‥‥日本でも今、ボランティア活動が盛んになってきていますが、新しい本『ハウ・キャナイ・ヘルプ?』で一番伝えたいことは何でしようか。
ラム・ダス● 人が他の人を助けたり、もしくは地球を助けたりするのは、様々な理由があります。それはすぐにも関わる必要のあるようなニーズを満たすこともあるかもしれません。でもその中で、深い悲しみの原因に至るような関わり方をしていることは、ほんとに少ないわけです。例えぱ、私があなたに食べ物をあげる時に、私とあなたの間にある分離がもっと広がるような形であげるということも可能です。でもその場合、おなかがいっぱいになっても、あなたのハートは閉ざされてしまいます。ですから、他の人にとって役に立つと同時に、自分自身にとっても役に立つという両方がとても大事だと思います。もし自分がいい人間だということを感じたいために他の人を助けるとしたら、その相手に「自分は助けが必要な人間だ」と思わせてしまうことになります。ところが一番深い真実というのは、私たちはみな助けを必要としており、同時に助けができる人間でもあるということです。ですからボランティア活動をするとしたら、そのプロセスの一部として、自分自身を知るということが必要だと思います。そうすることによって、その人のやり方が、何物にも執着していない場から出てくるということになります。
‥‥難民の援助もされているそうですが、政治的な活動をしている人たちは、こういう砒判をするのではないかと思います。つまり「難民が生み出される根本的な原因を解決しないと、いくら援助をしても難民がいなくなるわけではなく、対症療法にすぎない」と。その考えについてどう思われますか。
ラム・ダス● 私はこの二つの課題に対して、同時に働きかける必要があると思います。難民を助けることによって、その苦しみを和らげるためにすぐにでもとれるアクションができますし、難民問題の真に根本的な原因を解決するために政治的な課題に取り組む必要もありますし、同時に内面の作業をする必要もあります。現代における難民問題の多くは、人種的な偏見から来ます。アフリカもイスラエルとアラブ、東ヨーロッパでもそうです。私たちは人権という観点から見て、できる限り少ない(最小の)苦しみの状況であるように、常に目を光らせている必要があると思います。例えぱイスラエルとアラブの間の抗争についてもそうですが、問題の真の原因は非常に長い歴史を持っており、かつ恐れに根ざしています。そのため、私たちはそういったテーマについても目をとめる必要があります。ある人が私に言いました。「私たちがお互いに一緒に働くことができるようになる前に、お互いに嘆きあうことができなければいけないだろう」と。
‥‥それは共感し合うということですか。
ラム・ダス● その通りです。つまり相手の側が、自分が理解され、自分の言っていることが相手の耳に届いたと感じられるようになるまで、充分そういうことが行なわれなければいけないと思います。
‥‥そして同時に、政治的な働きかけも大切だということですね。
ラム・ダス● そうです。もちろんそういう行為は困難でありやりにくいものでもありますが、ほんとにそれは必要です。政治というのは、あたかもその社会をリードしていくように思われがちですが、実際はその文化の持っている病いを表現していることが往々にしてあります。そして政治家は、しばしば力の構造の中にはまってしまうわけです。彼らが変わるのは非常に難しいことです。ですから、政治的制度の外にモデルを作り出す必要のあることがあります。その外側のモデルに影響を与えることによって、自然に政治にも浸透していくようなやり方です。私はその両方に働きかける必要があると思います。
‥‥外側のモデルとは?
ラム・ダス● 政治的なシステム、社会的な制度の外に、意識的なコミュニティーを作る必要があるかもしれません。つまり、自覚的に、しかも責任を持って、そして維持可能なコミュニティーを作るということです。
‥‥それは例えば、昔いろんなコミューンがありましたが、そういうものとか、生協のようなもののことですか。
ラム・ダス● はい、私もそういうヒッピーコミューンの中で暮らしていたことがあります。それは自覚的なコミュニティの一つのタイプです。場合によっては、自覚的なコミュニティというのは、宗教的な哲学をべ一スにして作られることもあります。また社会的、経済的な目的をもって作られることもあります。例えばイスラエルのキブツの運動は一つの例です。
環境問題の活動家たちがバーンドアウトするのは
自分自身の痛みや怒りにひっかかってしまうから‥‥
‥‥政治的な活動とか社会的な正義を求める活動、例えぱ環境保護とか反原発等、そういう活動もボランティア活動と同様、自分の目覚めの道とすべきだと思われますか。
ラム・ダス ●全くその通りです。例えぱセーヴァ・ファウンデーション〈*〉のプロジェクトの一つに、バーンドアウト(燃え尽きた/疲れ切った)環境活動家のためのワークショップがあります。彼らの行動はあまりにもフラストレーションを生むようなやり方をしているために、往々にして自分自身を破滅させてしまうようなやり方をとるわけです。こういった環境保護とか社会的正義を求める行動は、とても長期にわたる活動が必要です。そして多くの失敗があり、フラストレーションを伴います。ですから、そういった状況に対応できるような自分の内面的な気づきを育ててゆくことが緊急な課題です。
ヒンドゥー教のバガバッド・ギータという経典では、このことについて語っています。人は自分のとる行為の結果に執着せずに、完全に純枠な意識を持って成さなければいけない、というものです。私は原子力というものが無くなるように最大限の努力をする一方で、自分自身のハートが純粋な状態に保たれるように努力をします。それが実際にすぐ核を無くすことにつながるかどうかは、私の個人的な範囲を超えた問題ですが、その人ができる最大限のことをするしかないと思います。私は、こういった哲学は、日本ではとてもよく理解されていると思います。
‥‥では、活動家がバーンドアウトする理由は、自分自身を見つめること忘れて、バランスを失っているということですね。
ラム・タス● そうです。自分自身の怒りの中に閉じ込められてしまうのです。彼らはその状況に関して起きている自分自身の痛みの中にひっかかってしまうのです。でもその怒りや痛みは、彼らのやっていることに何の役にもたちません。彼らはどうやってそれに対応していいか分かっていないのです。
‥‥ディープエコロジーの運動があります。ディープエコロジーでも様々なワークショップを行なっていますが、その方法についてどう思われますか。
ラム・ダス● たいへんパワフルなワークショッブだと思います。人間というアイデンティティを超えて、地球であるとか木とか風といったものと同一化する助けになるようなものだと思います。私はジョン・シード<*>のことを非常に尊敬しています。というのは、彼は森林の破壊を止める活動家でもあるんですが、同時に自分の内面に対して一生懸命に働きかける人でもあって、バランスをとって自分の中に静けさとか落ち着きを取り戻すということをやっている人です。
‥‥日本でも今、エコロジーという言葉が広く知られるようになってきました。でも、人間にとって都合のいいエコロジーというものも多いと思います。例えぱ「持続可能な開発」という言葉が流行語のようになりましたが、それは人間が自然を資源として利用するという考えだと思います。
ラム・ダス● 最も進んだ意識の観点からすると、システムの中にあるあらゆる要素が同等の価値を持っということです。木や川や鳥や魚や、そして人間も、すべて同等の価値を持っているわけです。しかし人間中心に考えている人が、少しエコロジカルな意識を持つということは、ある意味でスタート地点としてより持続可能な社会へと向かうきっかけにはなるかもしれません。つまり、そうなると当然、木や魚に対して心配りをするような姿勢がより必要になるわけですから。それはまあ深遠な考え方ではありませんけれども、それでも必要な方向へと導く助けにはなると思います。
断崖に向かって突進している牛の群れを、馬に乗り、先回りして方向を変えようとしているようなもの
‥‥自然保護などの市民活動をやっている時に、よくぶつかる問題があります。特に日本でクジラの保護について話す時に、おまえだって牛肉を食べているだろう、偽善的だ、というような反論が来て感情的な論争になってしまうことがあります。こういった問題をどう考えたらいいと思いますか。
【右段中ごろへ続く】