第2部 2度目の旅 1982・春〜83・春
第9章 秘境パールヴァティ渓谷の大麻道  マニカラン

 

[パールヴァティ渓谷]

 チャラス・フリークスにとって、マナリの奥の院のようなマニカランへ行くには、いったんクルまで下ってバスを乗り換え、パールヴァティ渓谷に沿って遡上するのである。
 時にはバスの車体が千尋の谷の崖っぷちからはみ出すようなスリル満点の悪路を数時間も揺られて、私たちは終点に到着した。そこから先は巨岩に阻まれて道路も人家もなく、マニカランの集落は対岸にあった。
 対岸に渡るにはバス停の脇にある一本橋を渡って、マニカランで唯一の3階建ビルの中を通過せねばならない。このビルはシーク寺院で、シーク教徒の巡礼宿であるが、地下には24時間オープンの無料の温泉プールがある。橋の袂(たもと)の河原からは、盛んに白い湯気が噴き出していた。(注)
 マニカランは標高2000メートル近くで、マナリとほぼ同じだが、標高6000メートル級の山々が遠望でき、4000メートル級の山には名前がないというほど空の広いマナリと比べると、V字型の谷底にへばりついたマニカランは空が狭く、午前10時ころ姿を見せる太陽は、午後2時を過ぎると西の尾根に姿を隠す。たった4時間程度の貴重な日照時間を、木造、スレート葺きの民家が百戸くらいの小さな集落の中に日だまりを求めて、私たちは日和ぼっこを楽しんだ。
 インドには、ホット、ホッター、ホッテストの、3シーズンしかないと言われるが、日和ぼっこを楽しめるインドもあるのだ。
 マニカランから更に1000メートル、標高3000メートルの聖地キルガンガーまで、山岳民の集落が点在し、大麻を栽培し、パールヴァティを生産している。大麻は標高3000メートル近くまで自生しており、標高が高いほど草丈は低くなるが、クオリティは高くなると言われている。
 パールヴァティとは山々の王者ヒマラヤの娘である王女ウマのこと。ウマはヨガの修行によってシヴァのハートを射止め、シヴァ神妃となり、知恵の神ガネーシャと、軍神カルティケーヤの母神となった。
 当時のマニカランにはまだホテルやゲストハウスの類は一切なく、フリークスは民家の納屋などを共同で借りていた。私たちも上流の土手の脇にある牛舎の2階の屋根裏部屋を借りて、10人くらいの雑居生活をした。ツヨシとオジヤのコンビ、恭之介と晶子のカップル、他に日本人が2、3人、イタリアやオランダなどのフリークスが途中から加わった。シヴァは共同生活を拒んで野宿していたが、そのうち「ダラムサラで待っている」と言って、独りで旅立った。
 ダライラマの亡命チベット政府があるダラムサラは、クルから西方100キロ余り、私も当然行く予定だったが、その前にパールヴァティのふるさとで、大麻道なるものを極めてみたかった。
 「ガンジャ吸いがガンジャ吸いに出会った時、抱き合って喜ぶように、神を求めなさい!」と、ラーマクリシュナは言った。大麻規制など全くなかった19世紀のインドでも、ガンジャ吸いはマイノリティであり、世間からは「変人、酔狂、気まぐれ者」という偏見や差別で見られていたのだろう。だからこそガンジャ吸い同士の出会いは喜びと感動に満ちていたのだ。それはパールヴァティを求めて、ヒマチャルを訪れる現代のフリークスにしても同じだった。
 同好の士とのすてきな出会いを求めて、フリークスは常に上等のパールヴァティと七つ道具を携帯していた。
 ○チロム(又はチラム)=粘土を焼いた筒型の喫煙具。黒色から褐色まで種々あり。象牙や大理石のものもあるがフリークとは無縁。
 ○サーフィ=フィルター用の布。水に浸して十分に絞り、チロムの吸い口を覆う。
 ○ストリング=吸い終わった後、チロムを掃除する布紐。
 ○ココナツ・プレート=チャラスとタバコを混合するためのココナツ製の小皿。
 ○小型ナイフ=チャラスの切断用。
 ○マッチ=ライターは決して使用しない。
 ○サランラップ=チャラスの保存用。ただし当時のインドでは入手不可能のため、ヨーロッパのフリークスが持ち込んでいた。
 他に道具ではないが、チャラスに混合する巻タバコが必要。匂いも味も弱い「パナマ」のような安物の巻タバコが使用されていた。

 [大麻道とは何か?]

 私の体調はますます悪化し、腎炎からくる両脚のむくみは更にひどくなり、足は重く、歩行はだるかった。毎日ツヨシやオジヤと朝の「ボム」を交した後、10分くらい歩いてシーク寺院地下の温泉プールに通い、朝湯にたっぷりつかった。硫黄泉のプールは広く、湯量も豊富で、日本人には適温だったが、インド人やヨーロッパ人には熱すぎるのか、日によっては日本人がプールを独占していた。
 温泉はもうひとつ、ヒンズー寺院にもあったが、狭くて堅苦しい感じだったので、私たちは専らシーク寺院の方を利用した。医者も薬もない辺境僻地での病気治癒は、チャラスの「ボム」と温泉だけが頼りだった。
 温泉を出ると数軒ある茶屋のどこかへ入って、チャイを注文して「ボム」をやった。茶屋には何処でもヨーロッパ人のチャラス・フリークスが陣取っていて、チロムを回しながら大麻問答に花を咲かせていた。例えばこんな風に。
 「このチャラスは標高何メートルあたりのものか?」
 「このチャラスは南斜面のものか、それとも北斜面のものか?」
 「このチャラスはジャングリル(野生種)か、バヒチャン(栽培種)か?」
 大麻道の実力比べというわけだ。しかし尻から煙の出るほど吸いまくって、チャラスの味や香りのデリケートな識別ができるものだろうか。鑑定師スンダルシンの話を聞いていた私たちにはマユツバものだった。ということは、大麻道なるものが必ずしも大麻という物質に精通することではないようだ。
 もともとインドに大麻道なるものがあったかどうかも定かではない。しかしインドではバラモンからダリット(不可蝕民)までが、儀式や瞑想や祭りにガンジャやチャラスを使用しており、禅仏教(臨済宗)に茶道がセットされているように、ヒンズー教に大麻道がセットされていても可笑しくはない。
 そのインドを訪れたフリークスが、大麻道のグルと崇(あが)めたのがサドゥである。世俗を放棄し、托鉢をしながら聖地を巡礼し、ガンジャやチャラスを吸いまくってヨガを修め、神との合一を探求するサドゥは家を持たず、家がないため大麻道には家元制度がなく、アカデミズムが育たず、正系と異端の区別もない。それは本質的にフリークなのだが、大麻道が神に到る道、即ち「カムナガラノ道」である以上、そこには瞑想に先立って儀式、セレモニーがあって然るべきであり、セレモニーのあるところには形式がある。大麻セレモニーの形式とはチロムに点火する前に、大麻の守護神であるシヴァに「ボム シャンカール!」と挨拶することだ。
 天地創造神話によれば、神々と阿修羅たちがアムリータを求めて乳海を撹拌した際、発生した毒から生きとし生けるものを守るため、シヴァはその毒を飲み干したので喉に青い痣(あざ)ができ、ニーラカンタ(青首)というあだ名がついた。転じてシヴァは信者の喉を大麻の毒から守ってくれるものと信じられている。従って「ボム シャンカール!」という挨拶には、「おおシヴァよ、死ぬまでガンジャが吸えますように!」という祈りが込められている。大麻道の奥義とは、まさに天然のヴェポライザーへの信仰である。
 形式に囚われることを嫌うフリークスが、サドゥから授かった単純きわまる大麻セレモニーは、瞬く間に世界中のガンジャ吸いに伝わり、60年代末にはチロムでなく、パイプやジョイントで吸う場合でも「ボム シャンカール!」はインターナショナルな聖音になったのである。

 [シャンボーババというサドゥ]

 湯上がりに立寄る茶屋のひとつに、シャンボーババという奇妙なサドゥがいた。少々パラノイアじみていたが、大麻に対する信仰という点ではずば抜けていた。サドゥに年齢はないが40歳前後か、サルのように敏捷な小男だった。
 彼は茶屋のカマドの前に陣取っていて、常に何人かのフリークに囲まれチロムを回していた。彼のカルマは回ってくるチロムが、チャラスのヤニで汚れていないかどうかをチェックし、もし汚れていればそのチロムを取り上げ、茶屋のカマドで焼いて「クリーニング」し、翌朝持ち主に返すことだった。
 彼はそのカルマから一切の報酬を要求せず、逆に自分の懐から上等のパールヴァティを取り出し、クリーニングしたチロムで一同に振舞うのだった。そのパールヴァティはシャンボーババを畏敬する山の民からのバクシーシーによるものである。
 パールヴァティがヨーロッパでブランド品になったことから、山の民もせこくなり、サドゥに対するバクシーシーも減ったというのに、シャンボーババの人気は大したものだった。あるフリークはシャンボーババが、山路をサルのように跳び歩くのを見たという。シッディ(大麻)による神通力(シッディ)の持ち主なのかも知れない。
 神通力か超能力かはともかく、シャンボーババは自分が旅してきた村や町の名を克明に記憶していて、問われればまるで呪文のようにそれを唱えてみせた。それはさながら世捨て人の足が繋いだこの世の数珠玉である。
 シャンボーババの大麻信仰は、ある日この辺ではめったに見かけない数人の若いインド人ツーリストが、茶屋でチロムを回していたシャンボーババと私たちを指さして、嘲笑したとたんにシヴァの怒りとなって爆発した。
 彼は鉄製の三叉の銛をとって猛然とダッシュし、呆然と突っ立っていた若者たち全員を一瞬にして打ちのめしたのである。大麻を侮蔑した者に対するシヴァの破壊の一撃である。
 若者たちは血を流し、うめき、這いつくばって逃げ去った。シャンボーババは振り向きもせず、顔色も変えず、何事もなかったかのように、呆気にとられている私たちの許へ戻ってきた。怒りはマッチの火よりも速く一瞬にして燃え尽き、大麻道のアシュラマは疑いもなく浄化されていた。
 「シャンボー」とはシヴァの尊称である。サドゥとは本来シャンティな人種であり、シャンボーババのような暴力を振うサドゥは少ない。後日、マナリのスンダルシンを再訪して、シャンボーババのことを話したところ、スンダルシンは1枚の写真を見せてくれた。
 そこにはシャンボーババが自分の舌に、刃渡り30センチくらいの短剣を突き刺している姿がアップされていた。両眼は刃に集中して、狂気をはらんでいた。
 「あのババも、こんなことで得意がっているようでは、まだまだだよ」
 と、ダライラマの信仰者は冷やかに言った。

 [屋根裏部屋の雑居生活]

 チェーン・スモークでチャラスを吸いまくっていると耐性がつき、どんなにクオリティの高いパールヴァティを吸ってもあまり効かなくなる。たまには1日か2日休んで、耐性を抜けば良いことを知っているのだが、チロムが回ってくるとつい手が出てしまうのだった。
 私の体調はますます悪化し、腎炎の他に慢性化した下痢が悪化すると、便所がないため川原まで降りていかねばならず、時には1夜に何回もごろた石の崖を上下せねばならなかった。酸欠のため呼吸は乱れ、一歩登るたびに一休みだった。平均45キロあった体重は30キロを割るくらいまでガリガリに痩せたが、不思議と生命の危険は感じなかった。
 一度風邪を引いて呼吸困難になり、オジヤとツヨシに交替で担がれて、保健所とやらへ行ってみたが、保健夫はハナクソを丸めたような丸薬をくれただけだった。2人の若者はまるで助さん格さんのように、御隠居さんの世話をしてくれた。
 雑居生活もしばらく続けると外食に飽きたので、ケロシンコンロを手に入れ皆で自炊を試みた。これに一番乗ったのはイタリア人のマッテーヨだった。彼は上流の洞窟に住んで、チャラス作りをしていたのだが、全財産を盗まれ、パスポートも金もない状態だったが全然気にすることなく、私たちに寄生していた。
 マッテーヨの得意とするのは「ニヨキ」というイタリア料理だった。小麦粉のパスタをパチンコ玉くらいに丸めて、それを親指でひねって押しつぶすのだ。このひねりが重要で、ひねりが効かないと味気ないとか。これに関してマッテーヨは厳しかった。私など何回もやり直しをさせられた。
 ニヨキは熱湯で湯がいて、トマトとニンニクのケチャップをかければ出来上がりだ。シンプルなわりには飽きない旨みがあった。みな暇だから、チロムを回しながら半日がかりでニヨキを作って食べた。
 チャラス生産者にとっては年に1度の収穫の秋は、チャラスを求めてやってくるフリークスをカモにするポリスにとっても、年に1度の荒稼ぎの時だ。週に1度か2度、地元クル警察署による山狩りが行われた。下方からそのニュースが伝わると、チャラス生産中のフリークスはいっせいに姿を消した。
 取締りの理由は「専売法違反」である。州政府経営のガンジャ・ショップで制限つき(20グラム程度)で販売しているチャラス以外は闇製品として、違反者からは罰金を取るのだ。(ただし当時は地元の山岳民は取締りの対象外だった)
 要するにポリスたちは私腹を肥やすために、山賊か辻強盗に変身して、チャラス・フリークスを襲うのだ。もちろんフリークスは民族も国籍も超えて、この無法に対して助け合った。
 ある晩、私たちの部屋へスペイン人のフリークがやって来て、1キロ近いパールヴァティを出し、相場で買ってくれという。実はフランス人の友人と1キロ分のパールヴァティを仕入れ、ゴアへ行くつもりでバスに乗ったところ、クル警察の検問に逢い、2人共パクられてしまったのだ。
 警察は営利目的と見なし、高い罰金を請求してきたが、彼らはあくまでも個人使用だと主張した。しかし警察は個人使用にしては量が多すぎると言って信用しなかった。そこで2人は自分らの吸い方は半端ではないことを証明するため、取調べ官たちの前で延々とチェーン・スモークを演じ、取調べ官たちを呆れさせ、納得させ、結局罰金は残った1キロ弱のチャラスを売った分でオーケーになったという。ポリスたちもたっぷり効いていたに違いない。
 かくて、フランス人の友人を人質に置いて、スペイン人のフリークはチャラスを売りに出てきたのだ。そこで何人かが金を出し合い、それを買い、フランス人のフリークを救出したのだった。

 [復活の兆候]

 マッテーヨを通して、私たちは沢山のイタリアン・フリークスと親しくなった。マナリにはフランス人が多かったが、マニカランはイタリアン・コロニーという感じだった。みな愉快な連中だった。茶屋や日和ぼっこの場でチロムを交して、英語とヒンズー語とイタリア語と日本語をチャンポンにした「即席マニカラン語」で、大麻事情を語り合った。イタリア人に限らずフリークの大半はいま、クリスマスを前に1キロ程度のパールヴァティを、自国に運ぶ算段をしていた。
 クリスマス・プレゼント用にブランド品のパールヴァティの値が高騰するから、1キロ運べば1年分の生活費とインドまでの旅費が稼げるのだ。
 こちらが問えば、運び屋たちは各国の税関の状況(イヌがいるかどうかなど)や、買い手の連絡先などを教えてくれるが、運ぶ方法については決して語らなかった。例え成功しても同じ手は2度と使わないのが鉄則だとか。靴の底とか民族衣装、楽器や工芸品などに仕込む方法は、インド人の職人に頼めばやってくれたが、確実性はなかった。サランラップに包んで飲み込む方法は当時から行われていたが、3〜500グラムが精一杯で、1キロ飲み込むヤツは相当の巨漢だと聞いた。失敗した運び屋の例は国境を越えて語りつがれ、貴重な教訓とされた。
 ところで当時のチャラスの相場など忘れてしまったが(1ルピーが何円だったかも憶えていない)ただ日本へ運べば、末端価格で100倍になると言われていた。当時の日本のチャラスの値段を、1トーラ(約10グラム)=3万円とすれば、ヒマチャルの値段は300円程度となる。
 チャラスの生産は1人1日1トーラ程度、2トーラ作る人はよほどの働き者と言われた。山の民が1日野良で頑張って、せいぜい数100円の現金収入である。私たち雑居族は毎日数トーラを消費していたから、日本で吸えば10数万円の道楽ということになる。
 さて、愉快な仲間に恵まれて、温泉と日和ぼっこの「ボム」療法は、1ヶ月もすると脚のむくみも少しづつ引き、体調は回復に向かっていた。
 大麻には循環系や呼吸系を弛緩させる作用があり、風邪で痰がつまった時などは、気管支を開いて、呼吸を楽にしてくれる。また抗癌物質など大麻に含まれている多様な微量要素には、未知なる薬治効果があるに違いない。昔から大麻が喘息の特効薬とされた由縁である。
 復活の兆しを感じたのは日和ぼっこの時に食べたリンゴである。インドではめったにリンゴにお目にかからないが、マニカランのリンゴは蜜がいっぱいで物凄く美味しかった。食べながら「これは本当にリンゴなのか?」と再三確かめたほどだ。その果汁は神々の飲み物アムリータのようだった。そしてこれを食えば病気は治ると確信したのだ。
 体調の回復は猛烈な食欲となって現れた。痩せ衰えた筋肉を復活させるためには蛋白質が必要だった。しかしヒマラヤの渓谷には、イワナ、マス系の川魚はいない。動物性蛋白質といえば、たまに食堂で食わせるマトン・カリーくらいなものだった。
 山羊は毎朝100頭を越す群れが、下方からマニカランの集落を通過して、上方の餌場へ行き、夕方になると山を下って集落に黒豆のような糞をまき散らしながら帰って行った。マトンは旨かったが、冷蔵庫のない世界ではいつでも食えるわけではなかった。
 この数年来、奄美大島で集団網漁に参加してきた私は、ムロアジなどを常食にしてきた。また10年前には肝炎を患った相棒の静養のため、ゴアへ行って毎日アジを食ったように暖かい南の海辺へ行って魚を食いたいという願望に、私は支配された。
 ダラムサラで待つといったシヴァのことも気になったが、どうせ一期一会の旅人同士だ、縁があればどこかで再会するだろう。
 12月はじめ、マニカランを発つ日は初雪が降った。ツヨシとオジヤとはデリーのツーリスト・バンガローでの再会を約束して、マッテーヨと一緒にデリー直行バスに乗った。2人共ほとんど文無しで、チャラスも少ししか持っていなかったから、クル警察の検問も平気だった。2ヶ月ぶりに俗世へ戻る感じだった。
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(注)シーク教 16世紀ムガル帝国最盛期にイスラム教でもヒンズー教でもない新興宗教として、教祖ナナークが開教した。男は大きなターバンを巻き髭もじゃ、酒もタバコもガンジャもやらず、体格が良く、軍人、警官、タクシーの運転手に多い。弾圧と迫害に耐えてきたパンジャブ州の分離独立運動は、1984年6月、アムリツァールのシーク教総本山黄金寺院を、ガンジー首相によって武装侵攻され、多くの犠牲者を出した。それから3ヶ月後、ガンジー首相はシーク教徒の警備兵によって暗殺された。


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