾行がついた。
 うるま祭の打ち上げ慰労会に招かれた私は、主催の喜納昌吉と保坂展人の両君から「来年88年8月8日、ヤマトの何処かで“縄文祭”を一緒に祭ろう」と提案された。
 なお、この祭には2学期から登校拒否を決めた無我利の小中学生4人も参加。子供たちの旅が始まった。

 [アズミノ・ピースギャザリング  87年10月]

 安曇野のキヨシと桂川直文君が主催したギャザリングにて、私はうるま祭からの“88.8.8縄文祭”を提案した。その結果、場所は八ヶ岳周辺、実行委員長はおおえまさのり君が決定、ただし“縄文祭”のタイトルは保留にされ、後日“いのちの祭”と決まった。

 [ローリング・ドラゴン反核キャラバン  88年]

 正月早々、ボブを始め信州の仲間5人とローリング・ドラゴンバンドを結成、2台の車に分乗して下北半島へ。むつ市の放出倫宅に9日間滞在して、六ヶ所村から青森市まで反核集会に出向いて、歌ったり語ったり、熱いドッキングを果たした。
 2月、ローリング・ドラゴンはメンバー23人に膨張、伊方原発の出力調整テストを阻止すべく四国高松へ。“原発サラバ記念日”と称したこのイベントの参加者数千人は、驚くなかれ丸っきりのヒッピースタイル。
 反原発ブームは4月東京銀座を埋め尽くす2万人デモとなり、ローリング・ドラゴンはその後も福島、東海村、浜岡、北陸、島根などの原発にもデモをかけた。

 [88・いのちの祭・八ヶ岳  88年8月]

 反原発ブームがピークに達したこの夏はまた、「ホピの予言」が火をつけたアメリカ先住民運動が、燎原の火のように日本列島を席巻したのである。それらはカウンター・カルチュア運動の両輪として、バブル景気をバックに、“いのちの祭”として燦然と開花し、1万人近い仲間で8日間を祭り上げた。(ポスターはHPポンの絵 No.14

 [奥飛騨の独居庵と聖なるランニング  88年]

 高山市内からバスと徒歩で2時間半という奥飛騨山中の廃屋へ引越した。電気は引いたが、水道はなく、近くに岩魚の棲む谷川があった。人家はまばらで店はなく、買物は週1回高山へ。しかし休む間もないイベント続き。
 いのちの祭の後は大阪へ赴き、デニス・バンクスなど20数名のアメリカ先住民の歓迎集会を手伝い、“聖なるランニング”にところどころ付き合いながら北上、札幌では“赤レンガ(道庁)百年祭”をやっていたが、二風谷の山道康子さんに「アイヌモシリは何年?と尋ねたところ、翌89年から「アイヌモシリ1万年祭」が始まった。

 [無我利道場襲撃事件  88年10月]

 アレン・ギンズバーグを大阪で迎えた日、奄美・無我利道場が右翼暴力団“松魂塾”にダンプで襲撃され、「家屋全壊、1名重傷」という異常事態が発生、テレビや新聞のトップニュースとなった。
 昭和天皇の吐血下血が連日報じられる中、無我利支援の集会が鹿児島、大阪、東京などで開かれ、支援の輪が広がる一方で、現地の元CTS賛成派による無我利追放運動も勢いづいた。

 [『アイ・アム・ヒッピー』の執筆  89年]

 正月早々の昭和天皇の死と、自粛ムードの平成元年。ひとつの節目として、私は自伝的運動史の執筆を決意、サブタイトルを「日本のヒッピームーヴメント 60〜90」とした。出版社は既に私がゴーストライターを務めた『アル中クライシス』を刊行している第三書館に決まり、編集は同じ沢田祐輔さんが担当、ブックデザインも“C+F”の青ちゃん(青山貢)がやってくれた。
 7月には取材を兼ねて、無我利の子供たち6人を連れて、14年ぶりに諏訪之瀬島を訪問した。3〜4年で廃業したヤマハレジャーランドの空港にはペンペン草が茂り、ゴミ捨て場には廃車が2〜30台。村内道路は全面舗装。ハブもヤクザもオマワリもいない島は平和そのもの。島の運営は事実上、元ヒッピーの仲間たちが担っていた。
 10月には13歳になった娘の宇摩が、初めての独り旅。バックパッカースタイルで親父のあばら屋を訪れるや、早速2時間の大掃除。LSDを2発採ったが「まだ若すぎてあんまり効かんよ!」とご機嫌だった。

 [いのちとみどりの祭・飛騨  90年5月]

 『アイ・アム・ヒッピー』の出版記念を兼ねて、高山の子供の本屋“ピースランド”の中神隆夫君と組んで「いのちとみどりの祭」を開催した。五月晴れの野外ステージに、山の彼方のミュージシャンを迎えて、山の民は大喜び。そして『アイ・アム・ヒッピー』はピースランドのベストセラーに。

 [いのちの祭・大山  90年5月]

 「88いのちの祭・八ヶ岳」が、関東・甲信越地方のフリークスがスタッフになったのに対して、「90いのちの祭・大山」は、関西、中国、山陰地方のフリークスがスタッフになり、源之助が実行委員長になって開催。
 途中台風に見舞われて学校へ避難するなど、ハプニングが楽しかった。この夏ソ連が崩壊、ロシア共和国とエリツィン大統領が誕生、世界は30年にわたる冷戦の悪夢から解放された。

 [夏祭り・六ヶ所村  91年8月]

 MATプランで肩すかしを食った私にとって、放っておけない六ヶ所村だった。「六ヵ所村でいのちの祭を!」という課題は、前年の大山の祭の時からのものだった。
 しかし放出倫君が心臓病のため弘前に引退した後、六ヶ所村は新左翼セクトの内部抗争もあって、「いのちの祭」には反発が強く、そのため「夏祭り」という陳腐なタイトルで開催するしかなかった。
 近くの三沢基地からは自衛隊のジェット機がきて、祭り会場を低空飛行するので、ロックもシンポも聞こえなくなった。

 [無我利道場での最後の正月  92年]

 91年の師走、まだ“バブル崩壊”という言葉は聞かなかったが、似顔絵を描いて歩いたネオン街の不景気は、経済成長の破綻を物語っており、30年にわたる似顔絵稼業の廃業を予感させた。
 大麻に関する単行本用の原稿料を、出版社から前金で貰い(この原稿は『マリファナX』に掲載された)不足分は似顔絵で稼いで、何とか3人分のインドへの旅費を作って、年末に奄美を訪れた。
 暴力団松魂塾は襲撃事件以来、久志部落に宣伝カーを置いて、フルボリュームで軍歌を流し、口汚く無我利追放を叫んできたが、4年目にして裁判闘争が進行中だった。重傷のタカオは無事に復活したが、無我利道場はコミューンを解体し、3家族が別々に生活するという妥協案を呑んだ。
 正月を旧無我利道場の仲間たちと、何年ぶりかで祝った。CTS反対運動の頃は、30人くらい健在だった老人たちもほとんど姿を消し、島歌を聞くこともなくなった。奄美のオリジン(原型、根源)が喪失したのだ。そして私にとって、この時が最後の奄美となったのである。

 [娘たちとの約束の旅へ  92年1月]

 正月4日、私は宇摩(15)と維摩(13)という2人の娘と共に、名瀬港からフェリーで東京へ直行した。 
 文部省教育では中2と小6だが、元CTS賛成派の子供たちのいじめと、学校側の締めつけに追いつめられ、4年前に母親の判断で登校拒否に踏みきって以来、“無我利フリースクール”で天真爛漫に成長し、いよいよ卒業して巣立ちの時を迎えていた。
 彼女らの異父姉である長女万葉(18)は既に巣立って自立し、次女宇摩も巣立ちの心準備を整え、三女維摩は異父弟の長男阿満(10)と、今夏はスペインのベンポスタ共和国(子供サーカスで有名)への入国が決まっていた。従って今回のインドの旅は、父娘で旅する最後のチャンスであり、巣立ちを前の修行旅行なのだ。
 東京はC+Fに一泊し、青ちゃんや沢田さんらに送別会をしてもらって、7日小雪のちらつく成田空港からバンコクへ飛んだ。


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